2004/02/01(Sun)
小さな驚き
「世界中の知が集結する学びと創造の空間」というのは気恥ずかしい誇張というほかないキャッチにしても、六本木ヒルズ森タワーの49階にある
六本木アカデミーヒルズは、ちょっといい空間だ。1500円も取られる展望台の東京シティービューと、たぶんさして違わない眺望が目前に広がる広々としたカフェでは、ちょっとスノビッシュな人々が本を読んだり何か書き物をしていたり、パソコンを広げていたりする。月会費が6000円もする、ちょっとヤな感じの図書館だけど、それだけのことはある。
比較的本好きなほうなのに、ぼくは図書館と古本屋にあまり縁がない。金銭的理由がなくなったとき、古本屋も図書館も、利用する意味が消えてしまったように思った。むかしからヨーロッパでは「本とCDと花は人に借りてはいけない」というし……。いや、CDなわけがない。「本と花と女」だったような気もする。「本と花と女は人に借りてはいけない。ただし、自分がそれをいちばん愛する自信があるときには、自分の手元に盗ってきてもいいのだ」。
カフェやライブラリー、ショップ、カンファレンスルームといった施設に囲まれるように、フロアの中央には小さく区切られた空間がある。壁一面が本棚となっている、そう広くないその読書室には「グレートブックス」とこしゃくな名前が付けられている。蔵書のほとんどは名著、古典の類。どの棚を見ても「ああ、ずっと読みたいと思っていた」という本が数冊はある。どの棚にも1冊ぐらいは自分で読んだ本がある。本当の本読みが見たら「個性のないツマンナイ本棚だね」というのかもしれない。
部屋はかっこいい。いわゆる図書館のようなかび臭さはない。完璧な空調が音もなく温度のことも湿度のことも忘れさせてくれる。ほどよく品も座り心地もよい椅子。休日なのに混雑からはほど遠い、静かな空間。天井まで本棚が続く妙に縦長の空間を、トーンを落とした柔らかい暖色系の光が満たす。
 | 天井まで続く本棚。でもスカスカだ。 |
小さく整然と区切られた無数の棚には、観葉植物や茶筅といった装飾用の小物に混じって、鍵のかかった稀覯本や、明らかに陳列目的でしかない「ショモツ」もある。古めかしいドイツ語で書かれたショモツをひもとくと、ああ、グーテンベルク聖書って確かこんな版ヅラだったよなというページが広がる。ちょっとスノッブだよ、恥ずかしいよ。
「東京−江戸周辺地図総覧」「かなの美」「江戸草子本」など、巨大で高価な本を開いてみる。自分の中に、こんな嗜好もあったのかと驚きながら、ぼくはすぐにページに夢中になった。江戸や明治の地図や資料から読みとれるもののなんと楽しいこと! 平安時代の万葉仮名の美しい世界! 墨画で語られる江戸時代の桃太郎の新鮮さ!
現代から明治時代を経て江戸時代にまでさかのぼれる古地図は、1ページ繰るごとに時間のなかを旅するような不思議な感覚。よく知っているいつものあの場所、聞いたことのある歴史的な名所が、次々と鮮やかに目の前に広がる。近代西洋の遠近法や正確な縮尺といった写実的な画法に毒されている目には、パースが狂ったように見える船の絵や寺の絵がとても新鮮。
大きくて重たい古地図集は、椅子に取り付けられた小さなテーブルには載りきらない。椅子をふたつ並べて、食い入るようにふたりでのぞき込む。冬休みの課題について調べモノをする高校生か何かのように、声をひそめて。ページを繰るごとに飛び出す小さな発見と驚きを共有する楽しさ。小さな驚きの数々を、その場で共有できることのうれしさ。
2004/02/02(Mon)
弱者
「情熱の大半には、自己からの逃避がひそんでいる。何かを情熱的に追求する者は、すべて逃亡者に似た特徴を持っている。情熱の根源には、たいてい、汚れた、不具の、完全でない、確かならざる自己が存在する。だから、情熱的な態度というものは、外からの刺激に対する反応であるよりも、むしろ内面的不満の発散なのである。」(エリック・ホッファー『魂の錬金術』)
これを、ぼくはどう読めばいいのだろうか。いきなり殴りつけられるような、そんな感じのする言葉が次々と並ぶ。ホッファーは社会的弱者であったかもしれないけど、自分の弱さ、人間の弱さを正視できる強い人間だったんだろう。皮肉や自嘲でごまかすのでもなく、他人の弱さを暴き立てて得意になるでもなく、淡々と人間の心の動きを透徹した論理で綴る。
言葉に定着された魂の法則を凝視することは、救いにつながるだろうか。
1930年代に世界を覆っていた不穏な空気が言葉に染みついているのだとしたら、額面どおりに受け取らないほうが、むしろ身の安全をはかれるというものじゃなかろうかという気もする。
2004/02/04(Wed)
「「実行する自分」を計画する自分」を再考する自分
時間が取れなくて何かをあきらめているというのはありえても、時間がないので何かができずにいる状態を不満に感じるのは少しおかしい。「やりたいんだけど時間がない」「やろうと思うんだけど時間がねぇ」というとき、だいたいその人の1日のうち1時間や2時間はくだらないことに費やされている。「くだらない」は語弊がある。本人が本当にそれを優先してやりたいと思っているかどうか、という観点で見たときに、実は優先順位が低いことをやってしまっているものだ。疲れてぼんやりするからと言って、テレビの前でぼんやりくだらない番組を30分も1時間も見てしまうこととか、目的もなくウェブを見続けることが、本当にやりたいことなのかというのは、常に意識していなければならない。家計簿をつけはじめた人が自分の無駄遣いに驚くのと同じように、人は「時計簿」をつけて、自分の生活の無駄に驚くべきなのだ。集中すれば1時間で終わらせることができるのに、1時間半かけてはいないか。
テレビを見ることは悪くない。ぼんやりと考えごとをする時間も悪くない。ただ、そういう時間も「必要」だと自分で認めて予定に組み込むべきということだ。本当に時間を割く価値があると、自分で思っているかを意識しておくべきだ。
自分が持つ時間は有限だから、それをどう配分するかという段階で「時間が足りない」という状態はあり得る。やらなければならないことは多い。やりたいことは、もっと多い。
思ったよりも何かに時間がかかるということも、よくある話だけど、それは予測があまいというもの。余裕を持って計画を立てないのがまちがいだ。自分が何をするのに何時間かかるのか、ということを日ごろ観察していれば、予測というのは精度を増す。拙速のほとんどすべては、1時間でできると思う仕事に2時間の予定を当てないことに起因する。準備や移動といった物理的ロスを組み入れないから走り回ることになる。バタバタと見苦しく忙しく動き回ったところで効率なんて変わらないのだから、忙しいときに本当にやるべきことは、時間配分を見直すことと、丁寧に、それが必要とする時間を必要なだけかけること。
予定がしっかりしていれば、「密なスケジュール」はあっても「気ぜわしい」という感覚は起こり得ない。客観的にスケジュールが詰まっていても、本人は満足して予定をこなすだけ。不満なら予定を変える。不満なら行動を変える。そういう時間の見直しもせずに「時間がない」と言ってはいけない。自分が何に時間を使っているかも知らずに「忙しい」などと言ってはいけない。
時間配分は本当はとてもむずかしいことだから、時間配分をどうするかということについて毎日よくよく時計簿を見て考えたほうがいい。しなければいけないこと、自分がしたいこと。やりたいんなら時間を割く。そのために何が必要かも考えず、行動も起こさないでおきながら「時間がない」と言い訳をしてはいけない。
もう2年以上も中国語を勉強したいと言っているのに、入門書を2冊買っただけでぼくは何も始められないでいる。2カ月も前にドメインを取ったWebサイトは、いまだに「under construction」で少しも準備ができていない。これはどちらも「時間がないから」じゃない。どちらもぼくの予定に入っていないから。ただ、それが本当にぼくの選択なんだろうかというと、そんな気もするし、どうもちがう気がする。たぶん、この曖昧さが「時間が足りない」という不毛な無力感につながっている。自分で計画した上、どちらもぼくの予定から漏れたというのなら、それは確かに自分の選択だから納得できること。少なくとも「やりたいのにできない」などと不満げに言うこともないし、「忙しくてさぁ」などという意味のない言葉を口にする必要もなくなる。
もう少し、ちゃんと自分の生活をコントロールできればと思う。どうすればいいんだろうか。
「計画する自分」「実行する自分」をわけるだけじゃなく、「「計画する自分」を見直す自分」というモードに、もう少し時間を割くべきだ。自分の思考や行動のモードを4つぐらいにわけて、いま自分がどのモードにあるのか、どのモードに移行するべきかを、もっと意識したほうがいいのじゃないだろうか。1日のうち、どのくらいの時間を各モードに割くべきかを考えるのが、もっとも高次のモードということになる。
そうやってモードをより明確に意識することによって、もっとも低レベルのモード「実行する自分」のパフォーマンスはあがる。当然そこが全体の8割の時間を費やすところだから、ここで効率が1.2倍になれば、それだけで1日に2時間ぐらいは楽に捻出できることになる。だから、最低レベルからひとつ上のモードに1時間かけるということは、実は思っているほど無駄な時間の使い方ではない。
モードの遷移を曖昧にやっているからモード同士が足を引っ張りあって、ぐずぐずしてしまう。無心に集中力を発揮して実行すべきときに、ぐずぐず反省していたり、反省すべきときに中途半端に焦った行動をしてしまうのはまずい。同じように、大きな視点で自分の時間配分や方法論について考えるべきときは、そのことに意識を集中するべきだし、そういう時間があったほうがいい。
とはいえ、本当にやりたいことなんて実は少ないもの。人生で、やらなきゃいけないことなんて、そもそも何ひとつない。それ以外は余興みたいなもんだから、できないことについて不満や無力感を持つことはない。何かひとつでもできたなら、それで満足したって、それでいいじゃないか。
2004/02/05(Thu)
バカの壁300万部
いくら何でも売れすぎでしょう『バカの壁』。もともと主張が単純で無手勝流っぽいのが養老さんの魅力だったけど、100万部を超えて類書やら、どうでもいいエッセイやらを書き出すようになってからの養老さんはおかしい。「このごろすこーしヘンよ、どーしたのーかーなー?」と思っているのは、ぼくだけ? いや、本人はたいして変わってなくて、周囲が変わっただけか。
47刷300万部ってどういうことだ。こんな本を読んで「そうだったのか!」などと喜んでる単細胞バカが日本に300万人以上いるってことだ(笑) その状況がおそろしい。日本には互いに互いをバカだと思う、バカばっかりの国ってことだ。休み休み売れていたころは養老さんも「おもろいオッサンや」だったけど、増刷り増刷り、類書乱発、メディア露出しまくりじゃあ、バカも休み休み言えって感じだ。
そもそも書いている養老さんが、ぼくは専門バカに見えてしょうがないんだけど。宗教学、社会学、経済学、文学と平気で越権行為をしてずばずば発言する姿は、専門のタコツボにはまりがちな日本の理系研究者のなかにあってかつては頼もしくみえたけど、調子に乗せられた結果、あらゆる専門外の分野で踏み外しまくった発言を繰り返す今の姿は哀れだよ。
大脳生理学者、解剖学者としての養老さんの魅力は「みなさんね、脳のことを語るし、デカルト的な議論なんかもやりますけどね、実際に脳をご覧になったことありますかっていうんですよ、ほら」と、ふだんから脳を持ち歩いたりしちゃうような、実物のすごみを持っていること。養老さんと仕事をしたことのある元上司がビビッてたけど、研究室に行くと、頭蓋骨がごろごろしてて夏目漱石の脳みそまであったりするらしい。で、楽しそうに「頭を割って脳を取り出す方法はね」と、そんなことまで教えてくれるとか。
明らかに人間の活動のすべては脳の所行ではあるわけだけど、ふだんあまり意識していない。それを突きつけられるのには、
MRIで自分の脳を見るような、そういう新鮮な驚きがあり、養老さんの「ほら、これ、脳みそ」には、観念的になりすぎる人たちを中和する働きはある。
とはいえ、コンピュータの設計図とにらめっこし、それを分解してみても、プログラムの動作について何にも理解できないのと同じで、脳を生理学的に観察することと、脳の所行を分析することには永遠に近い隔たりがあるはずだ。バカの壁、コミュニケーション上のひとつの傾向を取り上げて、それであれもこれも説明しようなんて、独りよがりもいいところじゃないか。独りよがりは一人だからいいんであって、300万人がよがり始めると、これは怖いぞ(笑)
2004/02/06(Fri)
正義
劇的にシニカルな子どもだったぼくは、どっちか言えば、自分のなかに正義よりも狡猾さと卑怯さを意識して生きてきた人間だと思う。そんなぼくでも、正義を正義として通すほうがいいだろうと思うことがある。それはどういうときかというと、他人の不正義を見せつけられることになったときだ。あたかも自分の中の悪が拡大されたような不快さに耐えられずに「正義は正義として通すべきだ」と言ってしまう。
2chの匿名コミュニケーションに蠱惑的な魅力があるのは、ほどよい悪の毒素と緊張感のためだと思う。ただ、毒の持つ力を甘くみている頭の悪い、無邪気な連中が、止めどなく毒をもて遊ぶ姿は見るに耐えない。自分たちは、はじめから匿名という防毒マスクをしておきながら、道行く世間のマスクをしていない人々を引きずり込んで、ずたずたに攻撃するようなことをする。
人気者、時代の寵児、一発タレント、たまたま名前の出ちゃった一般人、ちやほやされる大学人など、次々と人を食いものにすることで成り立っているようなところのあるマスコミにも、そういう傾向はあった。誰かが特別に卑怯だったり、無責任だったり、興味本位で他人をおとしめたりするわけじゃない。人間の誰もに少しずつそういう傾向があって、マスコミがそれを代表してやっているようなところがある。マスコミは人間の欲望をレンズで集めて、誰かを社会的に抹殺するようなことを毎日やっている。
ほとんどの人間は、正視に耐えない下劣な品性を抱えている。そういうものが集積されてしまうようなメディアというのは制御不能なモンスターのようなもので、手なずけることなんてできないんじゃないだろうか。
それがネットの世界だよ、とわかったようなことを言う非建設的なヤツばっかりなのは悲しい。マスクをはずして、時に自分が刺されるかもしれないコミュニケーションの土俵に立つ勇気も、言うべき言葉も持たないくせに、他人の揚げ足を取ることばかりやって恬として恥じない、そんな品性に欠ける人間ばっかりなんだろうか。
2004/02/07(Sat)
マグロ!
深夜2時、2次会の途中から参加してビックリ。金曜日の飲み会は2次会でもまだ20人以上が残る異常さ。PC業界、出版業界、広告業界の若手が集うというよく分からない会合。お久しぶりの人、初対面の人。
4時半ごろ、店から追い出されて解散。ヨーカ会いつものメンバーと電通広告マンの4人でタクって築地へ。
実は築地初体験。土曜日は朝5時過ぎから列ができる寿司屋の大和。まあ、寿司はうまいのはうまいけど、値段と場所から考えればビックリするようなもんじゃない。4000円のお任せメニュー。
 | 朝5時過ぎ。すでに列なす築地「大和」 |
驚いたのは、築地市場そのもの。だだっ広い敷地に、せわしなく動き回る人の活気と1人乗りのミニトラックの大群は東京在住のヒト必見ですよ。入り口付近でお寿司を食べただけで帰っちゃった人は、奥の市場まで絶対にずんずん入ってみるべき。いや、勝手に入っていいんですよ、市場というのは自由なんですよ、自由主義経済ですから(笑)。ふだんマーケットがウンヌンとか言ってるビジネスマンは、ホンモノの生々しいマーケットを見るべきですよ。100kgぐらいありそうなマグロを何本も載せて店の間をビュンビュンと走るトラックに、きょろきょろしていると、あっという間にひかれそう。
2004/02/08(Sun)
もぐり
ずっと昔、編集部でアルバイトをはじめたころ、マクルーハンを読んだことがないと言ったら、元上司は驚いて、「えっ、キミそれはまずいよ。この業界でマクルーハンを読んでなかったらもぐりだよ」とぼくに言った。
『マクルーハン理論---電子メディアの可能性』(マーシャル・マクルーハン/エドマンド・カーペンター,大前正臣/後藤和彦訳,平凡社)、
読了。『グーテンベルクの銀河系』は買ったまま、まだ通読したこがないけど、これでいちおうモグリと呼ばれずに済むだろうか……。
ぼくと同年代で、似た仕事をしているヒトの90%はマクルーハンなんて自分で読んだことがないわけだけど(必読の書と言われているものが、実際に読まれてる例なんてないのだ)、「メディアはメッセージだ」とか「メディアはマッサージだ」などというマクルーハンの主張は誰もが知っている。テレビなどの電子通信技術は人間の視覚を地球全体に拡張するので、メディアの登場によって人間の感覚器官は地球全体に及ぶんだというようなことを言って、「グローバルビレッジ」という言葉も作った。あまりに予言通りになったなったために、彼の言葉は今では非常に陳腐に聞こえてしまうのだけど、マクルーハンってのは、そういう人。40年ほど前、まだテレビが世に出始めた頃に電子メディアがいかに人間や社会を変えるということを誰よりも深く、広範に考察した先駆的なメディア論者で、論者というよりも予言者というような人。「文字が西欧人を形成するうえで果たした役割について私たちはほとんど無知ではなかったか、同様に、電子メディアが現代の価値を形成するうえで果たしている役割についても認識していないのではないか」(「メディアの文法」、マクルーハン)という問題意識が出発点。
おおいに期待して読んだのに、どうも意味不明の戯言が多すぎて面白くない。1950年代と50年前に書かれてるからだろうか。それとも思わせぶりな文体(本人が言うように、マクルーハンはexplainせず、exploreするだけ)だからか、ともかく「この人は何をおかしなことを言ってるんだ?」という箇所が多い。
「テレビとは何か」という論文にこんな一節がある。「テレビはメディアとしてはきわめて非線形的、非ストーリー・ライン的形式である」って、だから何だよっていう感じ。CMの挿入されることとか、チャンネルを切り替えること、10分ぐらいの間に各地のレポーターがてんで違う内容を話すというようなことを言ってるんだけど、受け手の意識は少しも非線形的なんかになってないじゃないか。
「あらゆるものが同時に生起するエレクトロニクス的世界」なんて言葉も、ぼくには話が大げさすぎるように思える。エレクトロニックな空間を、非文明的で非ヒューマニズム的で、非西欧的だなどとも言っている。テレビの登場によって文字文化から、無文字文化への揺り戻しが起こるようなことをほのめかしている。
文脈もなしに抜き出してもアレだけど、こんな予言者ばりの言葉には、もう戸惑い以外、なんの感慨も覚えない。「あらゆる物質、あるいは粒子は、光のスピードで無限の「マス」を獲得しうるというアインシュタインの考えに似ている」。意味不明です。何となく、E=mc2のことを言ってるような気もするけど、そのことと「マス」「パブリック」の概念の説明とが、どう関係するのか、まったくもって意味不明。
「電子のスピードによって人はプライベートなアイデンティティをもたないようになるのである」。これはネットのことを言ってるんじゃなくて、テレビの話だけど、これも予言めいていてかっこいいんだけど、それ以上の意味はないような気がする。
「カラーテレビによって人びとはからい香辛料を使った食事を好むようになるだろう」。ここまで来ると電波系だ。ぼくはページにおおきく「?」をつける。さらに、きわめつけは、こんな発言。今までハテナマークを3つもつけたことがないぞ。「フランスのテレビの走査線は、われわれのものが525本であるのに対して625本である。もしわれわれが625本の走査線を使うことになれば、われわれのかかえている下らない教育上の問題の解決が簡単になるだろう。テレビの視覚映像の精細度が上がれば、子どもたちが実際に生活しているエレクトロニクス的世界と教室との間の断絶の橋渡しとなり、問題解決がより容易になるだろう。仮説としてこれは提出しておこう。しかし、そのことが確実であるといえる多くの理由があるのである」。
40年も50年も経過して予言を批判するなんて不当な話だけど。でも、いまさらマクルーハンをメディア論史研究以上の意味で読む理由ってあるんだろうか。
姜尚中・宮台真司『挑発する知---国家、思想、そして知識を考える』(双風舎)、
読了。大晦日にホントに朝まで見てしまった朝まで生テレビで、姜尚中のファンになったので読んでみた。宮台の社会システム論によるネオリベ、ネオコンの分析が面白い。ポイントだけまた読み返したい本かも。
2004/02/14(Sat)
情熱
マクルーハンを読んでなるほどな、と思ったことだけど、無文字文化において、ことわざというものは、高度に純化され、昇華された体験や教訓の記録として口承さたという。文字がなくて、長く物事や思考を記録することができないため、ことわざというものは踊りや歌とともに世代間の伝達と記憶のテクノロジーだった。ことわざというのは、百千の思想が端的に表現された文学。
折口信夫が集めた全国各地のことわざや慣用句を眺めていて、一体それほどたくさんの言葉たちは、どこに行ってしまったのだろうかと思った。8割ぐらいは聞いたこともないようなものばかり。もしかして、メディアの影響によってことわざが人々の口の端にのぼる頻度というのは下がったりするのだろうか、と思った。ドラマや映画では、体験というものは純化する必要もなくそのままの形で展開される。活字があふれかえり、誰もが読み書きする時代に、表現が記憶に留まる端的な形式を取らなければいけない必然性も減っている。
こんな時代だからこそ、民間伝承のことわざや警句ほど短くなく、エセーほどには長くないアフォリズム文体には意味があるのじゃないだろうかとか思った。アフォリズムは、その気にならなければ完全な形では記憶に残せない。だけど、鮮烈な印象とともに、その純化された思想のエキスが身体にしみいる感じがある。ぼくは昔からアフォリズム文学が好きだった。
エリック・ホッファー『魂の錬金術』(作品社)、
読了。ホッファーは、正規の教育を受けられなかった根無し草のような港湾労働者で、そういう社会的底辺で労働する日々のなか、図書館に通い、読書と思索を深めた希代の哲学者。そのホッファーが全生涯で書き留めたアフォリズムを、すべて網羅して訳出したという本。「人間に関する思想で200語以内で表現できないことなんてそんなにない」と言うホッファーは簡潔で短いアフォリズム文体で、20世紀という現代アメリカの精神を、自己を、大衆をみごとに分析した。凍り付くような冷徹なまなざしで、精神の、魂の負の化学反応を見つめ続けた。
気になった箇所の引用とコメントを羅列しようと思ったけど、そうすると本の4分の1ぐらいを書き写すことになりそうなので、やめておこう。衝撃的な読書体験かも。何度か読み返す本になりそうだ。
少し救われるような気がするのは、こんな言葉。「真に軽薄な人とは、ものごとを深刻に考えすぎる人である」。「自分のことを深刻に考えなければ、どれほど気持ちが軽くなることだろう」。「われわれの最後には死と完全な無が待ち受けているという事実には、これまで発見されたいかなる絶対的な真理よりも確実性がある。それを承知しているにもかかわらず、人びとは、自分の将来性や不満、義務や罪について極度に深刻になりうる。唯一考えつく説明は、深刻になることが偽装のひとつの手段であるとうことだ。われわれは、ものごとを深刻に考えることによって、人生のつまらなさや虚しさを覆い隠す。どんな麻薬やどんな快楽追求によっても、深刻になることほど効果的に人生の恐るべき真実を隠せはしない」。
やっぱり、もう少しだけ引用してメモっておこう。
「身を焦がす不平不満というものは、その原因が何であれ、結局、自分自身に対する不満である。自分の価値に一点の疑念もない場合や、個人としての自分を意識しないほど他者との一体感を強く抱いているとき、われわれは、何の苦もなく困難や屈辱に耐えることができる。これは驚くべきことである」。
「われわれは、しなければならないことをしないとき、最も忙しい。」
「あれかこれがありさえすれば、幸せになれるだろうと信じることによって、われわれは、不幸の原因が不完全で汚れた自己にあることを悟らずに済むようになる。だから、過度の欲望は、自分が無価値であるという意識を抑えるための一手段なのである。」
「あらゆる激しい欲望は、基本的に別の人間になりたいという欲望であろう。おそらく、ここから名声欲の緊急性が生じている。それは、現実の自分とは似ても似つかぬ者になりたいという欲望である。」
「情熱的な精神状態は、多くの場合、技術、才能、力量の欠如の証拠である。」
「……自律的な人間の魂は、火山地帯の風景のような一面をもっている。そこには地溝帯が走っており、自己との境界線をなしている。われわれの熱狂、情熱的な追求、夢、向上心、目覚ましい成功は、すべてこの亀裂を源にしている。そうした魂の格闘においては、ものごとを成就し自己と和解することによって亀裂をいやすか、無私無欲になることによって亀裂の存在をごまかすか、自己否定によって亀裂を除去するほかない。」
「われわれは、自己の才能を開花させるか、多忙にまぎらすか、自分とはかけ離れた何か−−大義、指導者、集団、財産などと自己を同一化するかによって、価値の感覚を獲得する」。
「プライドの核心は自己の拒絶である」。自尊心が自己の能力や業績から引き出されるの対して、プライドは自分で「ない」ものから引き出される。
2004/02/15(Sun)
決闘に倒れた天才数学者
原田耕一郎『群の発見』(岩波書店)、
読了。『数学、この大きな流れ』という11巻が刊行予定のシリーズの1冊で、現代にもつながる数学の歴史的発展を読み物的に追うことができるという、ちょっと変わった企画。定理の証明や概念の導入を、論理的にスッキリした天下り式にではなく、むしろ歴史的経緯に絡めて進めていくというスタイルが新鮮。シリーズのほかの本も読んでみたいと思うけど、既刊はこの1冊だけという惨状は、一体どうなっているんだ。数学というのは、ゆっくり時間が流れる世界だ(笑)
『群の発見』は、20歳と7カ月で果たし合いの決闘という喜劇のような悲劇のような、どっちにしても劇的な事件でこの世を去った19世紀初頭のフランス人天才数学者、ガロアの理論を丁寧に解説している。ガロアが「groupe(群れ)」を呼んだ概念は、その後「群(ぐん)」という厳密な定義を与えられた数学的実体として研究されるようになり、群を研究する「群論」は数学の基礎をなす重要な一分野となった。
ガロアは、2000年、あるいはそれ以上の間にわたって人類の誰も解き明かせなかった「どういう方程式が一般的に解けて、どういう方程式が解けないのか?」という代数方程式論の根本的な問題に、最終的にして、決定的なケリをつけてしまった。20歳という年齢を考えても、その到達点を考えても、その後の群論の数学全体に対する寄与を考えても、もの凄い偉業。
2次方程式には解の公式が存在する。3次方程式や4次方程式にも、表現はぐっと複雑になるものの、やっぱり根号や虚数を使って表現できる解の公式がある。4次方程式の解の公式が導かれたのは16世紀のことで、それから200年間、多くの数学者の挑戦にもかかわらず誰も5次方程式の解の公式を求めることができなかった。そして解決は、誰も予想もしなかった方向からやってくる。一般に5次方程式の解は根号を用いて表現することができない、という不可能性の証明だった。……、と、そういう歴史的経緯を「世界の数学界をしばし沈黙させたほどの大定理なのに、その証明はあっけない」と、この本はちゃんと順を追って解説してくれる。ちなみに、あっけないとはいっても、数学の得意な高校生なら1時間で理解できるとか、そういう話ではない。
去年の暮れごろに買ってぼちぼちと読み進めていたけど、数学の本って休みながら読むと、次々と現われる概念の定義や記号、定理や補題の関係がちんぷんかんぷんになってしまう。というわけで、けっきょく最後はまとめて3時間で後半半分をどばっと読んでしまった。いや、そんな短時間で読める本じゃない……。「世紀の大理論なんだから一朝一夕に自分のものにはできない」と著者も言っている。自分でひとつずつ定理を証明し、計算結果を確認しながら進めてはじめて、群というものが構造を持った結晶のように美しく見えてくるという話。ぼくの場合、トータルでも十数時間程度で読んでしまったので理解なんてほど遠い。まあ、おおよそ高次の代数方程式が解けないことの証明の方向と、群論やシンメトリーを持つ数学的構造の関係みたいなのがわかった、ような気がしたというところ。ああ、ペダンティックだ。でも、楽しいからいいや。
で、群って結局何なのって思う人もいるかもしれないので、ちょっとだけ、ぼくの浅はかな理解で書いてみます。いや「群って何?」と本気で問う人には、もう群論を勉強しなさいとしか言うべきじゃないんだろうけど、なあに、世の中にはたとえ話が不可能な物事ってものはないのです。うそです。
群というのはある条件を満たす集合。その集合に含まれる任意の2つの元に関して、演算したとき、その結果がまた集合の元となっているようなもの。(xy)z=x(yz)という演算順序の入れ替えが可能で、さらに単位元や逆元が存在する、ということをすべて満たすと、それは群。集合の要素と、それらで行なう操作がすべてその集合の中で閉じていて、外にはみ出ることがないという、ひとつの完結した世界。たとえば整数全体の集合Zは加法について群をなす。かけ算に関しては逆元が整数とならずに実数の範囲にはみ出ることもあるので、Zは群とならない。しかし、有理数や実数、複素数全体の集合Q、R、Cで考えると、そこから0を取り除くと、これらは乗法に関して群となる。偶数の集合も加法に関して群となる。偶数は足しても引いても奇数にはならないから、きれいに閉じた世界を作っている。偶数の集合は、整数の集合とは実体はちがうけど、その加法群としての構造はどっちも同じ。だから、これらは同じ群。同型と呼ぶ。
群は無限の要素からなる場合もあるし、有限な要素からなる場合もある。この本の解説が多面体のシンメトリーの話から始まっているとおり、有限群というのは幾何学的イメージで言うと多面体のようなもの。正多面体は、ある軸で回転させると元通りぴったり重なる対象性を持つ。その軸の数や回転角は多面体によって決まっている。それが有限群の一例。六面体群というのは、立方体の回転対象性のこと。
いろんな群があり、それぞれいろんな性質を持っている。それらの群を調べてみると、驚くべきことに群という構造は、数の集合や多面体ばかりでなく、あらゆる場面に登場する。あらゆる数学的な存在の奥底に、群という構造が潜んでいる。そして、いったん群が識別されると、それを持つ実体がなんであれ、同じ構造を持ち、同じ定理が成り立つ。それはちょうど、リンゴが5個、ミカンが5個目の前にあったときに物理的実体の違いに関わらず「5」という「数」が共通に潜んでいるようなもので、確かに「群」というものは、さまざまなものに潜んでいる。19世紀初頭にガロアが発見する前から潜んでいた。で、ちょうど数に素数があるように、群にも単純群というものが存在する。そして、単純群と正反対の性質を持つ可解群というものがある。ぼくは何か非常にバラバラになる因数分解可能な数に近いイメージを持ったけど、可解群は部分群にどんどん分けられるというもので、文字どおり可解。
ある方程式の係数を群として調べたとき、それが可解群となっていることが、根号を使って解を求めることできることと同値である、というのがガロアの主定理。2次方程式の解の公式も、3次方程式の解の公式も、非常に対称的な形をしている。方程式は対称性が高い、低いという違いを表面に現れない構造として持っていて、5次以上の代数方程式が解けないのは、低次のときに必然的に存在する対称性が保証されないことと、どうやら関係するらしい。
2004/02/18(Wed)
そっか同業者
取材で何年かぶりで川崎に。なんだか田舎臭いぞ。ホテルパリとかホテルシティとか、そんな悲しい名前のラブホテルっぽい建物が、「取り残された街」感をかもしている。駅から徒歩10分。あまりまくった土地にそびえ立つ巨大で美しいビル。地階の吹き抜けロビーには、驚くほど広々とした噴水池なんかがあったりする。何なんだ、池を取り囲むベンチで、まったりとたゆたう時間に身をゆだねる人々は。ありえない。
早めに着いたので、あまりひとけのないタリーズへ。ふと見ると、「世の中には似た人がいるなぁ」と驚くほど飲み友だちにそっくりのヤツがたばこを吸いながらコーヒーを飲んでいる。あまりにも雰囲気も顔も似ているのだけど、人里離れたビルの、しかもひとけのないカフェなんて、いかにもあり得ない邂逅の場だよなぁと、遠巻きにちらりちらりと盗み見。
と、顔をあげたら、まさにその友だち。思わず、「えっ、なんでこんなトコにいるの?」と言ってしまってから、ハッとした。そういえば同業者だった。同じ発表会に来ていて、なんの不思議もない。それにしても、仕事っぽい場ではほとんど顔を合わせたことがないから驚いた。
安達功『知っていそうで知らないフランス---愛すべきトンデモ民主主義国』(平凡社)、
読了。サブタイトルに「トンデモ民主主義国家」とあるから別にいいんだけど、なんか思ったよりも政治の話ばっかりで、ちょっと期待していたものとは違う内容。通信社のパリ特派員が生活した実感と体験を元に書いた本で、もう少し庶民の素顔とか生活の話が入っているかと思ったけど、政党とか政治家の話ばっかり。なんだ本職での執筆かと、ちょっと肩すかしを食らったような感じ。
フランスといえば民主主義発祥の地だし、欧州を代表する先進国。いくら核実験をやっちゃったりすることがあっても「自由・平等・博愛」のトリコロールがなんだかまぶしい。だけど、ちっとも理想の国なんかではない。日本人の目から見れば、トンデモなく後進的で民度が低いとしか思えない政治や行政、国民意識の実状を、この本は愛と驚きのまなざしをもって次々とあからさまにしていく。
ぼくは長らく、フランスでの原子力発電依存度が高いのは、国民が政治的な決断を受け入れるだけの賢明さを持っている証なんだろうと漠然と思っていたけど、実はこれ、環境意識なんてものがほとんど存在していないことの証なんだという話。90年代半ばに入るまで、環境意識なんてほとんどゼロ。分別収集さえまだできない人たちらしい。タクシーはディーゼルだし、セーヌ川はゴミだらけ(だったっけかなぁ?)。
パリはそれでも景観にも気を使っているし、きれいなもの。ぼくの印象では浮浪者の糞尿のにおいや食べ物の腐ったにおいがあっちこっちから漂ってきて「臭い」という印象はあるけど、まあ、それはニューヨークなんかも同じ。ともかく見た目はきれい。
でも、パリのきれいさの陰にあるのは都心部と郊外地域の格差と隔離の問題。移民や低所得者層を追い出したからきれいなだけというのを「パリは貧乏人には住めない町」という言葉が象徴している。「劣悪な居住環境と教育条件、治安の悪化、高い失業率など、問題がワンセットとなってパリから外側に掃き出された結果だが、掃き出しても問題が解決するわけでなく、郊外を意味する「banlieue」という言葉は、いまやそれだけで「郊外の社会的問題」を指す言葉として使われるようになった」という。アメリカに比べると、ブラジル、オーストラリア、フランスというのは、ぼくの中では移民問題を早々と解決してきた国ぐにだったけど、とんでもない。ジダンがヒーローとなるのは、彼がアラブ系移民の希望の星だから。西ヨーロッパ人的傲慢さと愛嬌で、トリコロールの白は博愛だの友愛だのと思い切り後付けの理想をぶちあげるけど、建前の裏にある人種差別の意識はヒドイもんだ。ワールドカップサッカーの代表選手にアラブ系や旧植民地の島の人間がいるのを見て、「ラ・マルセイエーズも歌えない奴らがいる」と暴言してしまう政治家までいる始末。
官憲嫌いの人が聞いたら卒倒しそうな話だけど、警察による盗聴や無茶な発砲事件、事実を隠蔽する嘘の事件発表など、とくに移民を相手にした人権蹂躙は、とても先進国とは思えないようなレベル。警察官が「やっちまえ」とか言って、抵抗をやめた被疑者を射殺するか。それを「ミッテランが死刑を廃止したので、警察官が路上で処刑を行ったのだ」とか、言うか。
フランスで出生率が1.7と、ほかの先進国に比べて異様に高い最大の理由は、子どもを持つ家庭に対する国の手厚い支援政策があるからだという話だけど、そればかりじゃなくて、実は移民という低所得者層が、共稼ぎで家にいる時間の少ない夫婦にかわって格安で子守をしてくれるという事情があるからだとか。
繰り返し頻発するゼネストの構造(ってほどのもんじゃない、笑)とか、民衆の意識を説くあたりがとても面白い。フランスは、20歳前後で人生の進路が決まってしまう超学歴社会。そういえば私企業なんかでも、入社時にエリート選抜を行って、選抜された人と選抜されなかった人は、その後まったく違う道を歩むと聞いたこともある。もともと貴族社会だし、エリート主義を誰も否定していない。グランゼコールと呼ばれるエリート校を卒業するというエリートコースを歩んだ人と、そうでない人とはまったく社会階層が違うし、社会的役割も違う。そして誰も、その違いをはき違えたりしない。頭を使う仕事はエリート、手足となって嫌々、できるだけ短い時間、バカンスを心待ちにして働くのが非エリートという徹底した棲み分けがある。棲み分けに世襲っぽさが出てきていることや、コネ社会化が進んでいることをさして「現代のバスチーユだ」という批判まで出ているというけど、基本的な構造は変わらない。「民衆のために身を粉にして働き、知恵を絞り、社会を導くエリート層」が、やたらめったらゼネストでごねる民衆をなだめすかし、だまし、お願いする。まあでも特権階級という人生を保証された地位で権益をむさぼるエリート層もエリート層だし、ただごねるばかりの民衆も民衆だ。
頻発するゼネストに業を煮やしたシラク大統領が、あるとき地方演説で「ストとはいっても、最低限の市民サービスを確保するのが公務員の使命だ」と発言をしたら、国民ばかりか、マスコミからも総すかんを食らったのだとか。日本じゃあ、公務員にはストの権利さえ認められてないのにね。よく「権利と義務」はセットだというけど、フランス人の頭には「義務」という言葉はあまりないようで、政治家はっぎむという言葉を避けて「連帯(solidarite)」という、やんわりと責任感に訴える力を持つ言葉で国民に話しかけるのだそうだ。
引用はネガティブな話ばっかりだけど、フランスはもちろん愛すべき国だろうし、フランス国民は愛すべき国民だろうと思う。矛盾や社会的欺瞞がない場所なんて地球上に存在しないという、それだけのこと。たぶんそれが著者の望みでもあるんだろうけど、こういうふうによそを見ることで「日本だけが特殊じゃない」ということを、少しは考えてみるのがいいんだろう。異国を盲目的に理想化して、自国を卑下する日本人が多すぎるような気が、ぼくはしている。
もうひとつ、気になったトピック。戸籍上は他人のまま事実婚とする「非婚」という結婚形態は「ユニオン・リーブル」と呼ばれ(フランス語で言うと、なんかかっこいいなー)、社会的に定着しているという。ただ、フランスで非婚カップルが多いのは、庶子に対する保護がかなり有利だったからということもあるらしい。あと、やっぱり離婚の手間がないってこと。非婚カップルの離婚立が高いということは特になく、一般的に離婚率自体が高い。23.6%のカップルが結婚後5年以内に離婚しているという。
2004/02/20(Fri)
She Bangs!
このところCNNで繰り返し流れている映像で、感動的に気になるヤツがいる。目も当てられないほどオンチで踊りも下手な、さえない男なのだけど、抗いがたい魅力を備えている。自分に絶対的に足りていない力量など、まるでモノともしない堂々としたその歌いっぷりと踊りっぷり。その笑顔と爽やかさは1度見たら忘れられない。いま、彼がアメリカ中に驚きと感動を与えている(たぶん)。ハワードディーンの雄叫びはもう古い。
アメリカでちょっとした話題になっているその彼は、名門校UCバークレーに通う、William Hungという、おそらく中国系かベトナム系移民の20歳。話題になっているのは、American Idolというテレビのアイドルコンテスト番組で、彼が応募者として予選で歌ったリッキーマーティンの「She Bangs」。
 | 審査員が頭を抱え、肩をふるわせて笑うまえで、気持ちよさそうにノリノリで歌うウィル。 |
彼のすごいところは、まるっきりひるまないこと。審査員に「もういい、もういい」と冷たく制止され、「きみは歌はダメ、踊りもダメ。で、何か言うことは?」と言われ、「ぼくは歌の専門的訓練は受けてないから……」と本気で言ってるのか何なのかというコメントを返す。これにはさすがの審査員も驚いて、「そりゃ、今世紀最大の驚きだね」と笑いだす。ところが、すかさず彼は言う。「ぼくはもう精一杯やったし、何も悔いはない」。卑屈になるでもなく、明るく本心から言った彼のこの言葉に誰もが感心し、そしてみんな彼が好きになった。
コンテスト前のインタビューに、彼はこう答えている。「そもそもぼくがこんなコンテストに出るのなんて、ちょっとヘンな話っていうか。大学での専攻はシビル・エンジニアリングで、まるで音楽とは無関係だし。でもホントに音楽が好きだから、音楽で食べていければと思う」という。
初めて映像をみたとき、もしかしてダウン症かと思ったけど、少し言葉(って英語)もおかしい。きっと10代で渡米した移民なんだろう。もし彼がUCバークレーの学生だと言わなかったり、ヒトコトふたことしか話さなかったら、ほとんどの人は彼のことを知的障害者だと思うんじゃないかと思う。その10歳の子どものような風貌も、彼が有名になった理由だろう。
このコンテストの映像が話題を巻き起こし、彼はたちまち有名人に。ちょっとした社会現象となっているらしい。AP通信にポップカルチャーの興味深い現象として取り上げられ、レコード会社から300万円で契約のオファーを受けたりと波紋は広がるいっぽう。
彼のすべてが分かる、
ウェブサイトには、
ムービーも
音楽(?)もあるので、ぜひこれを読んでるみなさんも感動してみてください。初めは笑えるだけだけど、2、3度繰り返し見ると、彼の虜になることまちがいなし。これは絶対に夢に出る。
愛すべきキャラクター。人々が彼に感動するのは、彼が自分のことを少しも恥ずかしいと思っていないからだろう。それが天然なのか何なのかはよくわからないけど、ともかく自分が好きなことを一生懸命にやって、自分がチャレンジできることには、ともかくチャレンジしてみるというその真摯な姿勢。自分には到底できないとか、自分には才能や能力がなくて無理だなどと、そんなことは一切気にしていないように見える。といって、別に分不相応なカンチガイをしているわけでもなく、あくまでも謙虚に現実に向き合っている。いや、カンチガイしている可能性はあるけど、そういうカンチガイができる若さもひとつの能力だとしたら、彼は誰もが持ちたいと思っていて持てずにいる何かを確かに持っている。多くのワナビーが持っている実績や裏付けのない傷つきやすいプライドとは正反対の、自尊心と自信。恥ずかしい言葉だけど「自分を信じる力」。ただ正直に、ひたむきに、明るく前を向いて歩いていく力強さ。
彼はアイドルになるような歌の才能や美貌を持っていない。でも、そのことを少しも悲しんだり、うらんだりしている様子はない。そして、あきらめてもいない。
自信をもって幸福な人生を送るのに、一体いま自分が持っているもの以上に何が必要ですか。能力の足りなさやチャンスのなさを嘆くまえに、ともかくチャレンジしてみよう。彼が人々に送ったメッセージは、そんなところだろう。
冷たく現実に見限られても潔く、いぢられキャラとして人々に半ばバカにされてもなお明るい。彼のそういう朗らかな性格に接すると、人々は彼を少しもバカにしなくなる(もともと一流大学の学生だからということもあるか)。彼の歌は本当にへたくそだけど、じゃあ、あなたはそのことを笑えるような人間なのかと問われると、ほとんどの人は答えに窮して何か忘れていたことに気づく。彼は自分を恥じていない。それは本当はすごいことなんだ。
いくつかアメリカ人のblogを読んでみてわかったことだけど、このアイドル登竜門的な番組では、いつも多くの応募者が、審査員の厳しい評価に対して、その場で反論したり、わめいたり、泣き出したりするものらしい。彼は、そういう子供じみたワナビーたちとまったく違って、正直に酷評を受け止めて、うなだれるでもなく、礼儀正しく感謝の言葉を口にして、すたすたとスタジオを後にした。
その後、彼がラジオや新聞で語っているところによると、まさか自分の映像がああいう形で利用されて、みんなの笑いものにされると思わなかったと、少しショックを受けたらしい。「ひとりでテレビを見てたら、自分が画面に出てきてビックリしたよ。でも、あれじゃぼくはまるっきりアホにしか見えないよ。確かにぼくはダンスはダメだけど、歌はそうでもない」。えっ……、歌は悪くない……? 自分の能力を信じられるのは、やっぱり確かに才能だ。彼は実は音楽のレッスンを受けることも考えているらしい。
2004/02/22(Sun)
国旗少年になりたい
辻原康夫『図説 国旗の世界史』(河出書房新社)、
読了。全世界196カ国の独立国と、自治区やかつて存在した国家の歴史的な旗をざっくりした分類にもとづいてカラフルな絵で解説する、たいへんおもしろい本。分類すると見えてくる不思議なおもしろさ、といううたい文句どおり、見えてくる見えてくる、いろんなものが。その国の理想、民族、歴史、闘争、イデオロギー、宗教、神々、気候、地理、他の国との関係などなど。
国旗には2色、3色と複数の色を使ったものが多い。それは、その各色がそのまま民族や宗教の多様性を象徴していることが多いわけだけど、そう思って改めて200近い独立国の国旗を眺めると、いかに統一国家の名の元に民族同士の協調がうまく行っていないかということが逆説的に分かるような気がする。200のうち、数から言えば、ほんのつい最近独立を勝ち取ったばかりの国が多いので、流血や闘争を象徴する赤い色が多い。旗や軍服に浴びた返り血だったりする。
Englishtown.comというオンライン英語学習サイトのチャットルームに入ると、参加者の出身地が国旗で表示される。台湾とかメキシコとか、そういうレベルならまだわかるんだけど、リビア、チュニジア、サウジアラビアとかとなってくると、見覚えのあるような、そうでもないような旗なので、直接本人に「どこの国?」と聞くことになる。これが何ともアホぶりをさらしている気がして情けないやら、相手に申し訳ないやらで、ずっと困っていた。
で、せいぜい全部で200ほどしかないわけだし、このさいぜんぶ国旗を覚えてみようかと手に取った本だけど、効果は抜群。どれも脈絡がないわけじゃなく、たとえば月と星、緑だったらイスラム教の砂漠の国ということがわかるし、ロシアと同じ3色であれば、それはスラブ系の国とわかるといったように、関連性や意味で覚えると案外いける。インターネットに接続できるような国の人の国旗は、だいたい全部わかるようになったし、その国の人でさえ知らないウンチクを語れるようになった。ポーランド人に向かって「キミの国の旗は、インドネシアの旗と似てるけど、白と赤の色が上下逆さまなんだよね。インドネシアとモナコは同じと思うかもしれないけど、あの2つは実は縦横比が若干ちがうんだよね」と言えたり、リビア人に向かって「キミの国の国旗は世界で唯一単色の国旗だよね、むかしはオマーンも単色だったんだけど、今は1カ国だけ。これさ、1977年にエジプトのサダト大統領がイスラエルを訪問したとき、それに抗議する意味でカダフィ大佐が一夜で全部緑で塗りつぶしちゃったって話だけど、それってホント?」とか、ミョーに詳しい話ができたりする。
染色した赤が変色したためにエンジ色を使うようになったカタールの例のように、冗談みたいな話もあるし、日本の日の丸に気を使って微妙に円の位置を左にズラしているパラオの例のように、ちょっといい話もあるし、世界で唯一裏表の柄が違うパラグアイの例のように、雑学好きのハートを鷲掴みにするような話もある。
いまぼくに話しかけたら国旗の話を2時間ぐらい続けて止まらないのでご注意。すっかり国旗少年だ。
宇宙から大陸や海を見て「地面に国境なんてなかった」と、ちょっと白々しい感慨を述べる宇宙飛行士がいるけど、むしろ本当に驚くべきなのは、国境がない大陸に、かくも多様で多数のネーション・ステートが誕生したという、そっちの方だろうと思う。国旗を並べて眺めることで、ぼくは少し世界観が変わったようにさえ感じた。
キプロスの国旗は、白地のバックにオレンジで国土の形がそのままかたどられたシンプルな意匠。地図の下にはオリーブの枝葉が2本並んでいる。このオリーブは、独立以前からギリシア系とトルコ系の対立が深刻化していたために、民族融和と有効を祈願して平和の象徴として描かれたものという。ところが平和と共生の願いもむなしく、独立からすぐに武力衝突から内戦状態に発展。15年で国土は二分され、結局トルコ系は独自の旗、ギリシア系はギリシア国旗を使うようになり、キプロスの統一国旗は今ではほとんど使われくなったという。オリーブの葉が歴史の皮肉を象徴しているように見える。
2004/02/24(Tue)
ゲイ同士の結婚は違憲
1月に受けたTOEICの結果が950点(L:495、R:455)と期待はずれ。もう2年ぐらい同じような点数を行ったり来たりしている。目標だったはずのTOEIC満点も、まだ見える気配がなく、本当にここいらで奮起しなきゃと改めて思ってみたりする。うーん……。
英語の勉強、もうちょっと本気にならねばという理由からでもないけど、CNNをまじめに見てたら、ブッシュ大統領が深刻な顔でなにやら訴えている。彼がトーンを落としたスピーチをするときには、だいたいロクなことを言ってないような直感を持つのはぼくだけ? 画面には、breaking newsと出ている。聞いてみると、憲法を改正してゲイの結婚を禁止しようと言い出してるらしい。ビックリ。ここのところ、サンフランシスコを中心にゲイ同士の結婚を認めるか認めないかという議論がいっぱいあったけど、それをいきなり大統領が強権発動的に憲法で禁止しようというのだから、すごい話だ。
そもそも大統領が就任時に聖書に手をおいて神に忠誠を誓う国だし、ブッシュ大統領の頭に政教分離なんて発想はないんだろう。うーん、政教分離ってほどのことはないか。しかし、ぼくはアメリカ人に聞いて驚いたけど、彼らにとっては結婚というのはきわめて宗教的な儀式で、結婚の正当性を保証するのは戸籍や法律ではなく、神父さんであり、神の前での誓いらしいから、ブッシュが言ってるのは、ある意味では「アメリカの宗教はキリスト教に限る」「結婚の形態は聖書にあるもの以外は認めない」と言ってるようにもぼくには聞こえる。日本で神前や人前と言ったって、結婚が成立する瞬間はいつですかと聞かれたら多くの人は戸籍を入れたときと答えると思うけど、アメリカ人は「誓います」と言って、神父さんが「さあ、これで二人は夫婦です」と言った瞬間だと感じているという。
日本人はよく「なんで、こんなことする必要があるんですか?」という疑問にたいする答えとしえ「いや、まあ儀式みたいなもんですから」と言ったりする。日本人の言語感覚としては、本来「儀式」というものが持っていた神々しさ、厳かで重々しいニュアンスは消え去っているんじゃないだろうか。そうでなきゃ、クリスマス(キリスト教)だ、除夜の鐘(仏教)だ、正月(神道)だといって、めちゃくちゃな宗教儀式ミックスはできない。このへんのところが理解できないアメリカ人のマイクが、日本人の女の子が十字架のアクセサリをしているのを見て、「信じられないよ、disrespectfulだよ」と言ってフンガイしているけど、まあ仕方ない。
憲法改正に関して、ある論者がこんなことを言う。「アメリカは今まで憲法改正に関しては慎重で、女性の選挙権を認めるといったような本当に必要なとき以外は憲法を改正してこなかった。だから、ほかの国では百も二百も改正されているのに、アメリカではいまだに変更は数えるほどしかないわけです」。数えるほどしかないといっても、確か十数はあったはず。で、ひるがえって日本はもう何十年憲法を改正してないんでしょう。というか、憲法は改正できるし、みんながそれを望むであればするべきものだっていう意識って日本人にはあるだろうか。
深夜のひと気のない街道で、誰も歩行者が来る可能性がないにも関わらず赤信号を守って静かに停車している国民は日本人ぐらいだという。そういう日本人の遵法精神の高さは誇るべきものがあると思う。まじめで規律意識の高いのは立派なことだ。だけど、そういう遵法精神が、法が守っていたものばかりでなく、法自体にまで及ぶことが多いように思う。守るべきものがあって、それを法で保証するのに、法自体に権威性を持たせてどうするんだ。著作権や肖像権のバランスを欠いた議論を聞いていても、このへんのことが非常に気になる。
話がバラバラだ。もしかして、日本人の妙に高い法意識というのは宗教意識欠如の補償じゃないだろうか、とか根拠のないことを考えてみる。
2004/02/26(Thu)
ネット引きこもり
ソーシャル・ネットワーキング系のサービスとして、friendster.comが話題になったのって、何ヶ月ぐらい前だっけ。登録して面白いなとは思ったものの、ちっとも日本人がいないし、なぜかぼくはマレーシア人の友だちに招待されたので、ぼくのネットワークにいる人々はみんなマレーシア人という状態になってしまった。
ともかく金が集まってるらしいし、アイデアは単純でおもしろいので、すぐさまボスに「うちで日本語のヤツをやりましょう」とメールしてみたりして。「それって何が面白いの? 商売になるんかね?」と聞かれて、うまく答えられずに、それっきりfriendster.comは放置しっぱなし。
ここのところfriendster.comに似たorkut.comからメールで招待がいくつか来るなぁとは思っていたけど面倒くさそうだし、これもほったらかしてあったのだけど、2日ほどまえに登録してみてビックリ。少しクリッククリックしていれば、友だちの友だちはみんな友だちで、どっかで見たことのある顔が芋蔓式にぞろぞろと出てくる。日本語コードがうまく扱えないようなので、みんな英語とローマ字で登録してるけど、すでに日本人もたくさん参加している。急激に膨らんでいる感じが見ていてわかる。
「世間は狭いねぇ」という感慨を漏らすより、「こういうのに興味を持つ人って、いつも同じような狭い世界の人たちだね」と言ったほうが真実に近いんだろう。いくらケビン・ベーコンゲーム的だからって、ここまでホップ数が小さくならない気がする。
今のところ、ある種のフィルタにかかる人が集まっている感じがあって、ちょうどkanshin.comが始まったころのようなヘンな盛り上がり感がある。登録している人のページをたどると、みんな自分のドメインでMovableTypeだったりするし、かなり偏ってる。簡単に言えばITでドライブがかかってる人たち。いろんなつながりを眺めていると、うまく10か20のキーワードか固有名詞をピックアップすれば全部が全部つながっているんじゃなかろうかという気さえしてくる。もともと世の中ってこういうドメイン構造になってたのじゃないかという錯覚さえ覚える。
B-TRONの実身/化身というハイパーリンクシステムを使っている人に聞いた話では、ファイル数が数万個あっても、リンクやグルーピングといったメタ情報が数万個オーダーで存在すれば、実はどんな情報にも3ステップぐらいでアクセスできて、しかも使っている間に、それが人間の記憶に対応するようになってくるのだという。たとえば「デジカメ−2003年−キャンプ」としても「西村−写真」としても「メール−キャンプ」としても、目的の写真は見つけだせるというような感じ。リンクはUnixのハードリンクのように実装されているので、同じ写真が異なるフォルダに無数に存在しているようなもので、この威力はすごい。その人は自分のメールボックスから、かつてぼくと仕事でやりとりした一連の関連情報を、ものの数秒で芋蔓式に引っぱり出してみせてくれた。
Windowsなんかでも、自分のハードディスクに入った情報が記憶の中で3ステップぐらいに収まるようにフォルダやアプリで管理していると、「いつでも即時に取り出せる」とうい感覚がある。逆に4ステップを超えるか、そもそもステップ自体を思い出すのに難儀する予感があると「あ、それはちょっと探さないとでてきませんね」と直感的にわかる。
全文検索的なものじゃなくて、リンク的なものがおもしろい。
いつしかネットもGoogleによってスター型っぽい使い方をするようになっていなかっただろうか。ウェブのページ数にたいしてリンクが全然少ない。もちろんスター型ではないけど、つないだリンクの線でできるのはせいぜい星座ぐらいじゃないかというイメージがある。いまだにウェブページに「リンク」というセクションがあること自体、まだうまくハイパーリンクと付き合えていない証拠じゃないだろうか。
Wikiとかblogは、そういう星座ふうのトポロジーを、もうちょっとバーナーズリー的な方向(ってどっちだろう)に戻してくれる感じがあった。ソーシャルネットワーキング系サービスは、もっと過激に人々をつなぐ感じがある。
しかし、急にあちこちでつながりが炸裂してて、ちょっとぼくは焦ってもいたりします。今までひっそりとネットで引きこもっていたのに、突然明るみに引っぱり出されてしまったような。WWWが登場したとき、Yahooが登場したとき、gooが登場したとき、ICQが登場したとき、Googleが登場したときと、それぞれインターネットが「晴れ上がった」ような感じを受けたけど、もしかするとblogがまだblobなうちに、SNがS/Nになるかもしれませんよ。って、自分でも何を書いてるのかわかりませんが。
NISHIMURA Ken <nis@bigfoot.com>