2003/11/06(Thu)
もらってうれしい未承諾メール
サブジェクトに「未承諾」と入った広告メールって今までに何千通受け取ったかわからないけど、今日はじめてもらってうれしい未承諾広告メールを受け取った。ちょうど1年前に購入した「エンジョイスイミング」という水泳レッスンビデオの制作会社からのもので、ウェブを新しくオープンしたとかの案内。
さっそくのぞいてみたら、ずがーんと目に飛び込む言葉が。「水泳に適した筋力トレーニングについて教えてください(30代男性)」。うわっ、30代男って、ぼくじゃないのかと思ってしまった。
水泳に必要な筋肉というのは、水泳によって自然とつく筋肉。だから、特別に陸上で筋トレをする必要はない、と書いてある教本なんかもあるけど、それはきっとしょっちゅう泳げる人の話なんだよな。このところ仕事が忙しくて週に1度しか泳げないぼくのような人は、きっと筋トレをしないと駄目なんだ。
早速筋トレ用のゴムを引っぱり出してきて、毎日少しずつやることにした。ドーバー海峡を渡るんだと言い始めてそろそろ1年経ったし、どうもこのところ距離も速度も伸び悩みまくりなので、ここらでがんばらんと。
2003/11/08(Sat)
東條英機はなぜ上り詰めたか
『第二次大戦とは何だったのか?---戦争の世紀とその指導者たち』(福田和也,筑摩書房)、
読了。福田和也によると、第二次大戦の歴史的意義というのは第一次大戦のそれに比べれば、取るに足りないものでしかないという。「ヨーロッパ近代史の中で、フランス大革命以降のなだらかな直線の後に突然現れた、大きな急カーブが第一次大戦であった。第二次大戦は、猛スピードでカーブをくぐりぬけたスポーツカーのドライバーが、体勢を整えるために施したハンドル操作程度のものにすぎない。つまり道自体はたいして曲がっていないのである」。
物資や兵士、巻き込まれた市民の数といった費やされたリソースの多寡から言えば第二次大戦は空前の世界大戦ということになるのかもしないけど、世界大戦や戦争というものを、ある世界秩序から新しい世界秩序へ移行するための破壊的創造を伴う一種の社会装置だと捉えるなら、第一次大戦こそが世界大戦と呼ぶにふさわしい、ということらしい。
2度の大戦で世界秩序がどう変化し、各国の思惑がどう衝突し、力関係がどう変化したのかという話はそれ自体興味ぶかいけど、福田は、そういう歴史の曲がり角(本当は曲がっていない曲がり角だ)に現れた指導者たちの実像と虚像に焦点を当てて、そこから第二次大戦の持っている精神史的な意義を読み解こうとする。これだけ大きな歴史的事件を語るには、我々はまだ歴史的遠近法を持つ段階にいたっていなくて、もしかすると20世紀を理解するには、あと1世紀待たなければならないのかもしれないとしながらも、福田は近代史というパースペクティブのなかに、指導者が生きた個人史というレンズと、我々が当時の指導者たちに抱く虚像というレンズのとから、20世紀という精神を浮かび上がらせる。文芸評論家らしく、歴史や精神史を語っているというより、もっと生々しい人間のかげの部分を見つめている感じがある。
取り上げられているのはドゴール、ルーズヴェルト、チャーチル、ムッソリーニ、ヒトラー、スターリン、蒋介石、東條英機という第二次大戦の指導者たち。彼らは名前はやけに有名だし、強烈な個性や悪とともに人々に記憶されているけど、しばしば語られる彼らの指導者像というものは、歴史家の分析する実像からかけ離れている場合が多いという。
たとえば東條英機は、東京裁判が彼に着せた悪のイメージとは裏腹に、実際には絶対権力者やファシストではなかったし、よくも悪くも大した人物ではなかった。官僚システムの中を泳ぐ世故に長けた秀才というだけで、国のリーダーたるべき資質というものは持ち合わせていなかった。ビジョンや野望があったわけでもない。そして、実際問題として権力が異様に集中した時期はあったにせよ、それはヒトラーやスターリンが持っていたような絶対権力とは比較にならない、取るに足りない限定されたものだった、という。民衆に直接働きかけるような政治的リーダーでも、ルーズヴェルトやチャーチルのような戦争指導者でもなかった。
戦後、絶対悪のように扱われるという点でヒトラーと東條英機は似ている。でも、ヒトラーも歴史家の研究によると、悪魔的な政治の天才があるとき現れて、突如として権力を掌握したというよりも、たまたま歴史上の多数の要因が彼を独裁国家のリーダーに持ち上げたと見るべきだという。要するに、東條に関してもヒトラーに関しても、20世紀の人間が持っている「絶対悪」というイメージは虚像であると。彼らは、一種のスケーブゴートとして、戦後の日本人なりドイツ人なりの悪を一手に引き受けているんではなかろうか、と。
絶対的な悪の象徴として、彼らの虚像を無意識的に作り上げてしまう20世紀の人間。そういう論点とは別に、気になったのは、東條のような人間がなぜトップにまで上り詰めることができたのか、という点。よく言われるように、彼は官僚としては非常に優秀だったけれども、ただそれだけの人だった。ここには、どうしてこの国にリーダーらしいリーダーというものが、こんにちに至っても現れていないのかという根深い問題が潜んでいる。東條について語ると、必然的に日本の組織論にまでなるというのはたぶん本当なんだろう。
と、もっともらしい感想文を書こうかと思ったけど、自分でも何書いてるんだかわからなくなってきたし、お疲れなのでまた明日。あっ、読んだ本の著者には例外なく感想文を送るぞ計画をやるんだった。うーん。福田和也か。「大ファンです☆」ぐらいにしておくか。
2003/11/10(Mon)
趣味が仕事になると
社会的ジレンマを扱った本を読みはじめる。アクセルロッドの囚人のジレンマのコンテストの話なんかは、もうあくびが出るほどあちこちで読んだし、「社会的ジレンマを解決する方法として、“心”はヒトの中で進化した」という進化心理学の言説も、そういう見方が新鮮に感じられなくなってしまえば「だから?」という話で、それほどおもしろくない。ありきたりな話だなぁと前半を読み飛ばしていて、急激に「そういうことか!」と、膝をぽぽぽぽぽぽん、と叩いた箇所がひとつ。
内的動機付けは、それが外的な報酬と関連づけられたとき、強化されるどころかむしろ消えてなくなってしまうのだという話。わーっ、何でそんなことに気づかなかったんだろう。今のぼくのケースに当てはまっている。
それは、こういう実験。
幼稚園児にお絵かきをさせる。園児は3つのグループに分けられる。1つ目のグループは、「お絵かきしましょうね。お絵かきが終わったらご褒美のお菓子を食べましょう」と言われてペンを取る。2つ目のグループは、終わってからご褒美がもらえない。3つ目のグループも、ご褒美のお菓子はもらえないんだけど、あらかじめご褒美の話も聞かされない。
数日経って、この3つのグループに「お絵かきしましょうね」と言ったときに、いったいどのグループの園児達が積極的に絵を描くかというと、これが何と、ぼくの予想に反して3つ目のグループだという。
ヘンだなと思って、もう1度よくよく条件を比較すると、1つ目のグループに対してお菓子という動機付けがあったのは、1度目のお絵かきだけで、2度目には、それはない。何が起こったかというと、「お菓子ももらえないのに、お絵かきなんてやってられっかよ! ケッ」という園児達の不良化が起こってるわけ。3つ目のグループは、お絵かき自体がもっている楽しみを純粋に楽しむので、1度目のお絵かきと2度目のお絵かきで積極度は変わらない。ところが、本来楽しかったはずのお絵かきが、いったんご褒美と関連づけられてしまうと、ご褒美がなくなったとんにその楽しさまで減ってしまったように感じる。まるで、もともとお絵かきに動機付けなんてなかったんだとでもいうように、消極的になってしまう。
これを園児じゃなくて大人の言葉で言えば、「趣味が仕事になると楽しくなくなる」ということ。実際、この実験をした心理学者の論文のタイトルは「趣味が仕事になると」というものだったらしい。
それではっとした。仕事を楽しむコツは、報酬は報酬としていったん個々の仕事から切り離して考えるべきだということじゃないか。仕事には楽しいこともたくさんあって、楽しいことは楽しいと思いながらやればいい。「これをやればいくらだから」とか、「これだけやっていくらしかもらえないのか!」とか、そんなことは考えないほうがいい。
勝ち組だ負け組だという言葉が流行しちゃったりして、日本企業も成果主義的な文化へシフトしつつあるご時世だけど、報酬を仕事に対する動機付けとして強調しすぎると、個人が本来的に持っているパッションがそがれる危険もあるということだ。
2003/11/11(Tue)
ジレンマ
『社会的ジレンマ---「環境破壊」から「いじめ」まで』(山岸俊男,PHP研究所)、
読了。
今にして思えば、まさに典型的な社会的ジレンマの問題だったんだなと思い出しながら、4年前、
1999年2月10日の日記を読み返した。あの日ぼくは、タクシーの乗車順を奪い合うか譲り合うかという問題で悲憤にくれていた。「正直者が世の中にa%、利己主義者が100-a%存在するとして、正直者が何台目に来たタクシーに乗れるのかの期待値とaの関係が知りたい」ということを、ぼくは考えていた。この本が扱っているのは、まさにそういう問題の数々。おもしろすぎる。
1回きりの囚人のジレンマ問題を、法や社会制度が成立する前の近代以前の人類がどう解決してきたかというと、それは「社会的交換モジュール」という処理モジュールを脳内に発達させることによってではないかというのが著者の主張であり、多くの心理学者がここ10年くらいの実験や、コンピュータシミュレーションによる研究報告なんかから考えていること。ホッブスが社会契約論で描いた「万人の万人に対する戦い」という状態は、ある意味ではすでに100万年前に解決をみていたわけか。公権力や強制によらずに、ヒトは社会的ジレンマの問題を解決する行動原理を脳内にハードワイヤードされた回路として獲得したってことだ。それは、いっけん非合理的で「感情」と呼ぶものにも近い情報処理モジュールなのだけれど、それこそ人間が進化で獲得したほんとうの「賢さ」なのではないか、と。このモジュールは、囚人のジレンマ状況に直面したときに、その状況を「安心ゲーム」であると誤解して解釈する役割を担っている。利得マトリックスがある特定のパターンを示したときに、このモジュールはマトリックスの一部を見えなくする、あるいは書き換えるようなことをやっているというわけで、けっこう驚きだ。
社会規模が大きくなると事情が変わってくる。で、この著者は現代の社会的ジレンマの数々を解決するには社会的強制力の強化は避けがたいのかもしれないと言っている。あれれ? 不思議なことに、この本には宗教や神の話がまったく出てこない。「神」こそ社会を生んだ人類の最大の発明だったんじゃないのだろうか? 社会成員がそれぞれに神の視線を感じることで、社会は存続可能になっているというのが社会学の知見であり常識的見方じゃなかったのだろうか。なんだって、この本の著者は道徳について語るのに宗教の話を避けたんだろうか。
神で思い出した。『脱常識の社会学---社会の読み方入門』(ランドル・コリンズ)によると、社会学では犯罪というものは社会を維持するために一定の割合で起こってくれなくては困る社会装置の一環なんだという見方があるらしい。法廷の威厳ある建物なんか、まさに舞台装置と呼ぶにふさわしい。
たとえばテレビで報道されるような犯罪なんて個人にってはおよそ何の関係もない話で、巻き込まれる可能性から言えば、まるでどうでもいいこと。それなのに、画面に向かって「世も末だ」ということをいい、ため息をつくわけじゃないですか。ホントは若年層の犯罪が凶悪化しているなんて事実はないし、むしろ殺人件数も戦後一貫して減少傾向にあったりするのに、久米宏(ってもう降板?)みたいなヒトがもっともらしいことを言いいながら大げさに嘆いたり憤慨してみたりして、それをまた画面のまえで視聴者はうなずきながら見たりする。あれは何かというと、社会がバラバラになってしまうのを防ぐ役割を果たす社会の舞台装置なんだそうな。教会で神父さんの説教を聞くのと、テレビで久米宏のウンザリするような正論を聞くのも似たようなことで、どちらも宗教儀式なんだ。社会成員が互いに道徳を確認しあう重要な役割を担っている。
で、日本の選挙って、社会にたいして犯罪が果たしている、紐帯の維持や道徳の確認といった役割を果たしているんじゃないだろうか、と週末に思った。「選挙に行くのは義務だ!」と、ホントは政治のことなんてわかってない人たちが一斉にワケのわからないコトを叫ぶわけじゃないですか。あの主張をするときの人々の熱くなりようは、合理的判断からは、ちょっと説明がつかないんじゃないかと思うのです。個人が持つ権利というのは、ほかの誰が権利を行使するかどうかとは無関係に一定の価値がある。だから、「おまえも選挙に行くべきだ」なんてことは本当によけいなお世話。まして投票の場合には自分の権利と他人の権利で、利害が衝突する可能性がある。自分の1票の価値は、投票率が下がれば下がるほど相対的に高くなるわけだから、「選挙に行くべきだ」などと他人にいうのは、お節介とかそういう話以前に、およそ合理的な発言とは言えない。あの熱い思いというのは、選挙によって社会を変えようとか、政治に意識的であろうという呼びかけというよりも、むしろ社会に非協力的な成員を監視する「裏切り者探索」の一環と見るべきじゃないだろうか。
「棄権するなら白票を投じるべきだ」なんて、一体どこをどうやったらそんな理屈が出てくるんだというオカシナ話じゃないですか。300円が当たった宝くじの当選券を、「たとえ換金しないにしても窓口に行って返えすべきだ」なんていうバカはいませんよね? 行動を起こさなくても権利を放棄できるのに、わざわざ行動するコストを負担する理由というのは何だろうか、と。300円を放棄したからって、宝くじというシステムを否定したことにならないのと同じで、投票権を棄権したからといって民主主義を否定したことになるものでもない。少なくとも、論理的には。ぼくは普通選挙制度による民主政治には否定的だけれども。
投票所に赴いたり、新聞やネットで情報を収集分析する時間や労力という投票にかかるコストを、それによって個人が得るメリットとはかりにかけると、明らかにメリットのほうが小さい。でも、だからといって誰もが投票を棄権してしまうと、特定の人々に有利な愚民政治が横行し、好ましくない状態が起こる可能性がある。これも社会的ジレンマのひとつだ。とすると、これを解決するためには人々は合理的な判断なんてしてちゃ駄目なんだ。不合理的、感情的に判断する必要がある。「選挙に行くんだ!」と叫ぶ必要がある。この不合理的な行動を、不合理ではないんだと思わせるために、選挙に行くのが「まともな市民」の証だというようなイメージが共有されることがのぞましい。
ぼくは選挙行きませんでしたよ。ぼくは裏切り者だし、まともな市民ではありません。20歳になったころから、「30歳になったら選挙に行くんだ」と言い続けてきたけど、もう3年もビハインドです。だって、本当に政治のことがわからんのだし、興味もないのだから、しょうがないじゃないか(って誰に言い訳してるんだ)。ここでぼくは自嘲を装っていますが、もちろん言わんとしていることは、投票した人間のほとんどは、政治的判断ができるような情報処理能力なんてないに決まっているということなわけです。床屋政談レベルで、本当に誰もが政治に参加なんてしてもうまく行くわけがない。消費税以外に論点を持たないアホな主婦の台所感覚を税制改革にもちこんで誰が幸福になんてなるんだろうか。やっぱりデモクラシーなんて虚構で、統治技術の一種じゃないのか。それは言い過ぎとしても、民主主義には巨大な矛盾がある。ほかの社会システムと比べて遙かにうまく行ってるけれど、それは何も「オレが選挙行ってやってるからだよ」なんて話ではないだろうに。まったくおめでたいじゃないか。ハノイの塔みたいな話だ。
「白票を投じるべき」というのはある意味では非常に正しい気がしてきた。つまり、投票による政治の監視というのはそれなりのコスト負担を個人に要求するわけだけど、「ただ乗りはゆるさんぞ」ということ。さて問題は、この国で監視機構として投票が機能しているのかということだけど。
2003/11/14(Fri)
企業文化
『松下で呆れアップルで仰天したこと---エンジニアが内側から見た企業風土の真実』(竹内一正,日本実業出版社)、
読了。これ以上はないという旧態依然とした日本型大企業の典型と言える松下と、これ以上の自由さはないという外資系のアップルを渡り歩いたサラリーマンによる、会社人生半生の記録。非常に好対照をなすふたつの企業風土、ってことがこの本の売りなのだろうけど、ぼくの会社はアップルジャパンとかアップルの社風に近いものがあるので、むしろ驚くのは日本の大企業のしきたりとか、人間関係。
そもそもアップルはぼくには近い存在。この著者は日本ゲートウェイに勤めたこともあるというし、ぼくはどこかで名刺交換ぐらいしててもおかしくない。長らくアップルは初台でお隣さん同士だったし、うちの会社からアップルに移った人も多い。
外部から見ていた印象を裏付ける内部証言という意味でも、ちょっとおもしろい。どうやったら煙が吹き出すような製品を世に送りだせるかという裏事情は、この本を読めばわかる。業界では有名だけれど、アップルさんは「殿様商売」。いっつも製品が遅れるうえに、不良品だらけ。でも、アップルのユーザーというのは、そんなアップルが大好きというから、本当におもしろい。これは業界の七不思議として誰もが知ってることだけど、要するにアップルはコンピュータ業界の阪神なんだ。たまにスゴイことをやってファンを沸かせる。
立ち読みで済ませようと思ってぱらぱら読んでいたら、ちょっと気になる文章があってつい買ってしまった。松下時代に著者は磁気記録事業部という、もっとも労働環境の厳しいところにいたそうだ。で、その部署での同期入社5人、1年後輩6人、1年先輩4人という3年間で入社した合計15人のうち、2人が死に、2人が精神のバランスを崩して社会生活を送れなくなったという。過労との因果関係はハッキリしないとは言うけど、第三者のぼくでもだいたいどういう労働環境だったかは想像がつく。生産技術課の社員がダムに身を投げたときに、会社は自殺であることが新聞に出ないように手を打ったというくだりを読んで、つくづく日本の企業は恐ろしいなと思った。
著者は無意識だったのかもしれないけど、この本のおもしろいところは、著者を取り巻く環境の変化によって語り口が見事に変わっていくところ。松下で工場のラインに立ち、日がな一日コンデンサのチェックに明け暮れる新人研修時代のころを語るときには、まるで新社会人のような口調。大企業病に失望し、無能な上司を押しのけてでも自己主張をし始めた時期のころを語るときには、まだ完全には目覚めきらない起業家魂のエネルギーがくすぶっている感じが、その当時の年齢の口調で語られている。そして、全編をとおしてときおり顔をのぞかせる45歳の現在の著者、自分の会社を持つに至った現在の口調は、もう完全に経営者のそれ。
単なる技術畑のサラリーマンで終わらなかった著者だからさもありなんという感じだけど、松下の技術部を取り巻く問題点を語るあたりは、なぜか非常に身につまされる感じがある。
技術部の人間は朝から晩までもっとも働いているのに、技術になんの関心も理解も示さない連中が無茶なスケジュールを立て、そのスケジュールが破綻すると、こんどは営業や販売の人間が技術者たちにハッパをかけ、罵倒しまくるという構図って、けっこう多くのメーカーで起こっている悲劇なんじゃないだろうか。技術立国として、モノづくりニッポンを支えてきた技術者たちは浮かばれない。技術バカ、専門バカとして、事務方にいいように搾取されるまま。
ぼくが前にいた部署は、きわめてアップル的だった。手を挙げて「やります!」と言えば、編集長が「よし、やれ。何ページほしい?」というだけで、仕事のほとんどすべてが担当者の決めたことが最終決定。いまの部署みたいに誰それに承認を得て、誰それにも見てもらってなんて話はない。きわめて自由度が高く、個人の裁量と責任が大きかった。組織としての体をなしていなくて問題も多かったけど、うまく行ってるときにはそれでけっこううまく行ってたりしてた。いまの部署はやや松下的。組織があり、システムがあり、管理職がいる。いちいち細かいルールがあり、不文律があり、ヒエラルキーがある。
ふたつの両極端な企業風土を語る本を読みながら、ぼくは頭のなかで、ぼくが経験した、同じ会社と思えないふたつの異なる風土を比べていた。
2003/11/16(Sun)
魅惑の傲慢オヤジ
この2、3週ほど、土曜日にムリして泳いで、日曜日に発熱というのを繰り返している。やめておけばよさそうなものだけど、もはや泳がないと不安で仕方ない。水泳をやってる人は、風邪とどうやって付き合ってるんだろうか。そもそも風邪なんて引かないんだろうか。
風邪薬を飲んで信じられないほどグッスリ眠ったら、これまた信じられないほどスッキリと元気に。
『知性について』(ショーペンハウエル,岩波書店)、
読了。身も蓋もない独善的で断定的な物言いがステキ。迷いもごまかしもなく、シンプルで明晰。もったいぶったり、複雑にみせようなんてこともなければ、些末な論点の自家撞着や危うさなんて気にもとめない(笑)、このスピード感と力強さ! これでこそ哲学者だ。超然として大衆や同時代の哲学教授を見下す、傲慢オヤジ! 立派だ。あっぱれだ。哲学講義の人気を巡ってヘーゲルに破れたからなんてそぶりはこれっぽっちも見せずに、恨み言をぶつけまくるこの不遜さ。
「世界にぎっしり詰まっている厄介なぼんくら頭たちに何が本当に欠けているのかというと、それは二つのよく似通った能力で、すなわち判断力と、自分の思想を持つ能力である」。
そりゃ世紀の哲学者に言われたら、うへへへぇと頭を下げるしかないけどさ。だけど実はこういう大衆に対する嫌悪感は、ぼくも大いに共有していたりするので、溜飲の下がる思い。
むかし自分のパソコンに「ハウエル」という名前を付けたことがあったけど、その当時よりも、今の方がずっとショウペンハウエルが好きになりそうな予感。
2003/11/17(Mon)
おやじギャクシンジケートからの招待状
アエラの中吊り広告にある駄洒落を毎週考えている、朝日新聞社の高橋弥太郎(仮名)を頂点として、全国に500万人とも600万人とも言われるおやじギャクおやじタチ。ある日、あのオヤジギャグシンジケートから、「あなたはついに我々のレベルに達したと認定されました」と招待状が届く日がくるんじゃないかと、それが怖い。招待状に愕然としてハッと周囲をみわたすと、あの人もこの人もこっちをみてて、「ようこそ」と目で秘密のサインを送ってくるんじゃないかと。恐ろしい、駄洒落地下組織。
駄洒落は、明らかに高度でクリエイティブな知的能力の発露。それなのに、なぜ駄洒落を含むおやじギャクと言われるものは、世の中であれほど嫌われているのか。なぜある年齢を超えると、急激におやじギャクメンバーが増えていくのか。
何か生理的な理由があるんじゃないか。年齢とともに涙もろくなるのとか、20歳を超えるとだんだんカツゼツが悪くなるのと似た理由で、脳の機能的な変化が、何か駄洒落を多発させているのじゃないだろうか。
あらっぽく言えば、たぶん脳の働きは年齢とともに鈍くなることはあっても鋭くはならない。とすると、年齢とともに駄洒落がたくさんひらめくようになるという認識は間違いで、むしろ年齢ともに駄洒落を抑えるべき回路が働かなくなっていると考えるべきだろう。その回路の名前は、、、まあ「恥じらい」でしょうか。若くしておやじギャクをがんがん飛ばす早熟な天才肌もいますが、ふつうは周囲に「ツマンネー」と言われてヘコむうちに抑制回路が形成される。
同じネタを繰り替えし同じ人に聞かせてしまうのは、記憶力の低下、新しいネタを日々生み出す瞬発力の低下? そういう生理的な理由とともに、地位の向上とともに増える周囲のお追従、地位の向上とともに生まれる根拠のない自信などという社会的環境の変化もあるのかも。
笑ってくれなくてもいいんだもん、という開き直りの陰には、「それでもキミは笑わなきゃいかんのだよ。さあどーする? ひひひ」という目下のものに対するややサディスティックな喜びと、「うしゃしゃ、オレはウケないことを平然と言ってやったぞ」という、何かひとまえでチンチンをさらすような下品な心性もあるんじゃないか。恥ずかしいものをさらし、恥ずかしいものから目をそらす周囲という。そういえば、若い女の反応みたさに下ネタを連発するオヤジと、ウケっこない駄洒落を連発するオヤジのニタニタ笑いはそっくりだ。冷たい反応を返されたときの喜びようも、そっくりじゃないか! そうか、あれは自虐だ。Mだ! 言われてみれば、男ばかりの席ではおやじギャクはそれほど出ないし、出てもさらっと流れる。
MとSは表裏なので、S的要素が強いおやじギャグもある。おやじギャクを飛ばしてエヘラエヘラする男の顔には、社会的地位やパワーを利用して、心地よくないものを人に押しつける人間の喜びの表情が浮かんでいる。受け方に困っている人間を「いいんだよオレのギャグなんて」と許してあげるということで、逆に自分のパワーを感じて高揚感を感じるようなこともあるんじゃないか。聞いてるほうにしてみれば、笑うも地獄、笑わざるも地獄、どっちも居心地が悪いんだからカンベンしてって感じなのに。
おやじギャグって、おもしろいとかおもしろくないという次元じゃなくて、実は本質的にエロ行為だから、みんなゾッとするんじゃないだろうか。
しかし、アエラはすごいと思う。あっ、つい白状してしまった!
2003/11/20(Thu)
240種類のサイコロ
寝床でうとうとしながら、ふと思った。もしかして世の中にサイコロって2種類あるんじゃないだろうか。表裏の2面の目を足して7になるというルールだけが唯一のサイコロの条件だとすると、1と6、2と5、3と4という3組の配置の仕方によって鏡像関係にあるサイコロが2種類作れる。どんなふうにひっくり返しても、互いに重なり合わない2種類のサイコロが存在しているはず。
ところが、日常感覚としてはサイコロは1種類しか存在していない。麻雀のようなサイコロを使うギャンブルをやる人はよく知ってるだろうけど、サイコロはすべてピッタリ同じように作られている。2、3、6といった90度の回転に非対称な目までもが、すべてのサイコロで同じ方向を向いている。
どうして今までぼくは仲間はずれのサイコロや、鏡像関係にあるサイコロを見つけたことがないんだろうか。単に気にしていなかったから?
気になってネットで検索してみたら、確かにサイコロは2種類存在していることがわかった。ただ、日本では「一天地六南三北四東五西二」のものだけが、西洋ではこれと鏡像関係にあるものだけが存在するらしい。「サイコロはひとつ」というのは、あながちまちがった印象ではないようだ。南半球を旅行した北半球の人が、洗面台を流れ落ちる水の渦がいつもと逆方向に巻いているのに気づかないようなもので、鏡像関係というものは、よほど注意してみない限りわからない。
エンカルタ百科事典でサイコロの項目を引いてみると、紀元前2000年のものと推定されるサイコロの写真というのが出てきた。モヘンジョ・ダロの遺跡から発掘されたものだそうで、このサイコロを見ると、現代のサイコロのように「表裏で7」というルールは存在していない。1の裏が2で、3の裏が4などとなっている。

モヘンジョ・ダロから出土したという4000年前のサイコロ。
表裏の合計が7じゃないといけない理由って、あるんだろうか。目の数によって穴の大きさは調整されているから、重量の偏りによって出目の確率に影響を与えるようには思えない。慣性モーメントが違う? 直感的にはそれも特に影響しないように思える。
もし、目の配置を完全に自由にしていいとしたら、一体何種類のサイコロがありえるのだろうか。
上面を1に固定して考える。底面は2〜6の5通り。側面は残り4種類の目の配列の組み合わせ。とりあえず側面の1つを固定して考えると、その一方の隣の目は3通りありえる。残り2面に2つの目が入り、この配置順は2通りある。だから、結局ぜんぶで5通り×3通り×2通りで、30種類のサイコロがありえることがわかる。
2、3、6の目は90度回転に対して対称じゃないから、目の配置自体が同じサイコロでも、これら3つの目の向きによって2×2×2=8通りの異なるサイコロがありえる。
というわけで、見た目がまったく同じものだけを同じサイコロとするならば、実は30×8で240種類のサイコロがありえることになる。
サイコロに240種ありえることは、別の数え方でも確認できる。
サイコロは一切回転せず、上は上、下は下というふうに面と位置が固定されているものだと仮定する。すると、サイコロの種類は6!×8で5760通り。
ふたたび回転するサイコロを考える。ある1つのサイコロが取りうる目の位置というのは、上面が決定され、側面が1つ決定されると一意に決まるので、6×4の24通りある。
5760通りのうち24通りずつが回転によって一致する「同じサイコロ」なので、5760/24で240種類となる。
よく考えると、もうちょっと簡単な数え方もある。サイコロには表裏のペアが3つあるわけで、この3ペアの組み方がいくつあるかを考えて、それを鏡像関係にあるサイコロぶんで2倍すればいい。6つの目を3グループのペアにわける方法が何通りあるかというと、5×3の15通り。だから、やっぱりサイコロの目の配置は30通りあって、これに2、3、6の向きの組み合わせ8通りをかけると240という数字が出てくる。
本当はサイコロのことを考えてたんじゃなくて、今朝宅配便でアメリカから届いた5×5×5のルービックキューブのことを考えていたのだけど、これがよく考えると4×4×4、3×3×3、2×2×2のキューブと部分的には同じじゃないかと思って、頭の中で縮めている間に、1×1×1のキューブとも言えるサイコロのことを考え始めたのでした。ルービック・キューブって、まるっきりサイコロの兄貴分なんだよな。

ルービック・プロフェッサーとか言う名前のキューブ。ちゃんと5段が回ります。
ちなみに、こんなのも一緒に買いました。「スライド・キューブ」とか言う名前で、サイコロがいっぱいつまっています。でもこれ、色を合わせるだけで実はパズルというより色あわせ。

スライド・キューブ。サイコロは転がりません。スライドするだけ。
2003/11/22(Sat)
赤いライト
たまに高いところに登ると、東京の夜景は捨てたものじゃないなと思う。ただ、ビルというビルに備えられた明滅する赤い高度警告灯って、どうにかならんのかね。あれはアグリーだと思う。画一的なのがいけない。もっといろんな色を許可すればいいのに。
『養生訓』(貝原益軒,伊藤友信訳,講談社)、
読了。「接して漏らさず」で有名な、あの益軒翁。健康や長寿にかかわる心の持ちようを述べているようなところ、長寿をいかに楽しむかというような話では、身につまされる非常にいいことをたくさん言ってるけど、これを養生の要諦を述べた実用書として読むのはきつい。一部の当たり前的な話をのぞけば、医学的知識として現代人に参考になるような話はあんまりない。いや、250年という時間は、あまりに長すぎるのか、あるいは、この50年ほどで日本人の生活があまりに変化してしまったこともあるんだろう。たとえば「魚や鳥などのように味が濃く、脂肪が多いものは夕食には悪い」とか言うけど、まさか冗談でしょうという感じ。トンカツ、ハンバーガー、フライドチキンをがつがつ食ってるぼくからすれば、魚なんて脂肪が少なく理想的な食い物だ。中国や韓国といった大陸の人たちは胃腸が丈夫だから肉食もできるけど、日本人は生まれつき虚弱だから肉は食べないほうがいいというけど、かつてはそうだったのだろうか。長崎にいる中国人が作る中華料理は日本人には脂っこすぎるし、味付けが濃すぎるとも、益軒は言っている。
この250年で医学は進歩したし、庶民の知識もずいぶん増えたんだろうけど、彼の姿勢には大いに見習うべきことがある。たとえば、中国の医書に書かれていることであっても、日本の風土や人にあわなければ、それを日本風にアレンジする柔軟さがあったり、俗説を俗説としてきっぱり退ける科学的態度があったり、俗説と言われるものであっても自分で試してみてそれで効果ありと認めたのであれば、それを書き記すことにまったく躊躇しない経験科学者的な視点があった。
アミノ酸がいいと言われると、わけもわからずアミノ酸アミノ酸と騒ぎたてる現代日本人なんかより、はるかに益軒は科学的だと思う。唾は大切なものだから吐いてはいけない、遠くへ唾を吐くのはもっと悪い、とか、そういう不思議なことも、たくさん言ってたりもするけど。
2003/11/26(Wed)
職場通貨
地域通貨ってほとんど全部ロクなものじゃないと思うけど、ひょっとして職場ローカルな「職場通貨」というのであれば、導入するメリットがあるんじゃないだろうかと思った。仕事の質や量は、給与だけで配分するよりも、もう少しローカルな再配分のシステムがあったほうが流動性が高まるし、変な感情のわだかまりみたいなのもなくなっていいのかな、と。個々人の通貨所有の最適化インセンティブが全体の効率アップにつながるような設計は可能なんじゃないか。
すでに「ごめん、これお願い! こんどメシおごるよ」とかメシで貸し借りをやってるわけだし、情緒的な貸し借りの概念は確固として存在している。これをもう少し明示的にやるわけです。円通貨にリンクするのはまずいので、たとえば、うちの職場での1時間の労働を「1WAM」という通貨単位として、これを互いに交換する。適当な紙に刷って子ども銀行券のように発行する。
誰かの仕事の遅れや、いい加減な仕事が周囲の迷惑になるようなこともある。そういうときには、その人の所有する職場通貨の一部を没収するなんてこともできる。没収されまいという意識は、仕事の質と速度向上へのインセンティブになる。精神的なプレッシャーとか、年次ごとのおおざっぱな人事評価より、ローカルに即効性のある小回りの良さがある。逆に没収したところから再配分を受けとる側は、感情だけの補填よりも実のある補填を受けられる。
地域通貨って国家経済とか、あるいは資本主義そのものが信用ならんからと出てきた情緒的なアンチテーゼなんでしょうけど、職場通貨は、全社的な人事システムなんてフットワークが悪すぎて不便だという不信から生まれるのです。あるいは、こうたとえてもいい。社会主義の中央政権による統制経済が、管理者によるプロジェクト管理。資本主義の市場経済が、職場通貨による管理なき仕事の効率化。
「職場通貨」でGoogle検索したら、検索結果ゼロ。ようし、ぼくが言い出しっぺだぞ。うわ、どうしよう世界的なムーブメントになったら。
もし職場通貨が存在するのなら、ぼくは今日はいっぱい放出しただろうなぁ。
NISHIMURA Ken <nis@bigfoot.com>