2003/08/01(Fri)
ブレーキ
このところバイクからシャリンシャリンとメタリックな異音がする。前輪ブレーキの利きも悪い。ハンドルの手元についている小さな謎の黒い箱を見ると、その小さなのぞき窓から見えるアブラらしき液体の水位は「LOW」をだいぶ下回っている。何かが低いんだろうと思ってはいたけど、バイクに詳しい会社の先輩に相談したら、死にたくなければ一刻も早くバイク屋に行けという。やっぱりブレーキかと思いつつ、なんだよ、そんなにアブナイんだったら「LOW」とかしゃらくさいこと書かないで、「DEAD!」とか書けよ、とか思う。
ていうか、書くべきなのは「LOW」じゃなく「キケン」または「交換」だろう。まだるっこしい表示ってどうにかならんかね。関西人のぼくとしては、やっぱり電車の扉には「閉まるドアーにご注意ください。指がうんたらかんたら」じゃなくて「ゆびつめちうい」と指をはさんだ子どもが泣きじゃくってる絵があってほしいし、動物園のライオンのオリには「えさを与えないでください」だの「柵を越えるとキケンです」だのブチブチと書かずに「かみます」と書いていてほしいもんだ。キケンなんだから、キケンなんだとぱっと見て子どもにも分かる形で伝えずにどうする。ちなみにこれ、どっちもホンマの話やねんで。誰もがバイクのブレーキのことを分かってるなんて思ってくれるなよ、と自分の無知を棚に上げてみたりする。
バイク屋に行ったら、ぼくのまだるっこしい説明を聞いてるそばから、つなぎを着た店員は、即座にブレーキパッドが摩耗していることを指摘してきた。ぼくが見たところ、いつもどおりの銀の円盤がきらきら光ってるだけで、どこにも異常はない。どこがすり減ってるんだろうか、わからない。うーん、さすがプロ。一発で分かるなんて。
1時間ほど経って修理が終わったバイクを取りに戻ってみたら、ブレーキのディスクに、なにやら見たことのない黄色いパーツがはまっていた。つなぎのお兄ちゃんは、ブレーキパッドがすり減っていることを見抜いたのじゃなくて、そこにあるべきブレーキパッドがほとんど存在しなくなっていたことを指摘していただけだったらしい。なぁんだ。なぁんだってこともないけど。
 | この黄色というかオレンジっぽいのがパッド。 |
2003/08/02(Sat)
いつか、かしこくなって
やや無理して7000m。2000m泳いで10分休憩、そのあと5000m。泳ぐのに2時間半近くかかった。途中で休んだけど1日の最長記録更新。1日で10kmというのも、もうちょっとか。だんだん土曜日が「たくさん泳ぐ日」になりつつある。土曜日が楽しみで楽しみで。
山形さんが「諸君!」8月号でロンボルグの訳本(『環境危機をあおってはいけない---地球環境のホントの実態』)のことを語っているので、気になって買って読んでみた。大笑い。ロンボルグの本、読んでみようと思ったけど、骨子はほぼこの対談で言い尽くしている感じもあるし、いいやって感じ。一般的に言って、環境活動家は胡散臭いと思ってたけど、やっぱりヒドイものだ。環境問題をあおるメディアにメディアの良心なんてあったためしがない。環境問題に心を痛める「善人」のほとんどは科学的、統計的な知識や資料とは縁がない。環境問題の最大の問題は、自称環境活動家が、環境のために本当にすべきことから社会の関心をそらし、膨大なコストを無駄な方向に向かわせているという皮肉にあるわけだ。
同じ号に日本核武装論特集。賛否両論で論客42人。是非を異にする2人が、まずトップに特別扱いされている。両論併記ってことなんだろうけど、この2人があまりに鮮烈な対照をなしていて、何か編集部の意図さえ感じるのは気のせいだろうか。オトナと子どもの議論ぐらいにレベルが違う。核武装を否認すると主張する青山繁晴という人、ほとんどバカにしか見えません。該博で深い歴史認識と政治的洞察、文明論から大きな絵を描き出す中西輝政の手際のよい論理展開に比べたら、青山という人の書いてるのは、ほとんど子どものダダ。しかもマズイことに権威主義的に自分の職歴をひけらかしたりしてて、まったくマズイ。
だからというわけじゃないけど、日本は核武装するべきじゃないかと、とりあえずぼくはそう思います。まずは憲法改正なんでしょうね。
『ネットワーク社会の神話と現実---情報は自由を求めている』(池田信夫,東洋経済新報社)、
読了。Hotwiredの連載をまとめたもので、ほぼ全文がネットで読めるはず。
読んでいて頭から湯気が出てきそうなほど著者と一緒に憤懣を感じることしきり。特に総務省の電波行政のトンチンカンさには、ほとんど卒倒しそうになった。どうして、こんなにヘンなことになってしまうのか。
著者が扱うのは「神話化した問題」の数々。そのほとんどが「そもそも問題なんかじゃない」あるいは「問題の本質はそんなところにはない」というもの。次々と「非問題(ノンプロブレム)」であることを暴く。あっちこっちの業界に敵を作りまくってるんだろうけど、とてもすばらしい仕事をしていると思う。
まえがきにあるとおり、非問題が問題であるのは、それに無駄なエネルギーが浪費されるばかりでなく、それが真に議論されるべき問題を覆い隠してしまうからだ、という。たとえば、一時メディアが大騒ぎした国民総背番号。住基ネットなんて、もうみんなそろそろ忘れちゃったかもしれないけど、あれ。「私は番号になんてなりたくない」とか情緒的な反発はいっぱいあったわけだけど、ホントのところ住所と名前ぐらいが分かってなんだって話。アマゾンコムがぼくについて知ってることに比べたら屁にもならない。もともと住民基本台帳は、誰でもどこからでも取ることができたもので、それがネットワーク化されてなんだって話。情報社会で生きているうえで個人情報を本人が完全にコントロールできないというのは、それはもともと情報化社会が要請する対価。情報化社会がイヤなら、免許の番号もパスポートの番号も、クレジットカードの番号もぜんぶ返上すればいいじゃないか、と。そもそもプライバシーという発想自体というのが、ある種の幻想で、あなたについてのプライバシーはあなたのものだったためしなど、もともとなかったのだと、と。あ、こんな要約じゃ雑駁すぎて暴論だ。ま、メモだから。泳ぎすぎで眠いんです(じゃあ寝ろって)。どっちにしても、気になる人は自分で是非どうぞ。で、住基ネットの本当の問題は過剰な設備投資によって得られるメリットが、きわめて限定的であること。ハンコをICカードにして何がうれしいんだってぐらいの話。年間8600万枚の住民票の参照があるらしいけど、そもそもそんなに大量に住民票が必要なことがおかしい、と。そういう根本的なところで改革もせずに、なんで非インターネットの特殊ネットを構築しちゃったりするわけよ、と。
世界の民族の神話に共通する構造があるんだって話じゃないけど、この本で取り上げられている「神話化した非問題」には、なにか共通するいくつかのパターンがある気がする。いや、いくつもないか。既得権益とか。騒げば金になるとか。ナッシュ均衡にはまっちゃって抜けらんないとか。
ちょっと気分はアルジャーノン。「かみさまのこととか、てつがくのこととか、みんながカフェテリアでぎろんしているようなことを、ぼくもわかるようになって、ぎろんしたい」と、まだおばかさん状態の主人公が日記に書くシーンがあった気がするけど、そういう気分。ぼくもいつか、おばかさんじゃなくなって、しゃかいのこととか、せいじのこととか、あいてぃーのこととか、ろんじてみたい。
ずば抜けて頭脳明晰になった彼は、ほかの学生の議論が、実は非常にくだらないことを発見し、やがて同僚の経済学の教授がバナッハ空間が何かさえ知らないことに驚愕したりするんだけど。
2003/08/13(Wed)
ハラキリ
『切腹---日本人の責任の取り方』(山本博文,光文社)、
読了。多数の史料を渉猟して集められたハラキリ事例の数々。読んでると、何だかRPGでスライムでもやっつけてる気分。画面に登場した途端にやられちゃう、やられキャラのように、みんな切るわ切るわで、次々と切腹する。いや個別には連続してないのだけど、読んでる方は連続して事例を目撃するような錯覚にとらわれるわけで、読んでる間中、ぼくの頭のなかでは「しゅばーっ!!」「ざくッ」「ブヒューッ」と、鮮血が飛び散りまくっていた。
この本で取り上げられてる切腹した武士の数は400人を超える。まったくもって理不尽というほかない冤罪や、取るに足りないごくごくささいな手落ちで切腹を命じられる時代ではあったけど、そういう場合でもほとんどの武士は潔く、「あっさり」という言葉ですらマッタリ聞こえるほどアッサリと、みんな見事に死んでいってる。その潔さに武士道精神の高度の洗練を感じないわけではないけど、ぼくの感想は、当時の「オーノー、ヤポネはクレージー」と言った(言ってない)、ヨーロピアンなんかに近いかも。「なんも死ぬことあらへんがな」。つまり、みんな潔すぎて、やや不気味ですらある。
ハラキリが形式として洗練され、また自死ではなく刑罰の一方式となったのは江戸時代。で、江戸の初期にはブームになった理由ってのがあって、それは江戸の初期に殉死をするのが流行ったこと。主君が何らかの理由で死んで、後追い自殺をするわけだけど、要するに強烈な男色の文化があったわけだ。絶対の愛を誓う場合に自分の身体を傷つけるというのは洋の東西を問わず、古今見られる風習だけど、その究極の形式としての後追い自殺。腹を切るのは、腹に「本心、まごころ」が宿っているから。うーむ。
副題からすると日本人固有の責任の取り方を論じて、現代社会の組織やら倫理やらの話をぶっちゃう本かと思ったら、そうじゃない。現代日本に陰を落とすハラキリの倫理感や社会的機構としての責任処理方法についての考察は、わずかに最後の数ページにあるだけ。しかもそのほとんどは、あとがきに書かれているだけで、「蛇足ながら……」とでも言わんばかり。現代日本社会はああだこうだと論じたりしない筆者の態度がまた妙に潔い。でも、本書の最後の最後、一番最後の段落には、かなり痛烈な現代日本社会への批判が込められている。
「責任をとって切腹するという潔い態度は、個々の人間の精神としては美しいと思う。しかし、それが上から強制されるときには、上の者の体のよい責任逃れとして使われることが多い。現在の日本でも、そのような構造は、官僚組織や会社組織などに根強く残っているのではないだろうか。」
江戸時代の切腹申し渡しは、形式上は自発的なケリの付け方であり続けたものの、事実上は刑罰になっていったわけだから、そこには二重性がある。責任の所在がハッキリしない場合や、社会全体や幕藩の秩序維持のためにスケープゴートが必要となった場合には、誰かが腹を切らねばならぬ、という暗黙の了解があった。
江戸時代になぜあれほど大量に切腹が行われたのか。筆者は、理由は2つに集約されるという。1つは「武士の身分的矜持」で、もう1つは「主君への絶対忠誠」。いくさの時代が終わっても、武士は戦闘者であるわけだから、死を恐れない勇者としての矜持が武士にはあった。絶対忠誠というのは、若干時代によってニュアンスが変わるようで、江戸初期には、まだ主君にたてつくことはあり得たけど、脱藩して生きていくなどということが不可能になった時代には、主君に「死ね」と言われたら、それはもう死ぬ以外に現実的選択肢がなくなっているということ。最初から自分の命は自分のモノではないのだから、切腹が当然と考えられるような状況に自分が陥ったら、じたばた騒がずに「かたじけなく仕り候」と、潔く果てようという論理。
誇り高く、潔く。自分が守るべきモノのために、従容として死に赴く。守るべきモノが、国であれ、家族であれ、信念であれ、それはそれで美しい精神だと思う。いや、そんなの流行らないか、いまどき。
2003/08/14(Thu)
耄碌して神秘主義者になる自然科学者
『精神と物質---意識と科学的世界像をめぐる考察』(エルヴィン・シュレーディンガー,中村量空訳、工作舎) 、
読了。波動力学をうち立て、量子力学の理論的構築に多大な貢献をした20世紀を代表する物理学者。アインシュタインと並ぶ、この世紀の理論物理学者は、また一方で若いころから生命、意識、進化といった諸問題を考え続けた思想家でもあった。と、そういう話は聞いたことはもちろんあったけど、じゃあ、一体シュレディンガーが、こんにち「ハードプロブレム」と呼ばれる「人間の意識とは何か?」について、どう考えていたかと言われると、実はよく知らなかった。
数年前、Mathematicaを作ったことで知られる天才数学者ウルフラムは、1000ページを越える本、「The New Kind of Science」を上梓した。そのボリュームから言っても、「従来の科学、文化、国家、、、なにもかもを変える、まったく新しいサイエンスである」という宣伝文句通りに捉えるなら、その射程も、畢生の大著とでもいうべきを本だ。ところが、これは大変な酷評をもって迎えられ、いまやもう誰も彼の名前を口にしない。若くして天才の名前をほしいままにしたような自然科学者が、人生の老境にいたって、神秘主義に傾いてトンでも本を書くということはままあることだけど、ウルフラムの場合に驚きなのは、彼がそれを40歳という若さでやってのけたことである、と酷評されていたっけ。10代で早くも頭角をあらわし、輝かしい業績を20代でうち立て、30代で早くも莫大な財産を築いてしまった天才は、ほかにやることがなかったのかというほど、どうしようもない本を書いてしまった。
で、トンでも本とは言わないけど、このシュレーディンガーの本も、何だかやっぱり耄碌した物理学者の戯言に近いな、とぼくはそんな印象を持ってしまった。というより、これは物理学者の書いた本じゃなくて宗教家の書いた本だ。で、宗教家が書いた本としては、たぶん凡庸きわまりないということになるんだろう。ウパニシャドの哲学を引いてくるのはいいけど、結局、物理学的世界観からウパニシャドの世界への移行は、論理もへったくれもない飛躍しかないじゃん。世界と意識は1つであり、意識は多として存在するのではなく、それも宇宙に1つなのだって、それってシュレディンガーが「感得」した事柄でしかない。
期待して読んだわりに、なんだか凡庸な印象を受けたのは、シュレーディンガーが1887年生まれと、ぼくよりも100歳近く年上だからというのも大きな理由だろう。彼は、科学が人間の脳とか意識という領域に本格的に足を踏み入れつつあるさまを、最初に目撃した世代であり、また、自然科学が描き出す物理学的世界観というのが、実は客観的存在たりえないことを、物理学自身がはじめて認めなければならなくなった、最初の世代だった。現代の基準から見れば、彼の思索は神秘主義でも何でもないけど、彼の時代には周囲から神秘主義と呼ばれる十分な理由があった。当時の基準からすれば、心の問題を考えているような現代の科学者は、みんな神秘主義者になってしまうからだ。
ひとつ、おもしろいなと思ったのは、人間の意識とは学習している部位に現れる、と言ってたりする点。新鮮な発想。たとえば日常的な、歯磨きの動作って、ほとんど無意識的にやるわけだけど、はじめて歯を磨いた子どものころには、一生懸命その動作を学習する。つまり意識してやる。それはだんだん意識の底の方にオリのように沈んでいく。同じように、生物としての人間は、受精後に胚から系統発生を繰り返してやがて生まれてくるわけだけど、言ってみれば進化の記憶、進化上蓄えた記憶を繰り返すだけのときには無意識である、と。意識が現れるのは、進化の最先端、なにか新しい状況に対応しようとしているときだと。これはちょっとおもしろモノの見方。
もう1つメモ。シュレーディンガーは、ラマルクの進化論を妙に支持したがっている。当時すでに否定されていた「個体の獲得形質が遺伝する」ということを、なんだか妙に持って回った説明で何とか立論しようとする。直接的にDNAとしては遺伝はしないけど、間接的な形で、実はラマルク流の進化論が成立しているのだ、と。その議論は、ドーキンスに言わせれば社会的遺伝子「ミーム」なんだろう。
2003/08/15(Fri)
不眠
夏風邪でまいって昼間寝てしまってから、どうも夜型。このところ眠れない。眠れられぬ床で、本なぞ。
『渡部昇一の昭和史』(渡部昇一,ワック)、
読了。真珠湾攻撃で日本の宣戦布告が遅れた本当の理由がやっとわかった。南京大虐殺という虚構が捏造された経緯がよくわかった。日清、日露戦争の世界史的な意味もわかったし、太平洋戦争へと日本軍部が暴走した理由も大筋わかった。と、思っていいのだろうか。
『名言集』(D・カーネギー,神島康訳,創元社)、
読了。カーネギーですよ。いや、なにか巨大な勘違いにより、ぼくはカーネギーホールの、あの鉄鋼王カーネギーのことかと疑わずに本を手に取ったけど、このデール・カーネギーというのはセールスマンをして、後にスピーチ講座を開いたり公演したりして成功した人らしい。知らんかった。鉄鋼王のほうは、アンドリュー・カーネギーでした。
大成功した実業家のノートだと思って読みはじめたものだから、ああ、情熱と行動に生きた人間の好きそうな言葉が集まってるなぁと妙に納得したりしたけど、鉄鋼王でもなんでもないデール・カーネギーの素性を調べてみると、単にセールスマンで成功しただけの勤勉家。あ、あとベストセラーになった本、『人を動かす』を書いた人。
ドロシー・カーネギーという、デールの奥さんが、デールの死後に集めたノートのメモを整理して出版したのが、この名言集。デールは生前、ノートに自分の好きな言葉を集めていたという。
デール自身の言葉も一部にあるにはあるけど、大多数は古今の名言の引用。どこかで聞いたことのある箴言、格言、名言を引用しただけで一冊の本だっていうのは、一体どういう了見なんだよっと思うかもしれないが、そうでもない。読んでみればすべての言葉がデール自身が発してるかのごとくに、デール色に染まっているから不思議なもんだ。ぼくの好きな、皮肉で辛辣なラ・ロフシュフーコーの箴言ですら、デール色になってしまっている。このデール色をまとめて言えば、「勇気を持とう。諦めないでいよう。人に感謝されるように生きよう。昨日や明日じゃなく今日をめいっぱい生きよう。目の前の仕事に熱中しよう。そしてシアワセになろう」とか、そういうこと。
全部で5章からなる各章は、実はどれもその章を代表する1つの言葉で要約できるのじゃないかというほど似たような言葉が連続して並ぶ。かなりめまいがする感じ。たとえば、第1章「いかにして自信を得るか」には、こんな言葉が並ぶ。
「危険が見に迫った時、逃げ出すようでは駄目だ。かえって危険が二倍になる。しかし決然として立ち向かえば、危険は半分に減る。何事に出合っても決して逃げ出すな。決して!−−ウィンストン・チャーチル」
「勇気とは、恐ろしくて半分死にそうになっている時でさえ、その場に必要な行動が取れる能力である。−−オーマー・ブラッドリー将軍」
「障害を克服できると信ずる者だけが、本当に障害を克服することができる。……一日に一つでも恐怖の対象を克服しない者は、まだ人生の第一課さえわかっていない。−−エマーソン」
「恐怖の数の方が危険の数より常に多い。−−セネカ」
何だかもうげっぷが出そうです。悩みの大半は悩むに値しない。クヨクヨ悩むより、敢然と、そして冷静に問題に当たれ。駄目なら駄目なんだし、もう駄目だと思ったときに事態は好転するものなんだ、というような指摘は、まあそうなんだよなと思うけど、どうしてこうもこの人は「勇気」を強調するのだろうか、と不思議に思った。で、読んでいてわかったのは、このデール・カーネギー自身が少年時代、青年時代と、極端に臆病で引っ込み思案だったということ。
勇気だけじゃなく、勤勉、不屈のチャレンジ精神なんかについても、同じような言葉がずらーっと並ぶ。やや、めまいが……。でも、せっかくだから、ページを折った箇所を引用しちゃったりしてみて。
- 今日だけは、幸福でいよう。リンカーンは「たいていの人々は、自分で決心した程度の幸福になれる」と言ったが、まったく至言である。幸福は内部から生じる。外部の事柄ではない。
- 今日だけは、自分自身をその場の状況に順応させて、自分の欲望のためにすべてのを順応させることは控えよう。自分の家族も仕事も運も、あるがままに受け入れて、自分をそれに合わせよう。
- 今日だけは、身体に気を付けよう。……
- 今日だけは、自分の精神を鍛えよう。何か有益なことを学び取ろう。精神的な不精者にはなるまい。努力と思考と集中力を必要とするものを読もう。
- 今日だけは、3つの方法で魂を訓練しよう。誰かに親切をほどこし、気づかれないようにしよう。……、2つは自分のしたくないことをしよう。
- 今日だけは、愛想よくしよう。できる限り晴れやかな顔をし、穏やかな口調で話し、礼儀正しく振る舞い、惜しげなく人をほめよう。他人の批判やあら探しを慎み、他人を規則で縛ったり、戒めたりすることをやめよう。
- 今日だけは、今日一日だけを生き抜くことにして、人生のあるゆる問題に同時に取り組むことをやめよう。……
- 今日だけは、一日の計画を立てよう。処理すべき仕事を一時間ごとに書き出そう。予定通りにはいかないかもしれないが、ともかくやってみよう。そうすれば2つの悪癖−−拙速と優柔不断と縁が切れるかもしれない。
- 今日だけは、たった一人で静かにくつろぐ時間を三十分だけ生み出そう。この時間を津kって、時には神について考えよう。人生に対する正しい認識が得られるかもしれない。
- 今日だけは、恐れないようにしよう。とくに幸福になることを恐れたり、美しいものを楽しむことを恐れたり、愛することを恐れたり、私の愛する人が私を愛していると信じることを恐れないようにしよう。−−シビル・F・パートリッジ
ぼくは、この10箇条を覚えて毎晩じぶんで確認しよう(さっそく口調がうつってるし)。覚えて、と言う割に引用が不完全だ。まあいい。
「幸福の秘訣は、自分がやりたいことをするのではなく、自分がやるべきことを好きになることだ−−ジェームズ・バリー」。ちょっと耳が痛い。不平不満を並べる前に、目の前の仕事に熱中し、これを一生懸命やろう。
「われわれは幸福も不幸も大げさに考えすぎている。自分で考えているほど幸福でもないし、かといって決して不幸でもない。−−バルザック」。事業に失敗して波乱の人生を送ったバルザックが言えば、説得力もある。飢餓の恐怖もなく、心身ともに日々健康に暮らせるだけでも、ぼくらはそんなに不幸であるわけがない。
「人生とは、今日一日一日のことである−−確信を持って人生だと言える唯一のものである。今日一日をできるだけ利用するのだ。何かに興味を持とう。自分を揺すって絶えず目覚めていよう。趣味を育てよう。熱中の嵐を体じゅうに吹き通らせよう。今日を心ゆくまで味わって生きるのだ。−−デール・カーネギー」。ほんとうに。人生とは、今日のことなんだ。「明日になれば」「明日には」なんて言ってる明日なんか永遠にやってこない。
「相手と意見が食い違う時は、敵意をむき出しにしないで、相手を敬愛している気持を、表情にも行動にも言葉にも表すよう、努めることだ。−−ポール・ダグラス上院議員」。考えてみれば、ぼくは意見の相違があるときでも、相手そのものに敵意を感じる理由なんてまったくないのだから、これはいつだってできるはずだ。
「相手は間違っているかもしれないが、彼自身は、自分が間違っているとは決して思っていないのである。だから、相手を非難しても始まらない。非難は、どんな馬鹿者でもできる。理解ことに努めねばならない。賢明な人間は、相手を理解しようと努める。相手の考え、行動には、それぞれ、相当の理由があるはずだ。その理由を探し出さねばならない−−そうすれば、相手の行動、さらには、相手の性格に対する鍵まで握ることができる。本当に相手の身になってみることだ。−−デール・カーネギー」。謙虚な心構えを述べている前半に続く後半が不気味。さすがセールスマンで大成したような人は、対人関係をとてもプラクティカルに見ている。
「どんな馬鹿でも、あら探しをしたり、難癖を付けたり、苦情を言ったりできる−−そしてたいていの馬鹿がそれをやる。−−ベンジャミン・フランクリン」。これは反省するところがいっぱい。でも、本当にそうだよな。なんでもかんでも難癖つけるヤツっている。あら探しは何も生まない。
「人間には欠点はつきものである。完全無欠の友人を探しても、理想通りにはいかない。われわれは自分の欠点は棚にあげて自分を愛しているのだから、友人も自分同様に愛すべきである。−−キュロス大王」。友人を恋人に置き換えてもいいのかもしれない。
「自分の長所、欲求を忘れて、他人の長所を考えようではないか。そうすれば、お世辞などはまったく無用になる。嘘でない心からの賞賛を与えよう。“心から賛成し、惜しみなく賛辞を与え”よう。相手は、それを、心の奥深くしまい込んで、終生忘れないだろう−−与えた本人が忘れても、受けた相手は、いつまでも忘れないでいつくしむだろう。−−デール・カーネギー」。ぼくはもっと人を誉めるべきなんだろう。
「報酬以上の仕事をしない者は、仕事並みの報酬しか得られない。−−エルバート・ハバード」。むむむ、耳が痛い、耳が痛い。
2003/08/18(Mon)
かーるおじさんひげ
お盆の間、ほったらかしにしてたら、ずいぶん髭が伸びてしまった。それは知ってたけど、まさか周囲が「あれっ!」とか「おっ!」とかいちいち声に出すほどのことだとは、今日久しぶりに出社するまで気づかなかった。
ビミョーにフヒョー。「なんかチガウよね」とシツレーなことを言うひとびと多数。
「ひげ 手入れ」で検索してわかったけど、要するに伸ばしっぱなしの状態だと、ぼくのひげはカールおじさんのひげになってしまうのだ。口を丸く取り巻くように。これが貧乏くさいというか、浮浪者くさいというか、薄汚い感じを醸しているらしい。本人はちょっぴり「ワイルドだろう。たまには男臭くあろう」と勘違いしているのにも関わらず。
最近のオシャレなひげというのは、これに対してだいぶ薄い。剃るべきところは剃る、というより、あごの骨のラインに沿って残す程度だったりする。
さっそく形を変えてみよう。失敗したらスッキリ剃れるというのが、マユなんかと違って気楽なところ。
とか、そんなことやってる場合じゃないような気ぜわしさ。ああ、もう1週間以上も泳いでないや。
2003/08/24(Sun)
Procrastination
ともかくめっぽう仕事がデキて、しかも速いという評判の上司がいる。ぼくもよく感嘆してたのだけど、その人があるとき意外なことを言った。深夜3時頃に自分の机の横にある棚をゴソゴソとやってたそのヒトは、「あれ……、ないなぁ、このへんに……」と何かさがし物をしている様子。長らくそうやってゴソゴソやってるので、何か仕事に必要なものを探してるんだろうと、そばに行って話しかけてみたら、返ってきた答えは、ぼくにはとても意外なものだった。
「いや、全然どうでもいいもので、今それが必要なわけでもないし、仕事にも全然関係ないんだよね。いや、ホントはオレこんなことしてる場合じゃねーんだよ。やることいっぱいあって、ホント、こんなことやってる場合じゃないんだけどさ、こんなことやってる場合じゃないってときほど、こんなことをやるもんでさ。あはは」
そう言って、それからさらに10分ぐらいは、ごそごそとあっちこっちをひっくり返してた。
あれほど仕事が速くてデキると言われてるEさんでさえ、「そんなことやってる場合じゃないときほど、そんなことをしてしまうんだ!」と言うので、ぼくは妙にうれしくなった。
日本語では現実逃避と言い、英語ではprocrastinate(ぐずぐずしてやるべきことをやらない)と言う。ヒトはなぜ、非合理的な行動と分かりつつ、ついprocrastinateしてしまうのだろうか。いや、もう少しこの疑問を正確に表現するのなら、「オレはどうしてこうもprocrastinatorなんだろうか……」ということだったりして。はぁ。
ヤフオクなんて見てる場合じゃないってときほど、いままで興味のなかったジャンルも含めて、全ジャンルを片っ端からクリックしてみたりして。見ていて見つけたものだけど、4×4×4と5×5×5のルービックキューブがほしい。きっと、その2つがあれば、当面はprocrastination時の玩具には事欠かないぞ。