the other side of my days
ご意見,ご感想,ごいちゃもんなどございましたら
NISHIMURA Ken <nis@bigfoot.com>まで。


2003/06/01(Sun) 1km18分を切ったぞ
2003/06/14(Sat) 間氷期
2003/06/15(Sun) 元春節
2003/06/17(Tue) 舞踏
2003/06/18(Wed) 憲法護って国滅ぶ
2003/06/20(Fri) ハツカ会
2003/06/21(Sat) 最悪の映画ってわけでもないでしょうが
2003/06/22(Sun) 1日100枚撮れるかな
2003/06/24(Tue) 13%
2003/06/25(Wed) 不倫
2003/06/27(Fri) 肉
2003/06/28(Sat) 肉肉
2003/06/29(Sun) 泣く泣く筆を染めて、これを記す
2003/06/30(Mon) アウシュビッツ


2003/06/01(Sun)

1km18分を切ったぞ

1000mを17分57秒! ついに18分を切った。50m54秒ペースってことだ。お正月に立てた目標をあっさりクリアしてしまった。1日の距離平均を2000mにするというのも、すでに大幅に超えてるし、50分で2500mというのも、プールが混んでないときに時間さえ計測すれば今すぐにでもクリアできそう。
しかし、ちょっといくら何でも泳ぎすぎか。時間使いすぎ。5月中は3日に1度のペースで泳いだことになる。まあゴルフに狂ってしょっちゅう打ちっ放しに行くような人もいるわけだし、多少水泳に中毒気味でもいいか。

2003/06/14(Sat)

間氷期

『Ice Age---How a change of climate made us human』(John and Mary Gribbin, Penguin Books)、読了。地質学的な時間スケールの話だから早くても数万年単位かからないと変化はやってこないわけだけど、いまぼくらが生きている時代というのは氷河期の中休みとも言えるタイミングじゃないか、というどっかで聞いた話とか。
インド人の輪廻思想をはぐくんだ悠久の時間の流れだとか、永遠にいくつかの季節を円環的に繰り返すという平安時代の日本人の時間感覚だとか、そういう気候の恒常性みたいなのって、せいぜい数千年という一瞬の出来事。それほど大きく「変わらない」ように思えるだけで、実際には地球というのは過去数千万年の歴史をさかのぼると、暖かくなったり、冷たくなったりを繰り返している。温暖化が騒がれてるけど、本当に人間の活動が原因かどうかなんてわかりゃしないし、もし人間がいなかったとしても気候なんて変動するもの。
氷河期の存在が初めて論じられるようになったのは、たかだか100年ちょっと前。まして、氷河期のサイクルが10万年か40万年か、あるいは100万年か、はたまたもっとランダムに起こるかなんて議論ができるようになったのは、同位体元素による年代測定技術や海底に堆積する土砂のボーリング調査技術が発達し始めた、ここ50年ぐらいの話。
そういう氷河期研究の歴史を追った本。副題にあるホモサピエンス進化と氷河期の関係についての考察は、自信なさげに最後の10ページほどに書いてあるだけというのが悲しい。そこを期待して手にしたのに。
氷河期に両極の氷床がヨーロッパあたりまで伸びると、それだけアフリカは雨が減って乾く。乾くと森林の面積が減って、ぼくらの祖先のお猿さんたちは木から降りて、厳しい環境で生存競争を繰り広げることになる。このとき、より賢く、より雑食化したお猿さんたちが生き残る。で、氷河期が終わると、いったんは乾ききったアフリカに雨が降って豊かな森がよみがえる。そこでは前回の氷河期よりも、より進化したお猿さんたちがウキャーッと繁殖する。で、また氷河期。ウキッ、と厳しい時代が始まる。と、そういう繰り返しで進化のサイクルは加速した、と。ちょうど最後の氷河期が始まった時期というのがホモサピエンスがゴリラやチンパンジーと分化した時期と一致しているんだとか。
氷河期にサイクルがあるのは、2万2000年サイクルの地軸の歳差運動と、10万年サイクルの地球の公転軌道のズレという天文学上の変化の影響。太陽から受け取る熱の総量と、南北半球に降り注ぐ日射時間が変わることが原因。地球の公転軌道は楕円で、その楕円の2つの焦点は近づいたり離れたりを繰り返すので、ある時は扁平な軌道となり、ある時は真円に近い軌道になる。楕円軌道上に2つずつある「至」と春分・秋分の位置は少しずつ動くので、夏の長さや冬の長さは変わってくる。今のところ、南半球の夏が北半球の夏に比べて6日も短いなんて知らなかった。
極地方に現れたり消えたりする氷床というのは、なかなかデジタルな存在らしく、存在する状態も存在しない状態も、ともに安定なんだとか。雪が降り積もって氷になると太陽光を跳ね返してますます氷が増える。だからいったん氷ができると、なかなか溶けない。逆にいったん溶けて地表が現れると熱吸収が加速するので完全に溶けてしまう。オセロの白黒のようにパターン、パターンと氷のある・なしが数万〜数十万年サイクルで入れ替わっている。北がN極で南がS極という地磁気も、数万〜数十万年サイクルでときどき一気にグルンと入れ替わるというし、なんだか不思議なことが起こるものだ。地球の心拍のようなリズムなのかもしれない。

2003/06/15(Sun)

元春節

小学校時代からの友人に誘われて渋谷へコンサートに。佐野元春。アンジェリーナとかナイトライフとか古いのもいっぱい。懐かしのアルバム、VISITORSからいっぱい。
いまレコーディング中のアルバムに入る予定という曲を3曲ほど披露する。そのうち「FISH」というのが歌詞もメロディーもアレンジも、思いっきり元春節が炸裂。まるで元春のパロディーを元春本人がやってるんじゃないかというぐらいで、聞いているほうとしては15年ぐらいフラッシュバックした気分でうれしい。
「♪気の触れた街を抜けて ぼくらは風の吹く場所で会おう……」。歌い出しからして元春っぽい。で、街の天使やらがまたぞろ出てきて、元春は眠れない街の子どもたちの不安を歌い上げる。「♪思い描いてた未来とは違うけれど 〜〜なんてクシャクシャにして」「澄み渡る空を見上げて ぼくらは光のあるほうへ進もう」。あれ、何をクシャクシャにするって歌ったんだっけな。
「この世界はなんで単一なんだろう……、ときに世界はザンコクになって、そしてまた、大きなデタラメにキミは打ちのめされてしまう」というような歌詞に、ぼくは共感してしまう。世界は時にデタラメだしザンコクなんだけど、「くわえたたばこの煙が揺れてる そんなもんさ」と笑い飛ばすときの、割り切りのいいようなそうでもないような哀愁感。
公園通りのボエムでパスタ。仕事の話。キャリアの話。株の話。株やってみようかな、と思った。
それより何より、サビサビになったままのギターの弦を張り替えて弾きたくなった。

2003/06/17(Tue)

舞踏

知人で舞踏家のIさんが単独公演をやるというので、神楽坂へ。前衛の舞踏なんて文法も見方もわかりませんとやんわり断ったのだけど、「絶対の自信作。後悔はさせないから!」という熱心な売り込みにほだされて。「後悔させないから」という殺し文句は効くことが多いらしい。
30人も入ればいっぱいになりそうな小さな舞台小屋。仲間たちが手弁当でやっているふうなもぎり。見に来ている客層は、うーん老若男女、、、どういう人たちだったんだろうか。
無駄がなく均整の取れた身体が観客席を背にして立っている。花嫁のドレスを思わせる白い衣装。あらわにされた肩の線が仄暗い舞台に浮かび上がる。肩胛骨あたりの起伏が作る陰が、博物館に展示されたギリシア彫刻か何かを思わせる。身も蓋もない残酷なコトを言えば、Iさんがあと10歳若かったら、ほとんど神々しく見えたに違いない。身体も顔の作りも美しい人だ。
静と動の落差の激しさに、ちょっとドキッとする。明確なストーリーがあるのかどうかわからないけど、喜びの表現と怒りとも悲しみとも取れる狂おしい表現とが繰り返し入れ替わる。歓喜の表現でも、絶望の表現でも、ちょっと見るとデタラメに四肢を動かしているように見えるんだけど、そこはそれきっと舞踏家の真骨頂、指先まで意識が行き届いているようにも思える。引きちぎれんばかりに腕をブンブンと振り回したり、後ろに反っくり返ってしまいそうなほど上半身を傾ける。人間というのは訓練すればバランスを保ったままアンバランスも表現できるんだなと思った。
腕に絡まる布きれ、その布きれにもてあそばれるように舞台をふらふらと漂う。布きれが身体を操っているように見える。何ものかに捕らわれている。嫉妬なんだろうか。なかなかその呪縛から逃れられない。
舞台奥に作られた独房を思わせる狭い空間がある。スポットがあたると、倒れ込んだIさんがいて、自分を取り囲む壁を引っかき回している。指の表現が怒り、恨み、悲しみといったネガティブな内面を表しているようにも見える。止めどなくあふれ出す想念。最近読んだ山岸涼子の『日出ずる処の天子』を思い出す。これは夢殿に閉じこもって苦悩する厩戸の王子のイメージじゃないだろうか。Iさんは山岸涼子ファンだと言っていたし、「舞踏といってもね、『ごっこ』の世界よ。私の世界観は少女漫画だから」とも言って自嘲気味に笑ってた。
身体表現だけを頼りにする芸術(?)って、大変だなと思う。言葉だけを表現のすべてとする詩と同じで、よほどの迫力がないと時代に取り残される感じがして仕方ない。たとえそれがぼくの思いこみだとしても、市場がないというのは客観的な事実だと思う。

2003/06/18(Wed)

憲法護って国滅ぶ

『日本国憲法とは何か』(八木秀次, PHP研究所)、読了。最近、中国人の知り合いが戦争放棄をうたった日本の憲法第9条を知らないというので、ちょっと驚いた。冷静に考えると驚く方がどうかしているのだし、むしろ知らずにいてくれて良かったと胸をなで下ろすべきなのかもしれない。日教組の真っ赤に染まったバカ教師たちが権勢を振るった時代に義務教育を受けたぼくらの世代は、脳天気で蒙昧な平和憲法信奉者が多かったりするわけだけど、憲法第9条というのは、もはや恥ずべき条項だと思う。大うそつきなんだもん。「日本は軍隊を持ってない。あれは自衛隊と言ってね……」なんて外国人に言っても、「おまえ本気でそんなこと言ってるのか?」と目を丸くされるだけ。世界でも第4位だかなんだかの軍事費を毎年投入し、トップクラスの巨大な戦力を抱えてるのに「戦力もってませーん」なんて言っても誰も相手にしてくれない。こんな嘘つき国民に誰がした。一方に、「そもそも戦力があるから平和が守れないんだ」という現実のゲの字も見つめないお人好しバカがたくさん駅前でビラを配ってたりする。戦力の抑止力がなければ、とっくに日本なんてメタメタにやられてるよ。
子どもの頃に「憲法っていうのは、つるつるした感じだな」という印象を持った。なんか優等生的で抽象的。それが憲法の偉さなんだろうと思った。今にして思えば、あの直感は正しかった。日本国憲法というのは、全体に観念論的で、歴史の重みも人類の本当の意味での英知も無視して作り上げられた、革命憲法というべき成り立ちを背景に持つ。そして日本国憲法を作った当事者は、ほぼ100%占領軍のアメリカだ。当時、世界政府の構想さえ抱いてユートピア的未来像を思い描いていたアメリカ人の作った夢のような文言は、今でも世間知らずな人の心は打つわけだ。そりゃ誰だって平和がいいに決まってる。
草案を作ったGHQ民政局も、まさか日本国民が50年経っても改正もせずに後生大事に守り通すなんて思いもしなかったわけだろうけど。
ルソーの社会契約説は、近代国家の基本理念に据えられる概念なんだろうと思っていたけど、本当のところ危険らしい。何もかもご破算にして国家という共同体と個々人が契約を結ぶという考え方は、歴史の断絶を意味している。
立憲主義の本質は、権力の暴走を抑えること。絶対権力者というものの登場を制限して、いかなる場合でも法に従うという風にしておくことで、誰か狂ったヤツが出てきても国全体がおかしな方に行かないようにする。じゃあ、憲法の正当性は誰が保証するのかというと、それは神だったりその国を太古の過去から築きあげてきた祖父母たちの伝統だったりする。つまり、われわれは裸の土地に歴史とか家族とかコミュニティとか、そういったものと無関係な「人間」として生まれ、そこで国家という抽象的な共同体と個別に契約しているなんていう社会契約説とは違って、古来からわれわれの世代に受け継がれ、そしてわれわれが次世代に受け継いでいかなければならない国の歴史と伝統というものを前提にするのが、近代国家における憲法だったりする。どこの国の憲法にも前文には神やら国家の伝統やらが書かれている。ところが日本国憲法は無色透明な理想だけしか書かれていない。無神論的、唯物論的、現世主義的。
ところで第25条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」というのと、第27条の「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」、さらにその第2項にある「休息」に関する記述というのは、1946年当時の社会党の提案で追加されたものらしい。これらはスターリン憲法にある社会主義思想が流れ込んできたもので、「勤労の義務」というのは本当は資本主義では特に規定する必要がないどころか、齟齬を来す。勤労を義務とするのは、「働かざるもの食うべからず」を掲げる社会主義思想そのもの。スターリン憲法には「第12条 ソ同盟においては、労働は、『働かざる者は食うべからず』の原則によって、労働能力のあるすべての市民の義務であり、名誉である」とあるらしい。社会主義国家では労働の量と質に相当する支払いを保証され、休息まで保証され、なんだか話はいいことずくめなわけで。
衆愚政治とはまさにこれかと思わせる昨今の日本の政治シーンなわけだけど、もし電子政府が実現して直接民主主義なんてことになったら、いよいよ日本の混迷は救いがたくなるんじゃないかとか思ったことがある。どうも、そんなのは杞憂らしい。200年以上も昔にモンテスキューが間接民主主義の本質を言っている。餅は餅屋、政治は政治家に任せろということ。人民には代表を選出することはできても、複雑化する政治に参加する能力なんかない。
政治家というとあんまりいいイメージがないけど、見識、人格ともに人並み優れた選ばれた人が国を動かすような政治を陣頭指揮すべきというのは、どんなバカが考えたって当然の帰結なわけだど、なんだか日本で政治家というと「しょせん公僕。ぼくら忙しいからさぁ、税金で雇って代理で代弁させてやってるだけ」みたいな見られ方をしている部分もある気がするのはぼくだけ? で、これがなんでかというと「主権在民」というのを憲法の柱として学校が教え込んでいるからで、これはまるっきり嘘ではなけれど、一部分だけをやけに強調するのは偏向した憲法解釈と言わざるを得なくて、政治的な思想を学校というのは長年子どもたちに吹き込んできたわけだ。危ない、危ない。
主権在民は間接民主主義の本質を見誤らせる危険をはらんでいる。代表を選んで議会政治をしているのは、人間が多すぎて一堂に会せないからで、あくまで技術的問題という認識が生まれてしまう。国民こそが権力を持っていて、その行使も、その意思表示も、ただ代表を通して行うという考え。だからインターネットで誰もが直接政治に参加して個別の政治的案件に対して投票できるような直接民主主義が可能になれば、そのほうがいいんだ、なんて話になる。これは、実にとんでもないこと。
有権者にこびへつらい、顔色をうかがいながらやるのなんて政治じゃないだろうし、有権者にしてみても、政治家の能力と愛国心を信じて、いったん誰かに決断を託したのなら、彼らの決断を尊重するべきだし、支持・不支持をいちいちの政治的決断で左右させて脅すようなことはやめたほうがいい。まして近視眼的な素人政治談義と、本当の政治を混同しないほうがいいと思う。政治家は代弁者じゃない。
「そもそも愚民に選挙権なんて与えちゃいかんのだよ」と暴言した桝添要一は正しいことを言ってると思う。ぼくは1度も選挙権を行使したことがなくて、そういう話をすると驚かれることもあるけど、ぼくにしてみれば、自分がその権利に値する知識と判断力を持っていると思っている人が周囲にたくさんいることの方が驚きだ。いまの日本の20歳に一体なにがわかるんだ? いまの日本の30歳に、そんなに世界が、国が、政治が見えてるか?
独裁国家や軍国主義国家、貧窮と搾取にあえぐ共産主義国家といった、あんまりみんながハッピーになれない社会システムなんかから、試行錯誤と学習の結果、とりあえず人類が現在たどり着いている結論の1つが、テクノクラートによる代表制議会政治であるのに、そこのところをはき違えて「主権在民」なんてことを叫ぶバカがいるのはなぜか。憲法がそこのところをハッキリとさせていないのが、そもそもよろしくない、という理屈。

2003/06/20(Fri)

ハツカ会

いつもよりずっと遅いヨーカ会。渋谷でさっくり。深夜12時だっていうのに、Oさんがこれから仕事で「先生」のところに行くというので、残りのメンバー+合流したTさんとで下北へ。屋根はあるけど駐車場にテーブルと椅子を並べただけというヤケに風通しのいい飲み屋で、3時過ぎまで飲み。暑くもなく寒くもなく、気持ちいい。ぼくは今日1日でコーラ×4、コーヒー×3、ウーロン茶×2、抹茶フラぺチーノ×1と、液体のみまくり。
まだ禁酒は続いてて、ちょうど5カ月経過。

2003/06/21(Sat)

最悪の映画ってわけでもないでしょうが

渋谷でSさんと映画。封切られたばかりの『ソラリス』。ソラリスと言えば、インターネットやらでいっぱい使われてるサーバマシンのOSの名前を指すのがふつー(?)なわけですが、SF小説の名前でもあるのですよね、と知ったのは、この映画を観ようと思ったあと。そうか、SFだったのか。ていうか、モノリスとかと同じくギリシア語っぽいし、もろにSF的だ。1960年代に、ポーランド人のスタニスワフ・レムという人が書いたヤツが原作らしい。『砂の惑星』と同じ人だって。へぇー。砂の惑星って、子どもの頃に見てワケがわからなかった記憶があるけど、改めてネットでストーリーとテーマを知って、ちょっと感動した。SF好きの人には、常識なんだろうな、このへん。
アメリカでは去年の11月に公開されているので、Yahoo Moviesで見た人の感想を眺めてみた。評論家の評価は悪くない。でも、一般人の感想は、毀誉褒貶がハッキリと二分してて、7割方の人は「最悪の映画だ」とぼろくそにけなしている。残り3割の人は「絵も美しいし、テーマも深い」と言っているという感じ。
ぼくは期待したけど、ちょっとやり過ぎかなと思った。哲学的過ぎるし、耽美的過ぎるし、感傷的過ぎるし、思わせぶり過ぎる。なんでハリウッドの売れっ子監督(?)やスターが、商業的に失敗することが決定しているようなこんな映画を撮ることができたのかが不思議。
話の進みはやたら遅いのに、妙にトリッキーな筋立てもあったりする。テーマは深いような気もするけど、焦点がぼけてしまっている。自分のむら気のせいで自殺してしまった妻が幻として登場して主人公にどうしても「やり直したい」と思わせるという設定は、あの『道』で言えば、ジェリソミーナを失って浜辺で嘆くザンパノの前に幻としてジェリソミーナが現れるようなもので、「生者の死者に対する反省モード」というありがちなテーマを思わせる。遺されたほうは、「ああ、もっとああすれば良かった。こう言ってあげれば良かった」と思いながら長い時間をかけて心の中で死者と対話する。もし、その死者が目の前に現れたら? というのがCMでも流れていた問い。
でも、この映画の問いかけてくることは、どうもそれだけじゃない。その幻の死者は、惑星ソラリスという謎の知的生命天体が作り出している。しかも、遺された生者の脳の記憶から。というところで、自己と他者、その関係性を、一体ぼくらはどうやって認識しているのかというテツガク的な問いがもたげてくる。
「自我という意識」「その意識の中に立ち現れる他者」。ぼくらにとって他者というのは、たとえその人が目の前でしゃべっているときであっても、自分の脳内にある過去の記憶に結びつけられてはじめてその他者が誰であるかが認識できるわけで、ある意味ではその他者というのは、自分の意識にしか存在しない。とくに死者となれば、もうその他者は自分にとって、自分の記憶の中に住まうだけの存在になる。とすると、誰かを愛するとき、あるいは愛していたんだと思うとき、一体、その他者とは本当に「他者」であり得るのか? 自分の脳の作り出す勝手なイマージュじゃないと言い切れるのか?
「自己と他者の関係性」という認識論的、テツガク的な問いが通奏低音として全編に中途半端に鳴り響き、そこに愛や悔恨というパーソナルなイシューが絡みながら曖昧模糊としたまま曖昧模糊とした映像と一緒に話が進むような、進まないような……、ネムタゲな映画。確かにしゃれたポスターか何かのように絵はキレイだけど。
もっとストレートに失った人に対する償いの気持ち、というところにフォーカスすれば良かったのに。
Sさんの解説がなければ、ぼくは最後のシーンの意味がまったくわからなかった。ややこしい映画だ。

2003/06/22(Sun)

1日100枚撮れるかな

夏休みでもないだろうに、なぜかガキだらけの新宿スポーツセンターのプール。混みすぎ。混んでるのはいいけど、遅いわりに我がモノ顔で「上級者コース」泳ぐ輩が多いとかなわん。ある意味では、疲労困憊するために泳ぎに来てるのに、チンタラペースに行く手を阻まれて非常にストレス。
買ってしまった3年ぶりのデジカメ。光学3倍ズームでコンパクトなヤツ。カシオのEXILIM EX-Z3。インターフェイスが良くできてるんだよなぁ。カレンダーインターフェイスとか。やたらと動作も速いし、つくづく技術の進歩というのは速いなぁと。
1日必ず100回シャッターを切るというのをやってる知人がいて、その影響を受けてぼくも1日に100枚写真を撮りたくなった。撮ってどうするの? なんて言ってるようではダメなのです、そんなものは撮ってから考えるのだ。で、撮った写真を全部HDDに突っ込んでそれを適当に検索できるようにする。ちなみに、その知人は現在約41万枚の画像をHDDにため込んでいて、それをきわめて柔軟なハイパーリンクシステムで管理していたりするんだけど。
DIONがAirH''用の圧縮通信ソフトを公開したので、いきなり実効速度が数倍になった。体感ではISDNより速いかも。Webなんてまったく見る気にもならなかったし、メール読むのも必要なときだけだったのが、全然使う気になるよ! DIONえらすぎる。

2003/06/24(Tue)

13%

千駄ヶ谷の東京体育館デビュー。50mプールって広いな、やっぱり。一方の端をのぞいて足が着かないぐらいに深くて、「ああ、水の中に浮かんでいるんだ」という感じが強くする。容積だと普通の25mプールの5倍ぐらいはありそう。水の量が圧倒的に多い。泳いでていてもプール底面との距離があるので、相対的に自分の泳ぐ速度が遅く感じられる。しかし、泳いだ距離のカウントが楽でいい。
施設も本格的だけど、泳いでる人たちに妙に「本気」なアスリート体型のヒトが多い。全体的に泳ぐペースも速い。いい感じ。
ロッカールームに体重計のほかに体脂肪率を測る機械があったので久しぶりに手にしてみたら、体脂肪率は13%、BMIは20.8だった。「脂肪やや不足」に分類されるらしい。長い距離を泳ぐ水泳は、脂肪が多めのほうが浮力があって有利というけど、どうなんだろうか。

2003/06/25(Wed)

不倫

『不倫のリーガル・レッスン』(日野いつみ,新潮新書) 、読了。現役の若手女性弁護士が明かす、不倫にまつわる法律の「傾向と対策」の本。別にぼくが不倫しているわけではないですが。帯には対策という言葉が使われているけど、書いた本人は「法的なリスクはこんなにあるのに、それでもあなたは不倫しますか?」というスタンスで、現場からの警告のようなもの。みんな知らないだろうけど、結構あとあと大変でっせと。離婚、慰謝料、親権、認知、恐喝。とはいえ、統計的数字と法律知識、判例と事例を一通り並べて、「さあ、決めるのはあなた」と問いかけるだけで、ヘンに倫理だなんて話を持ち出すでもないし、不倫の愉しみを否定してかかっているわけでもない。
誰もが薄々感づいているように、姦通という重たい言葉が「フリン」というオシャレゲな言葉に置き換わってからというもの、どうもフリンというのは日常的に周囲に多く存在するものとなっているらしい。フリンの法的精算現場にいる著者によると、20代後半から30代で経済力のある未婚女性の3人に1人はフリンしてるんじゃないか、という話。もっともらしい説によると、いまどき経済力のある女性は同年代の頼りない男なんかと付き合うよりも、落ち着いていて安定したバックグランドを持ってる男性と気楽な関係を結びたいものだっていうけど、ホントーですかね。
江戸時代には姦通は既婚、未婚を問わず双方とも死罪だし、コキュとなった哀れな男は、自分の妻と、その妻を寝取った男とを殺すことが許された。と、法律上はそういうことになっていても、実際にはあんな長屋で仲良く暮らしてたもんだから(?)、割と日常的にフリンやその発覚ってのは起こっていて、たいていは当事者間の示談で済まされたということ。で、示談の相場は、だいたい4両だったと何かの本で読んだことがある。
じゃあ、現在の相場は? というと、300万円というのが1つのラインらしい。日本の民法では不貞を働いた(なんかスゴイ表現だけど、立派な「不法行為」)配偶者だけではなくて、フリンした相手に対しても損害賠償請求ができるっていうんだけど、なんかちょっとヘンな気がしなくもない。弁護士のマイクに聞いてみたら、少なくともカリフォルニアではフリンの当事者であっても婚姻関係にない誰かに対して損害賠償請求ってのはできないらしい。結婚生活の維持に責任があるのはあくまでも夫婦だけで、その一方の無責任を誰か他人のせいにはしない、ということ。
よくわからないのは離婚しなくても、配偶者に対して損害賠償請求裁判が起こせるってところ。「アンタ裏切ったから金を払え」とお天道様の元にダンナやニョーボを連れ出して、その上まだ結婚生活なんて続けられるんだろうか。というより、夫婦の財布って、そこまで別物?
ぼくは誤解してたけど、先進国の中でも、日本ほど協議離婚が簡単な国はないらしい。たとえばフランスなんかだとお互いに離婚に合意してても、さらに観察期間ってのがあったりするらしい。日本はハンコつけば、それで終わり。さらに、離婚協議や調停がこじれて裁判になるとき、その裁判が今まで地方裁判所の管轄だったのが、家庭裁判所に移されるという法案が通る可能性が高いらしい。ますます離婚が手軽になって、その社会的インパクトは小さくないだろうというのが著者の指摘。
離婚届ってハンコさえついてあれば夫婦のどっちかが役所に持っていけば受理されちゃう。もちろん無効だと言って取り消してもらうこともできるけど、「不仲」の記録は公式に残るわけであんまりありがたくない場合もある。そういうときには、あらかじめ役所に「あいつが届けても無視してね」と、そういう書類を提出できるらしい。有効期限は半年でその都度延長する必要がある。
世の中的には婚姻結婚ばかりじゃなくて内縁のような事実婚や、その結果生まれた非嫡出子に対しても諸々の義務や権利を認める方向に流れてるっていうから、同じ不倫でも、いずれは再婚しましょうという前向きな姿勢で共同生活をしているようなケースでは、正妻じゃなくてもあんまり日陰モノにならないという話。
民事訴訟って刑事訴訟と違って、違法な手段で入手した証拠だろうと証拠は証拠となるらしい。だから不倫裁判なんかだと、もう相手の電話に盗聴器をつけようが何しようが何でもアリ。みなさま、お気をつけて。

2003/06/27(Fri)

いつも行ってる代々木のプールは室内だけど、暖かくなると天井が開く。今日は全開! 曇りがちの天気だったけど、やっぱり太陽の下で泳ぐのは気持ちがいい。
ほとんど1人でコースを独占できるほど空いていたので、ためしにペースを乱さず淡々と泳いで、50分間で泳げる距離を測ってみたら2600mだった。お正月に立てた目標の1つ、50分で2500mというのはクリアできた。
シャツを着るのと眼鏡をかける順番の問題で、いつも自分の裸を鏡でちゃんと見ることはないのだけど、今日はあえて裸のまま眼鏡をかけて、自分の身体を観察してみた。自宅の小さな鏡で見ても、だいぶ引き締まってきたなぁとは思っていたけど、改めて身体全体を見てみると「オレの身体じゃないヨ!」というぐらい運動するヒトの体型になってきた。よしよし。今年はもっと筋肉を付けるぞ。
高校時代の友人2人と赤坂で焼き肉。肉を食いまくり。やっぱり脂たっぷりの肉がうまいよ。肉はやっぱりカルビだよ、おかあさん。
ぼくがお酒をやめるきっかけになった本、禁酒セラピーを書いたアレン・カーというヒトはベジタリアンで、彼が「ベジタリアンになれ」という本を書いているという話を友達に聞いて以来、ずっとその本を探してたけど、ついに見つけた。それを読むと、もしかしてぼくはベジタリアンになるんじゃないかと思ってたけど、結論は、ばかやろう。まったく説得力なし。
それは「ベジタリアンになる本」じゃなくて、『ダイエット・セラピー』という本の中にある一節だった。ざっと立ち読み。内容のおおかたはほかのセラピーシリーズと同じく、当たり前のことを当たり前に書いていて説得力があるんだけど、このヒトの議論はベースとなる科学的知識がメチャクチャ。禁酒本でも、あたかも薬物中毒という状態が病理学的に存在しないかのように断定したりしていたり、おかしな主張がいくつもあるけど、こっちのダイエットセラピーのほうがヘンな話が多い気がする。
人間の消化器は肉を消化するようにできてない、なんて嘘っぱちやんか。チンパンジーが肉を食わないのは、彼らが肉食じゃないからじゃない。彼らは人間ほど狩りがうまくないから、仕方なく果物で我慢してるだけで、本当はチンパンジーは肉が大好きなのに。高カロリー、高タンパクの肉食は頭脳も身体もフル回転させるのに適した食性でしょう。力の強い動物はみんな草食だってのも、妙な議論だ。
ぼくがベジタリアンになるべき理由はたぶん2つ。1つはコレステロールやビタミンという栄養上の問題。豆をいっぱい食えばタンパクも十分だし、肉が必然というわけでもないかもしれない。もう1つの理由は、肉食はもっともコストのかかる贅沢だということ。家畜を飼育するのは時間もコストもかかる。1kgの肉を生産するのに費やされる数百kgの穀物があれば、飢餓に苦しむ人たちにも食料が行き渡るという話がある。ホントかどうか調べたことはないけど、明日食べるモノもなくて苦しんでいる人々が隣にいるのに、それでもおまえたち先進国の人間は肉食を続けて食料を独占するのか、というヒューマニタリアンな発想。同じ地球上の住人としての彼らに同情するなら、行動せよ、ということ。消極的な貢献かもしれないけど、やらないよりはマシ。それに、他人の苦しみを無視し続けることで日々の生活が成り立っているんだという自責の念を、少しでも和らげることができる。
菜食主義っつーのはなんかニューエイジとかガイアとかエコロジーとか似非フェミニズムとかスローフードとか、そういううさんくさげなキーワードと結びついてるわけで……。弱肉強食の世の中に適応できない共産主義者の泣き言みたいな印象もあるし。
「食料が足りない」というのは幻想という話もある。飢餓が発生するのは食料生産や備蓄量の問題じゃなくて、配分のアンバランスの問題。だから、それは政治と経済の問題だと。うーん、理論武装したベジタリアンっていないのかなぁ。そういう本を読んでみたい。
あ、殺生をよしとしない信仰上の理由もあるか。これはヘンな理屈だと思うけど。

2003/06/28(Sat)

肉肉

今日も2.5kmと連日のプール。たくさん動くことの楽しみの1つはたくさん食えること。腹減りまくり。ベジタリアンのための料理レシピ本なんかをちらっと見たせいで、逆に肉が食いてぇよ、肉がッ! という欲望が。渋谷でYさんとハンバーグ。一番でかい300gにしたけど、450gは食えそうな勢いだった。でもそれって、体重が0.5kg増えるってことだよな。毎日1kg食べて1kgウンチする生活ができたら結構楽しいだろうなぁ。プロスポーツ選手とかって、そのくらい?

2003/06/29(Sun)

泣く泣く筆を染めて、これを記す

今日もプール。3日連続は初めてかな、と思ったけどそうじゃなかった。それにしても夏が近づくにつれて休日のプールはどんどん混んでくるなぁ。混んでても構わないけど、ペースの違う人たちが狭いコース内にひしめき合うのって、ペースの遅いヒトにとっても早いヒトにとってもストレスだと思うんだけど。どこか空いてるプールありませんかね。やっぱりジム系なのかな。
ウィークエンドにはひとけがなくて、ゴーストタウン的になる都庁近辺が好き。長期休暇モード最後の午後を、ひそかに気に入っている新宿NSビルのタリーズで過ごす。「マンゴータンゴ」なる飲み物を。この名前、恥ずかしいです。
『歎異抄』(唯円,金子大栄校注,岩波書店)、読了。「なくなくふでをそめて、これをしるす。なづけて歎異抄というべし」と締めくくられる文字通り嘆きの書。親鸞没後に現れた異議者たちの説くところにたいして、「おめえら分かってねぇよ、親鸞聖人が言ったのはそんなことじゃねぇぞ。弥陀の救いはそんなモノは超越してんだよッ」と論駁する弟子の唯円。論駁といっても平明明快。弥陀を信じ、その力にすがることだけを本願とする他力本願仏教であるのに、あたかも善行や念仏、仏法知識、喜捨の多寡によってのみ救われるかどうかが決まるとする思い上がりを「そうじゃないだろう……」と嘆きつつ、その傲慢さと不見識をやっつける。いつの時代にもありそうなことだけど、権威主義的、俗世的になっていく当時の同宗派の仏教界にたいして、原点に立ち返れと言いたかったわけだな。
「信心さだまりなば、往生は弥陀にはからはれまいらせてすることなれば、わがはからひなるべからず」。人間の力、自分の力なんて関係ない。信心さえあれば、弥陀が往生させてくれるんだ。
「われものしりがほにいうひとのさふらふよしうけたまわる、あさましくさふらふなり」。物識り顔でわかった風なこと言いやがるが、弥陀の救いは学問や知識として学ぶものじゃない。
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、悪人なお往生す、いかにいはんや善人をやと」。悪人でさえ往生できるんだから善人だって往生できるに決まってる、というのはもっともらしい意見だけど、これは他力本願ってのをわかってないから、そういう思い上がったことを言うに過ぎないんだ。善人か悪人かではなくて、心を開き、弥陀にすがることだけがポイントなんだ。
「なにごとも、こころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず」。なんかスゴイこと言ってるよな。これって、誰だったか、親鸞に「どうやったら往生できるでしょうか」と聞いた弟子が「千人殺せ」と言われて、「それはできない」と言ったような話のことだと思うけど、ヒトを殺さないのは自分の心が善だからじゃないんだ、ということ。千人殺したヒトがいても、それは人間がこの世において背負った宿業であって、そのことのゆえに往生できないなんてことはない。畑を耕したり、野山で狩りをしたり、海や川で漁をしたり、そういうのも同じことで、ただその日その日の生業のほかに人間は何もできない存在。その生業のためには、いかなる振る舞いもするのが人間であり、人間の業の頼りなさ。千人を殺す武将も、それは生まれた時代と境遇が彼に与える宿業であって、そういう人間の業のゆえに極楽浄土に行けないなんてことはない、と。
でも別に殺していいとも言ってないし、まして殺して救われるとも言ってない。念仏によって罪が消滅するという念仏滅罪説は大いなる勘違いだと嘆いているし、さらに加えて「くすりあればとて毒をこのむべからずとあそばされてさふらふは、かの邪執をやめんがためなり」と言っている。薬があるから毒を飲んでもいいってことじゃないと親鸞が言ったのは、そういう誤解を解くためだとも言っている。ただただ、人間の業は深く、弥陀の救いは限りがないということ。
法然が「念仏」を重視したのにたいして、親鸞は「信心」こそすべてだと説いたというけど、歎異抄を読む限りでは確かに恐ろしいほど絶対的信仰を強調している。信仰さえ正しければ、千人殺しても救われるってんだから、結構スゴイ思想ではある。
聖教であるお経には、真実と方便が混じっているというのが唯円の主張。「親鸞は確かにそういうことを言ったけど、それは説明のための方便であって、あれはこういう意味だったんだ」と説明している。で、聖教には念仏を唱えれば重罪が滅ぶと書いてあるけど、それはむしろ「十悪・五逆の軽重をしらせんがため」、つまりその罪の重さを知らせるためだと言う。うーん、なんか主張に無理がないか? 罪の重さを説明するために、罪が許されると言ったなんて説明、ワケがわからんよ。「そのくらい重い罪でも許される」「だから弥陀を信じなさい」ということのほうに重点があったんじゃないのかなぁ。としたら、念仏減罪説に関する唯円の主張はやっぱりちょっとヘンじゃないか?
そういえば十悪というのは殺生、偸盗(ちゆうとう)、邪淫、妄語、綺語(きご)、悪口、両舌、貪欲(とんよく)、瞋恚(しんい)、邪見(または愚痴)らしいのだけど、「妄語、綺語、悪口、両舌」と、仏教が断罪する悪って、ヤケにコミュニケーション上のものが多くないですか。瞋恚もコミュニケーションの問題に入れるとすると、十悪のうち半分だ。モーゼの十戒は「偶像の禁止、神名乱唱の禁止、安息日の厳守、父母への敬愛、殺人の禁止、姦淫の禁止、盗みの禁止、偽証の禁止、他人の妻・財産に対する欲念の禁止」と、もう少し宗教色と社会色が濃いし、具体的だ。

2003/06/30(Mon)

アウシュビッツ

最近新訳版が出てアチコチの本屋で目にするので何となく気になっていた『夜と霧』(ヴィクトール・E・フランクル,池田香代子訳,みすず書房)。駅前の本屋で買って、そのままスタバでコーヒーを飲みつつ読了
“わたしたちは、おそらくこれまでのどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ”。
子どものころに学校の先生か誰かの話を聞いて、この本は強制収容所の凄惨な生き地獄を描いた本だろうというぐらいに思っていた。あるいは、極限状態における人間の心理が、その防衛本能を発揮するときにどう反応するかを描いたもの、と思っていた。前者はだいたい写真も見せられて聞き知っているし、後者はおおかた「感覚の麻痺」だろうというぐらいに勝手に思っていた。けど、もしこの本について、そういう感想を言う人がいたとしたら、それは浅薄というもんだろう。この本は、極限状態におかれた筆者がたどり着いた、生きることの哲学を説いた本に他ならない。極限状態だったからこそ、「あの瞬間、わたしは真実を知ったのだ」と語る。愛を、生を、死を、運命を、ふつうの生活を送る人々が思い至らない深さで学んだと。日常と化した「死」と、終わることのない苦しみの中で、生きることの意味とはなんだということを、思弁としてではなく、絶望から踏みとどまるための唯一の方法として考えざるを得なかった筆者による、力強い生の肯定。
原題の『心理学者、強制収容所を体験する』というドライでアカデミックな内容を思わせる書名(日本語だとなぜかパロディっぽくて、ややコミカルでもある)や、邦訳の『夜と霧』というジメジメとして陰鬱な書名は、確かに本で語られる内容を表してはいるけど、その背後にある、「どんな運命を生きることになっても、人間としての尊厳を失うことなく、力強く、誇り高く生きることの哲学」というのが書名には現れていない。え、ジョーシキ?
「未来を、自分の未来をもはや信じることができなかった者は、収容所内で破綻した。そういう人は未来とともに精神的なよりどころを失い、精神的に自分を見捨て、身体的にも精神的にも破綻していったのだ。……ある日、居住棟で、被収容者が横たわったまま動こうとしなくなる。着替えることも、洗面に行くことも、点呼場に出ることもしない。どう働きかけても効果はない。彼はもうなにも恐れない。頼んでも、脅しても、叩いても、すべては徒労だ。ただもう横たわったきり、ぴくりとも動かない。……彼は自分を放棄したのだ。……生きる目的を見出せず、生きる内実を失い、生きていてもなにもならないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともに、がんばり抜く意味も見失った人は痛ましい限りだった。そのような人びとはよりどころを一切失って、あっというまに崩れていった。あらゆる励ましを拒み、慰めを拒絶するとき、彼らが口にするのはきまってこんな言葉だ。『生きていることにもうなんにも期待がもてない』。こんな言葉にたいして、いったいどう応えたらいいのだろう」。
精神科医である著者は、消耗しきった仲間たちに向かって話しかける。過酷な労働と気候条件。飢餓と衰弱とから、バタバタと仲間が倒れ、次に誰がいつ死んでもおかしくない状況。そういう状況であっても、本当に危険なのは諦めてしまうこと。自己放棄の誘惑に屈してしまうこと。
「わたしは仲間たちに語った。横たわる仲間たちはひっそりと静まり返り、ほとんどぴくりとも動かなかった」。
……。心が完全に壊れてしまうような状況に追いつめられたとき、どうすれば人は生きていくことができるのか。惨めに苦しみ、運命に翻弄される人間が、それでも生きる意味というのは何なのか。それは、何も強制収容所のような人類史まれにみる極限的状況におかれた人々の生きる糧であったばかりじゃなくて、生きることに悩み、時に絶望に陥るぼくらにも力を与えてくれる何か、なんだろう。
と、ここまでのぼくの感想を読んで、この精神科医が収容所の仲間たちに語ったことを知りたくなった人は、p.135〜140を立ち読みしてください。この本を初めて読むんだとしたら、きっと立ったまま泣き出すんじゃないかと思います。ぼくは目の前に座っていた女の子から顔を隠すために本をぐぐっと持ち上げました。
「もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない」。
生を肯定する強い意思表明にカンドーする一方で、やっぱり常識的に考えると人生に意味なんてあるわけないじゃんと思っているさめた自分もいるわけで。
孫引きになるけど、この本に引用されているビスマルクのこんな言葉が気になる。「人生は歯医者の椅子に座っているようなものだ。さあこれから本番だ、と思っているうちに終わってしまう」。生きるのも死ぬのもたいして変わらない、とうそぶいているうちに、きっとぼくの人生は終わってしまうんだろう。

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NISHIMURA Ken <nis@bigfoot.com>