2005/06/04(Sat)
がっつりジャグリング
今日は久しぶりに、がっつりジャグった。お昼は新宿中央公園のナイアガラの練習に参加。夕方からはマラバリスタ。1時から9時まで8時間! といっても移動や休憩、立ち話の時間をのぞくと実質4時間ぐらいか。
がっつり練習したというより、いろんな人と出会えて、話せて、それが楽しい。ネットでだけ知ってるジャグラーとはじめましてで挨拶したり、アドバイスをもらったり。16歳ぐらいの子でも、ジャグリングの話となると、よく通じる。ジャグリングのうまい人というのは、ジャグリング界のこともよく知ってて、どこの国にどういうジャグラーがいて、その人が、いまどういう道具を使って何を練習してるかなんてことも知ってたりする。
夜はマラバリスタの練習に飛び入りで参加したアメリカ人と渋谷へ。屋台のシシカバブとコンビニのチューハイで晩ごはん。旅行関係の雑誌のライターだとかで、ぼくより1歳年上の35歳。ジャグリングの話、結婚生活の話、雑誌記事の書き方の話、お酒の話なんかで共通の話題がたくさん。
ジャグリングの話が参考になる。彼は12歳でジャグリングをはじめて、20代では9ボール(!)も、そこそこ投げられたという強者。一時期はクルーズ客船でプロのジャグラーとして稼いでいたのだとか。週に2度、1回1時間半のショーをやって週給1500ドル。全然悪くない。というか、並みのビジネスマンよりいい稼ぎだ。やればやるほどギャラが上がって行くというし、何でそんなにおいしい仕事をやめちゃったのか聞いたら、こんな答えが。「やっぱね、飽きちゃんだよね。毎回、毎回同じショー。それもね、自分がやりたいジャグリングじゃないんだよ。ご老人客が喜ぶようなジャグリングだしね。わかるでしょ、ジャグラーってさ、難しい技をやりたくなるもんだけど、ノンジャグラーにウケるジャグリングって、必ずしも難易度がどうこうじゃなくて、見栄えするものとか、コミカルなものなんだよね。だけど、もうそういうのはいいやって。自分のため、自分が楽しめるジャグリングだけがしたくなったんだよ」。
2005/06/06(Mon)
『こころ』って手放しでほめるようなもんか?
夏目漱石『こころ』(新潮社) 380円 ISBN-410101013
『大正時代の身の上相談』(ちくま文庫)という本を開いたら、いきなり出て来たのが結婚の悩み。うら若き乙女が、日本初の大衆メディア上の身の上相談となる読売新聞の投書欄によせて言う。好きでもない男に接吻されてしまった。自分は汚れてしまったのだろうか。だとしたら、結婚を申し込まれている男と結婚できない。汚れているのなら、もう一生、独身で過ごすつもりだ。
人間の悩みなんて時代や場所が変わっても、そうそう変わらない。そういう言葉は、「人類には普遍的な悩みがある」という興味深い真実を指摘しているという点を評価するとしても、とんでもない嘘っぱちと言わねばならない。時代や場所によって明らかに価値観は大きく変わる。
「変わらないんだよ」という主張は、自分が生きる時代は過去に一度としてなかった時代で、自分の経験している悩みというのが、人類史上自分がはじめて経験するものであると考える浅はかな人間にたいするショック療法における電気ショックのようなようなものでしかない。
『こころ』を読んで、その深さに感動しましただの、普遍的な友情と愛情の葛藤を描いた日本文学史上の最高傑作ですだのと、判で押したような決まり文句で讃辞を、手放し鼻たらし状態で並べるアマゾンの書評子たちは、どうにかならないのか。自殺したKに自分の姿を重ねた、などとぬけぬけと。じゃあ、死ねよ(笑)。たった1度の失恋で死んでみろと言いたい。そんな素朴さが平成の時代に残ってるとしたら、そんなのは、よほど天然のバカだ。いまならKの失恋なんて失恋の部類にも入らない。
発表当時には絶賛された小説かもしれないけど、漱石が生きた当時の文化的背景を思い浮かべずに、こともあろうに平成の己の姿に重ねて読んで、それで何で絶賛できるのか、よくわからん。そこにはソーセキコプレックスと呼ぶべきものがあるんじゃねーのか、と。中学生のとき読まされて、イヤになってるんだ、みんな。子どもに面白いわけないんだよ、こんな小説。まして、昭和や平成の子どもに。それを(おもに頭の悪い国語教師あたりの)大人が絶賛するもんだから、「感動した」と言わないと気が済まない。
なんだよっ、王様は裸じゃないか。裸なのを裸と言えないブンガクかぶれが、ぼくは嫌いだよ。ぷんっ。いったいキミは文字が読めるのかと聞きたくなるような文章力のヤツに限って「ほんとにおもしろかった」とうそぶいている。「深いコト考えてるフリ症候群」と呼んじゃうぞ。
緻密なプロットや伏線とかいうけど、現代の作家のほうが、よっぽど巧緻な作品書いてるんじゃないのかと思う。ワープロを使えば、何度もリライトして複雑なプロットを破綻なく構築できて、登場人物もいくらでも書きわけられちゃう時代だし。人物描写や心理描写の繊細さは、さすが文豪だとは思うおもしろさがあるけど、ストーリー展開のあちこちに「なんでそうなるの?」的な無理さがあるんだもんなぁ。作品中の先生がいみじくも言うように、時勢の推移はいかんともしがたい。「私に乃木さんの死んだ理由がよく解らないように、あなたにも私の自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません」。
Kが死んだのは世間知らずでウブなだけ。先生が妻に秘密を打ち明けずに自殺を選んだのも、甘ったるいロマンティシズムとしか思えない。自責? 笑わせるよなー、人間なんて、もともと罪深い生き物じゃないか。他者を不幸にする権利は今も昔も誰にもないが、他者の不幸が不可避なとき、それにいちいち感応していたら、生きられないのが現代だ。
うーん。いや、なんか違うな。人間の感情も含めたストーリーというものが、現代では、深刻であればあるほど、もはやパロディ的にしか感じられないのかもしれない。何もかも戯画っぽく感じられる。
紙の本でも買ったけど、けっきょく青空文庫のテキストをダウンロードしてエディタで読了。60桁(30文字)で折って読んだらいい感じだった。
吾妻ひでお『失踪日記』(イースト・プレス) 1197円 ISBN-4872575334
ずいぶん話題になってたので読んでみた。終わることのない締切り苦から逃れるように失踪したマンガ家による、8年にも及ぶ失踪時代の自叙伝。ホームレス生活、アル中入院生活時代は基本的にはヒサンだけど、悲壮感どころか、爽快感すら漂う。笑える。しりあがり寿の『真夜中の弥次さん喜多さん』にははるかに及ばないけど、どっかしら不気味な世界観もちょっぴり。なんたって実話ベースだから。いや、実話ベースにしては迫力に欠けるのはなぜだ。
ホームレス体験談といえば、数年前に話題になった松井計『ホームレス作家』(幻冬舎アウトロー文庫)を読んでみたくなった。絶対にできないんだけど(と、「絶対」という文字を書いておかないと心配されそうなので書いておく)、ホームレスってちょっとやってみたいよな。
2005/06/09(Thu)
どうでもいい本、どうでもよくない本
ジャグリングのしすぎで読書時間が減ってるし。
水越伸『メディアビオトープ---メディアの生態系をデザインする』(紀伊国屋書店) 1575円 ISBN-4314009772
装幀といい、タイトルといい、使っているメタファーといい、すごく胡散臭い本に見える。何とでも言えることを、ポストモダンっぽい用語で飾ってるだけの無意味な本。具体的な提言がなく、ただ言いっぱなし。そんな印象をもっちゃうんだけど、水越さんって雑誌やテレビ、ネットで見るかぎり、すごく鋭い議論を展開していると常々思っていたので読んでみた。世紀単位の大きなメディア史の流れというマクロな視点と、10年単位の技術の変化というミクロな視点を自在に行き来して、いろいろな絵を描きつつ、ぼくらを取り巻くメディアの意味、その本質を、ぐいっ捉えてきて見せてくれるような、そんな本だ。戦後メディアの歴史をラフに振り返る前半がたいへんおもしろく、勉強になった。現代人にとってメディアは自明の環境のように感じられるので、たまには視線をぐっと引いて眺めてみないと、メディアの持つ意味なんてわからないってことだろう。
田舎育ちで雑木林や河川湖沼といった自然環境になれ親しんだ著者は、マス=メディアのあり方を生態系になぞらえる。戦後日本の4大マスメディアと、それを取り巻く広告業界までを含めてメディアの「55年体制」と呼び、それを巨大に成長した杉が立ち並ぶ杉林にたとえる。杉林が繁栄を謳歌するいっぽうで、吃立する大木の蔭で小さなメディア、オルタナティブなメディアが窒息状態にあると指摘する。日本の植林政策が杉一辺倒で、いまや全国に花粉症という弊害を引き起こしているのと似たようなことが、このメディアドームに暮らす人々に情報麻痺を引き起こしている。日本ほど全国民が中央から発信される同じテレビを見て、同じ新聞を読んでいるような国や地域はほかにない。産業としてもいびつ、民主主義を支えるインフラとしてのメディアという見方からしても好ましくない。人々の欲望におもねる番組ばかりが増え、たとえばイギリスのBBCのようなパブリックインタレストにかかわる番組が出て来ない。メディアとは何であるのか、何であったのか、あるいは何でありうるのかという想像力を欠いた人々は、もはや自らがメディアにかかわって活動しようなどと思わない、メディアリテラシーのない、ただ情報を欲望のままに無批判に受け入れる人間になってしまう。左翼も右翼も一様に、自分のお気に入りのメディアにいいようにあおられつつそのカタルシスを同時に提供されて、それを消費するだけ。
この本は暗喩にすぎないと前置きしてる著者だけど、けっこう後半の提言は具体的だし、実際に活動を行なってもいる。メディアが活性を取り戻すための著者の処方箋のキーワードが「ビオトープ」。ビオトープとは、飛び地的に存在する自然環境のこと。昆虫や小動物というのは特定の自然環境に成育するというより、ネットワーク的に存在している小さな生態系の連鎖をホップしながら生きている。失われた自然を都市部に甦らせるために、いきなり1つ池を作っても実はダメで、小さな自然をあちこちに同時多発的に作り、昆虫や鳥が、そうした小さな自然のあいだを自由に行き来できるようにしてやることでようやく生態系というのは機能しはじめるという。それと同じことをメディアでもやればいい。
と、そこまで読むと「それってブログのこと? 市民メディアとかのこと?」と、ちょっとゾッしたけど、まあ、、、インターネットは重要な役割を果たすんだろうなぁ。水越さん自身はメルプロジェクトというのをやってるらしい。
山田真哉『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?---身近な疑問からはじめる会計学』(光文社) 735円 ISBN-4334032915
タイトルの勝利。ていうか、思いきりだまされた。入門にもならないような当り前の足し算引き算の話が延々と。さおだけ屋の秘密は、こうです。「さおだけの単価は安いけど、実は修繕工事費や、同時に売りつけるその他の商品で稼いでいる」。「実はさおだけ屋は近所の金物屋。もともと配達で走り回ってるトラックが、あるときついでにさおだけ要らんかねとスピーカーで呼びかけるようになった。元手はゼロで宣伝にもなるし、売れればもうけもの」。ここから著者は2つの重要な結論を引き出す。利益を出すためには「売り上げを増やす」「費用を減らす」。これを著者は「知っていると得する知識」だと言う。20ページも費して、もうね、アホかと……。
NISHIMURA Ken <nis@bigfoot.com>