2002/12/01(Sun)
病膏肓
パソコン通信時代,オフ会に参加するためとかネット友達に会うために飛行機に乗るようになると病膏肓だという話があった。当時は,まだせいぜい北海道の人が東京に来るぐらいだったけど,今はもっと距離が大きい。
香港からネット友達が来た。といっても,ぼくに会うのが第一の目的ではないし,家族と一緒なので,彼女はビョーキではないけど。
オンラインや電話ではすでにかなり話したので,初対面とは言えホントの初対面とは違う。ぼくは最初からWebカムも使ってるし,最近向こうもWebカムを買ったので,ぼくは彼女がどんな顔か,画面で見て知ってはいた。
でも,待ち合わせのホテルのロビーでぼくに向かって歩いてくる背の高い女性を見たときには,やっぱり顔をしかめてみるわけで。年甲斐もなくドキドキしてみたり。
六本木のボエムで深夜のコーヒー。非常に不思議な感じ。「最初の10分はヘンな感じもするかもしれないけど,まあ10分だけだよ。ぼくの経験によれば」とは言ってたものの,しゃべりだして30分ぐらい経つまでは,やっぱりヘンな感じ。実際に会ったことのない人と会うということ,違う世界に住む人と会うということ。とかいっても,もはや大都市に住む人間なんて,地球上のどこであろうと多かれ少なかれ似たような価値観とライフスタイルを持っているので,そんなに話がすれ違ったりしないんだけど。でも,それもまた不思議な感じ。もっと不思議なのは外国語で話しているという感じが,それほど強くしないということ。アジア人同士だからか。店員が彼女のオーダーに顔をしかめるのも無理はない。黙ってれば彼女は日本人に見える。
1時間で会社に戻るつもりが,3時間も経ってしまった。コーヒー飲み過ぎ。仕事が……。
2002/12/07(Sat)
逆説的心理
シトシトと冷たい雨のそぼふる中,電車を乗り継ぎ参宮橋へ。10日ぶりのプール。むきむきと50m50秒のペースで300m泳いで一気にばてる。久しぶりで頑張りすぎ。ペースを落としてゆったりと泳ぐ。2km,3kmと距離を伸ばすうち,脳内でエンドルフィンがあふれ出してるとしか思えない心の軽さを感じる。いつも泳ぐ前には,あれこれ考えごとをしようと思うのに,結局,泳いでるときっていうのは,頭が空っぽ。だからいいんだろうなぁ。調子に乗って今日は行けるところまで行ってやろうと,2時間泳ぎ続けて4.2km。最長記録。クタクタ。
マイクが「リバース・サイコロジー」という言葉を使ったとき,それはきっと聞きかじりの心理学用語か,弁護士という職業柄使う半専門用語なのだろうと思って気にしなかった。それがその後,何度か同じタームに出会ったので,これはどうももっと広く一般的に使われる言葉じゃないかと思う。ポップ・サイコロジーの本場,アメリカには,こういうアヤシイ用語がたくさんある気がする。
たとえば「あたし可愛くないから」「オレ,バカだから」というとき,この発言の意図は状況によって3つのパターンがある。1つは,結構言葉通りの意味を持つ場合。愛すべき人間性を持った人が言うと,こういう言葉はハマる。人間というのは頭の良さや容貌より大切なものがあるんだ,と周囲に悟らせる深みがあったりして,相当にいい効果がある。さらに,自分のことをありのままに受け入れる真摯さが身につまされたり,虚栄心から自由であることがうらやましく思えたりする。
自分についてネガティブなことを言う場合のもう1つのパターンは,「おまえ,そんなんちっとも思ってへんやんけ,ぼけ!」という場合。でも,こういう嫌なコト言う人は少ない。よほど鈍感な人でないかぎり,それがちっともいい効果を生まないことに気づくので,こういう人種はだいたいオトナになるまでに改心するもの。
自分についてネガティブなことを口にするので一番多いのが3つ目のパターン。言葉通りでもないし,言葉の正反対でもないという中間ぐらいのところ。中間ぐらいの人は,多かれ少なかれ自分に自信がないので,誰かに言ってほしいと思っている。「そんなことないよ」と。これが「リバース・サイコロジー」。思ってもないことを言ってるのじゃなくて,「そう思いたい」ことの反対を言って,相手に否定してもらおうという心理。あるいは直接否定はしてもらえなくても,ほかの部分で肯定的発言をしてしてほしいと思っている。「あのね,女の可愛さはね,顔だけじゃなんだよ」とか「勉強ができるバカもいれば,勉強はできなかったけど,心の正しさや人間としての賢さを持っている人はいるもんだよ」とか,そういう返答を期待している。もう少し高級な戦略が使える人なら,「ぼくの大好きな可愛い人のことを悪く言うなんて,たとえそれが君であってもぼくは許さないよ(真剣に見つめつつ)」とか「オレはバカが嫌いだよ。おまえがホントのバカだったら,友達になんてなってないって」とか,そういうの発言も期待できる。
リバース・サイコロジーという言葉を自分なりに解釈したとき,はっとした。30歳を過ぎてから,ぼくは良く「もう歳だ。歳取ったよ」と口にするようになった。これがまったくリバース・サイコロジーそのもの。だいたい気のいい友達は「えーっ,全然そんなことないよ。若く見えるよ」とかなんとか言ってくれるわけだけど,それ以外の答えが返ってくるワケがないし,事実,ぼくはそんなにオヤジくさくないと自分では思っている。
自分に自信がなくて,つい誰かにサポートしてほしくなるなんて可愛い人間の心理。そうは思うけど,この「リバース・サイコロジー」という俗っぽいタームに出会ったことで,最近自分で自分がちょっと恥ずかしくなった。もう「歳を取った」というのは言うのをやめることにしよう。同じく,もう自分の英語が下手だ下手だと言うのはやめることにしよう。
結局,自分に対する評価は高すぎても低すぎても良くなくて,バランスってことだけど,自分ほど自分のことをわかってないわけで。
若い頃というのは,このバランスがメチャクチャで,不遜なほどに自信過剰になってみたり,その自信過剰な自分に気づいて,絶望的な自信喪失を感じたりする。実績に裏打ちされないから焦りと虚栄心ばかりが先に立つ。感性や知性,あるいは美貌をひけらかそうとから回りしている若造は見ていてイタイ。それが30歳ぐらいになってくると,よっぽどのバカでもないかぎり,「ああ,オレはこういう感じだな」というのがわかる。あ,年寄りみたいなこと言ってるな,オレは……。ああ,歳とったよ,まったく。
2002/12/08(Sun)
そもそも
「そもそも」の発音って「高低低低」だったと思うんだけど(関西弁では低高低高または低高低低),最近「低高高高」と発音する人が増えてる気がする。どういう音かというと「もともと(低高高高)」と同じトーン。外資系の人,特にコンサル系の人,特にマッキンゼーの人に多いというか,ぼくが指してるのは,具体的に2人しかいないんだけど。
サンプル少なすぎだけど,うーん,2音が繰り返す4拍の単語で,この変化が起きてるような気がする。「ますます」を「低高高高」で発音しても,それほど違和感がない。
日本人なら,こういう高低2音階の違いは当たり前過ぎて意識もしないけど,外国語としてこれをルールとして覚えようとか,全部丸暗記しようなんてことになったら,めっちゃ大変だろうなと思う。一応ルールはいくつか存在してるんだろうけど,助詞がくっつくとまた変化したりするし。
ぼくの頭の中には,この高低の違いについて,伝統的大阪弁,ネオ大阪弁,関東方言を使い分けられるだけの,あるいは少なくとも聞き分けられるだけのデータベースが,たぶん存在してる。母語の大阪弁なら,3世代の違いを聞き分けられる。たとえば「船が」を,ぼくの親世代は「低高高」と発音するけど,ぼくらは「低高低」と発音する(標準語は高低低)。ぼくら世代の関西人は「卒論」を「低高高高」と発音するけど,今の関西系大学生は「低高低低」と発音する。
それにしても,どうして時間変化や地域差があるんだろう。方言間の衝突とか時間変化に法則性や原理みたいなもんはないんだろうか。絶対に何か傾向,法則,原理があるに違いない。
2002/12/09(Mon)
最後にちゃん付けで呼ぶ人
子どもの頃から,一番多かった呼ばれ方は,当然「けんちゃん」。年齢が上がるとともに「けん」「けんさん」,あるいは「けんけん」というのも出てきたけど,今でもほとんどの友達は,ぼくをけんちゃんと呼ぶ。10代のころは良く「オトナになったら,ぼくはなんて呼ばれるんだろう」と心配してたけど,30歳を過ぎても「けんちゃん」と呼ばれている。別に違和感はない。
けんちゃんの次に多いのは「けん」。よくよく思い出してみると,ぼくの家族は最初,みんなぼくを「けんちゃん」と呼んでいたはず。それが幼稚園に上がるぐらいまでに兄貴がぼくを「けん」と呼ぶようになって,小学校に上がるぐらいまでに母親が「けんちゃん」を徐々にやめて「けん」になり,最後に親父がぼくを「けん」と呼ぶようになったのは,ぼくが高校生になったぐらいだった。最初からぼくを「けん」と呼んでいたのは家族ではおばあちゃんだけかも。
いとこのター君は,確かぼくが中学にあがるころに「けんちゃん」をやめて「けん」にした。ター君の兄貴のトッチャンや哲っちゃんは,ぼくを「けん」と呼び捨てにするのがもう少し早かった。
呼び方って当然年齢や近しさ,社会的関係といった相対的で微妙な関係を反映してるんだろうと思うけど,やっぱり根本には語感というか響きの大切さみたいなのがある。だから,うちの兄貴は昔からずーっと「ごうくん」であって「ごうちゃん」と呼ばれることは皆無だった。弟のぼくが兄貴を呼び捨てにすることはできないから,やっぱりぼくはいまだにごーくんと呼んでいたりする。
そういう話を知り合いとしていて,ふと思った。一番最後にぼくをけんちゃんと呼ぶ人は誰だろうか。そもそも,おじいちゃんになっても,やっぱり,ぼくをけんちゃんと呼ぶ人はいるんだろうか。
1年足らずとは言えアメリカで生活したので,ファーストネームを呼び捨てしあうという慣習に違和感は全然ない。むしろ相手が欧米系とわかったら積極的にファーストネームで呼んじゃうようにしてるぐらい。これはこれで慣れると楽でいいし,何かきわめてフラットで対等な人間関係を象徴しているようで,嫌いじゃない。
でも,やっぱりぼくはちゃん付けで呼ばれるのが一番しっくりくる。けんちゃん,と呼ばれると,ものすごく深い部分に呼びかけられている気がする。それはたぶん,子どものころの自分だからじゃないかと思う。
いい歳してそういうことを真顔で言うヤツは嫌いだけど,ぼくの中には,いまだ5歳のけんちゃんがいるような気がする(ここ,真顔で)。
2002/12/11(Wed)
時間泥棒
かの名作,ミヒャエル・エンデの児童文学『モモ』
読了。エンデと言えばネバーエンディングストーリーの原作者だけど,数年前から日本ではちょっとしたエンデブームになってて,地域通貨とかをやたら称揚する胡散臭い輩に祭り上げられた雰囲気もあってアレゲですが。
時間泥棒たちから人々に時間を取り戻してくれた不思議な女の子の話。どことなく不思議の国のアリスを彷彿とさせる「不思議さ」があるけど,話自体はもっと明快でファンタジック。ストーリーの構成,小道具類の設定,人物描写と,確かによく書けてて,なるほど傑作だという感じ。子どもにも受け入れられそうなエンターテイメントになっているファンタジーでありながら,痛烈な批判精神に満ちあふれている。
時間泥棒が人々の時間を盗みはじめてからの描写は不気味。現代社会の宿痾を暴き立てるリアルで滑稽な描写。読んでいて身につまされるところがたくさん。現代人はみんな「時間がない」「時間がない」とイライラしている。一体,ぼくらから時間を奪っている時間泥棒っていうのはどこにいるんだ?
児童文学だし,どうせなら勉強だと思って英訳版を読んだけど,思ったよりずっと難しい。文語的だし,ブリティッシュだし,語彙レベルが案外高い。オリジナルのドイツ語版の雰囲気をよりよく伝えているという日本語訳の本も同時に買ってパラパラめくってみたけど,70年代初版とかで,こっちもちょっと文語的。
2002/12/12(Thu)
空の名前
新宿南口紀伊國屋で立ち読み。英語の辞書系があれこれほしくなる。実例コロケーション辞典,類語辞典,類語使い分け辞典がほしい。どれか1つか2つ読み通せば,きっとぐっと英語力が上がるんだろうなと思うけど,そこまで気合いも時間もなさそう。
『Man'yo Luster―万葉集』に心惹かれる。紙という物質性のあるモノとしての「本」にはそれほど魅力を感じないほうだけど,装丁といい,ハンヅラといい,写真のあしらい方といい,ちょっとイイ。「所有」したくなる本。現代語訳にいかにも味がなさすぎるのと,英訳の文字フォントが今一歩なのが気になって,結局買わず。それにしても日本的なるモノに心惹かれる。遅蒔きに目覚めたナイーブなナショナリズムか。
『雨の名前』『空の名前』という,実は出版社が違う似たような本を2冊購入。写真がキレイ。季節に敏感なニッポンに暮らす人々の豊かな感性が,ことばに宿っている。日本語の豊かさ。
夜,陳麻婆豆腐を食べにYさんと,Yさんの友達と赤坂。ドクター論文の審査を終えたばかりのFと,最近仕事でおつきあいのあったIさんを誘ってみたり。Yさんが明日誕生日というので雨の本をプレゼント。Yさんの健啖ぶりに目を見張る。
23時解散。どうも飲み足りない感じがして,友達に電話。帰り道の方角に住むKは,自宅で仕事中とか。飲み友達のSさんは留守電。ふと思い出して小学校のときからの友人Hに電話。「バイクやし,身軽なもんやで」と自宅を襲う。しかし江東区というのがあれほど遠い場所とは思わなかった……。
ギブソンのギターやら,ヤマハのサイレントギターやら,なぜか電子ピアノまであって,相変わらず音楽好きなやっちゃと思いながら,じゃららーんとギブソンを弾いてみると,ぞくっとするほど音がイイ。ぼくが持ってる永遠にチューンの合わないオモチャギターとはワケが違う。山崎まさよしの「セロリ」の楽譜を見ながら,ちゃらんちゃらんと弾いてみる。ナインスって,どこらへんに指を置けばいいんだっけというのが,全然わからない。
ギターを抱えながらバーボンを飲んでいると,高校時代にスリップバックしたような気になる。仕事の話。将来の話。
人の不幸は比較するところから始まる。足りることを知れ……。とはいうけど,ちょっとヤツの仕事がうらやましい。よく頑張ってるし,若くして出世してるのは本人の努力の賜物だろうけど,それだけのインセンティブがあるのもまた事実。ぼくはもう何年お気楽すちゃらかサラリーマンに甘んじてるんだろうか。
朝4時半。寒い。時速100kmで都心を駆け抜けて帰宅。指がかじかんで動かない。
2002/12/13(Fri)
うむよッ!?
数え間違えでなければ1kmで21分40秒。やっぱり1km20分ペースというのが当面の目標らしい。
編集会議の後,旧編集長と面談。結局,何度も何度も繰り返し面談をしているのは,ぼくが自分の身の振り方をハッキリと決めていないから。そろそろ結論を出さないとなぁとは思うものの,会社や職場は激変期に突入しつつあって,何だかよくわからなくなってきた。編集長自身の身の振り方も傾聴。軽やかな発想はさすが。
夜,ヨーカ会で渋谷へ。数時間前に呼びかけた割に集合率が高い。カニクリームコロッケとか豚角煮豆腐チゲとか。「たとえ父親の認知をしてくれないとか,そんな事情があったとしても,今は妊娠したら子ども産むと思う」というYさんの発言にややビビる男子たち。なぜビビる。
1時に1次会解散。立ち上がろうとしたら,フラリと倒れてしまったほど調子よく酔っぱらっているYさんと,尾崎豊を歌いたいとウズウズしてるU田さん主導でカラオケへ。今年2回目にして,最後のカラオケかしら。
80年代〜90年代前半のナツメロで盛り上がる中,T重さんも,なぜか同じぐらい古い曲を歌う歌う。自己申告ではピチピチきゃぴきゃぴ系OLのはずが,おかしい。年齢さば読み疑惑再び。
たまにはカラオケもいいもんだ。しかし,朝まで歌う32歳たちって……。
2002/12/14(Sat)
Physics
お昼にライターのM氏と下北待ち合わせ。コーヒー,ラーメン,コーヒーと梯子しつつ打ち合わせ。一緒に仕事をするたびに,見習いたいと思える部分のある人。雑談や世間話,業界話をしている間に4時間も経っていた。とりあえず,懸案だったページはうまく形になりそうな感じ。
代々木のプールへ。ゆっくりと1600m。1kmが24分ということは,50mを1分12秒ペース。
大学時代の友人Fと落ち合って新宿をさまよう。人,人,人。どこの店もいっぱい。10軒ぐらい連続で「あいにく満席で」と断られる。少しずつ駅から離れてついに新宿御苑まで行ってしまった。
21時集合で「少し遅れる」と言ったTが登場したのは,24時。いつものことだよなとFと苦笑いしつつ,店を移動。
物理でPhDを目指しているTはTOEFLでは270点突破と,ひとまず英語に不安はないものの,笑っちゃうほどGRE Physicsの試験ができなかったという。冗談めかして「こんなに大変なこと,何で今さらやってんだろうって思っちゃった」という。大学卒業レベルの物理の問題とはいえカバー範囲は広範だし,急にやってできるものじゃないということ。予測が甘かったといえば,それまでだけど,ちょっと他人事のように思えない。
2002/12/15(Sun)
英語には3倍の語彙がある
CBS系の名物番組「60 Minutes」のホストを勤めていたAndy Rooneyというライターが,CNNのLarry King Liveに出てきた。聞くともなしに話を聞いてたら,「英語にはほかの言語に比べて3倍の語彙がある。だからこの言語はすばらしい。そして書くのはむずかしい」ということを平気で言ってるので,頭に来てしまった。「どっちにしても,英語以外のほかの言語は滅びるんだ」とも言う。よくもそんなことを全世界の人が見ている番組で言えたもんだ。
英語をしゃべる人たちが持っている英語優位幻想は抜きがたい。この「3倍の語彙」というのは,ほかの人が言ってるのも聞いたことがあるので,何か情報ソースはあるんだろう。きっと,OEDの語彙数と,ほかの言語で編纂された辞書の収録語彙数を比較した学者かなんかがいて,3倍という数字だけが一人歩きしているとか,そういう話じゃないかしら。外来語が多いのはそうだろうけど,それが「アメリカという国の外来文化の吸収力を象徴している」というのは,かなりナンセンスだと思う。
どの言語が簡単だとか難しいとか,美しい美しくないなんてまったくナンセンス。人間の話す言語はすべて,手話やピジン,クレオールまで含めて等しく美しくフクザツだというのが,ぼくの直感。
半年ほど前,英文法の読み物でおもしろい本をと思って,植田十三という人の『スーパーレベル英文法』という本を購入して読み始めた。英語学習者の間ではたぶん知らない人はいないというぐらいの有名人。ところが,読み始めてすぐに「日本語の時制の感覚,表現はむちゃくちゃである」「日本語は神秘的というか曖昧で英語は明確」という説明が出てきて,そのままその本を投げ捨ててしまった。語学を教えるような立場にある人は,言語学の基礎と母語の文法ぐらいきちんと勉強するべきなんじゃないかと思う。
英語は論理的で日本語は非論理的なんていう事実無根のことを言う人は減ったと思ったけど,まだいたらしい。それにしても英語の達人と言われるような人が,こんなことを言うなんて信じられない。英語を学習する過程で日本語というか,母語の文法に目を向けないとしたら,それは単なる英語バカじゃないのかと思う。
2002/12/16(Mon)
会社辞めるといって辞めないヤツはみんな責任をとって辞めるべき
『戦略的思考の技術---ゲーム理論を実践する』(梶井厚志,中央公論),
読了。なるべく専門用語の使用を抑え,かつ考察を加える題材を身近な例に取ったゲーム理論入門。タイトルの厳めしさの割に軽妙なタッチで,軽く読み流せる。どことなく「笑う哲学者」こと土屋賢二を思わせる文体が,なかなか笑わせる。
ほとんどの事例は単純化され過ぎていてゲーム理論的に解析するまでもなく自明。その意味ではちっとも目が覚める感じがないのだけど,「戦略的環境,インセンティブ,シグナリング,コミットメント,ロック・イン,スクリーニング,逆選択」といったゲーム理論特有のタームを,何となくわかった気になれるのが,たぶんこの本のミソ。
数多くの事例のうち,2つの例で,ぼくの直感は戦略的思考からはずれていた。1つは「他店より弊店の値段が高かったらお申し出ください」という例のあの広告。あれは言葉通りのモノだと思っていたけど実は違う。「競争促進の立場から考えたときの問題点は,実際に価格が安くなっていいことではなく,価格競争回避へのコミットメントを公にするこの種の広告の構造そのものなのだ」ということ。つまり,「ほかより安くします」というのを大声で周囲に言ってるのは,顧客に対してアピールしているのではなく,競合店に対するあからさまなシグナル。「あんたが下げなければ,うちも下げないから,互いに無駄な競争はやめましょう」という露骨なサインで,このために健全な競争が妨げられて価格は下げ止まる。
もう1つの例は,ネット上のオークション。ヤフオクのようなシステムでは細々と入札価格をあげていくのは非合理的で,自動入札を使ってただ1度だけ,自分が出してもいいと思う最高額を入札するのが最善の戦略であるということ。なぜなら,たとえそれで誰かにオーバービッドされて落札しそこねたとしても,最高額以上の額を出して落札するのは愚の骨頂だから(と,ホントはそこまで話は簡単じゃない場合も多いけど)。したがって,ビッドするユーザーがすべて合理的,戦略的に行動する限り,オークションの自動時間延長にはまったく意味がないことになる。ところが,現実はだいぶ違う。入札すべき価格の正当性についての情報の不足が大きな理由だけど,でも単に「アツくなる」,戦略的思考の欠けた人が多いというのもかなりある。やってみればわかるけど,オークションではなかなか冷静にコトが運ばないもの。アチコチに本物のオークション会場があるような欧米と違って,日本人はオークション自体に慣れていない。
ここのところ,ずっと会社や職場,もう少し言うと社会に対して感じてた違和感を,ズバリ説明する言葉に出会えた。「モラルハザードの問題は,戦略的環境における情報とインセンティブの問題で,インセンティブの構造を変えない限りは繰り返し起こる」。そうなんだ,人の行動を変えるにはインセンティブの構造を変える以外にない。「問題の源泉を倫理観や道徳心に帰着させてもしょうがない」。まったくその通り。「社会経済問題を倫理とか習慣の問題と理解し,そこにとどまるのは危険な思想である。表層的な正義感や倫理観が歴史上のさまざまな差別や誤りを正当化してきたことを忘れてはならない」。おおーっ,そうだ,そうだ!
午後一でT局長と面談。最初,秘書さんから面談のために時間をあけてくれと言われたときは管轄違いじゃないの? 人違いじゃないの? と思ったけど,勘違いしてたのはぼくのほう。T局長は,今や全体を見るような立場にあったんだった。
戦略的思考をするなら,ぼくが取るべき態度は1つ。辞職の決意を翻して仕事に燃える(コミットメント)という可能性をほのめかし(シグナリング),それで会社のコミットメントを引き出すこと。あるいは少なくとも,会社側の情報,会社の現状や展望に関する具体的な数字を引き出せるだけ引き出すこと。とはいえ,すでに半年近くもだらしなくシグナルを出しっぱなしにしているけど,会社側のコミットメントに信頼性はない。コミットメントは観測不可能。インセンティブにかなりの不確実性がある。確率や誰かの気まぐれに依存するとき,インセンティブというのはまるっきり機能しないどころか,むしろ逆効果。もっとも,現状では誰も半年後や1年後に会社がどう変わっているかなんてわからないから,しょうがない。漠然と「3年後や5年後に良くなってるかもね」,というだけ。
3年経っても会社のインセンティブ構造が変わらないというリスクの見積もりを,仮に50%とすると,どうなるか。半分の確率で,ぼくは相変わらず自らのモラルハザードに自責の念を感じるようなくすぶった状況にいるはず。いや,もはや労働倫理くそ食らえというほどに開き直っちゃったりする可能性はきわめて高い。ダメージはかなり大きい。
転職のリスクをどう見積もるか。これはどうも良くわからない。きっと情報不足。もう少し系統立ててリサーチをしないと,有意義な見積もりはできない。
でもホントは違う。リスクも何も関係ない。辞めると決めて,そう口にしたんだから,本当は辞意を表明してから1カ月以内に辞めるべきだった。上司達の慰留も,進行中の会社の改革も関係ない。3度日付を書き直した退職願を,明日こそカバンから取り出そう。
2002/12/17(Tue)
辞表は普通「退職願」と書く
仕事前に1.3km。マジメに泳いでみたら500mは9分40秒だった。50m58秒のペース。500mの所要時間は記録してた限りでは「20分→18分→17分→14分→11分→9分40秒」と縮んだ。50m54秒ペースの500m9分というのは切れそうな気がする。それより先に1km20分を試してみよう。
あわただしい夕方の編集部。仕事する手を止め,ふと立ち上がって新編集長席へ。辞表提出。たいした感慨もなく。「じゃあ一応預かっておきます」というお決まりのせりふ。「預かって」という決まり文句は,最初に辞意を示されたときにボスが答える方法であって,ぼくの場合は,すでに5カ月も経過しているので,もう預かるも何もないわけで,まあ儀式みたいなモノか。まだもう1回だけ何かありそうなことをほのめかすボスの発言。でも,今度こそ決定。
クリスマスが過ぎて今月の仕事が終わるころ,きっと晴れ晴れした気分になるんだろう。あるいは不安になるだろうか。先のこと,何も決まってないしなぁ。
2002/12/18(Wed)
絵心
ここ数カ月は毎月10〜30点の図を描いている。ややイラストっぽいのが数点,技術的解説用の図がたくさんという感じ。雑誌にある絵や図というのは,ふつう編集者がラフなイメージを描いて,それをプロのイラストレータが起こすというステップを踏むけど,このラフを描くのが結構楽しい。
PowerPointとかVISIOとかいったソフトでラフを起こす人もいるけど,ぼくは絶対に鉛筆と消しゴムで紙に描く。自由度も表現力もまったく桁違い。Illustratorあたりを本気で勉強すれば紙も要らないのかもしれないけど,そこまでやるとラフじゃなくなってしまう。……と,書いていて気づいたけど,簡単な図ぐらいは,そのうち編集者が自分でIllustratorで起こすようになる気がしてきた。ラフを描いて,それをプロに絵として起こしてもらうという作業は,ワープロが普及し始めた時期に原稿を手書きで書いて誰かにワープロで清書してもらうのと同じような妙な無駄がある。そもそも,編集者やライターの中にも,まれにメチャクチャ絵のうまい人もいる。
「絵を見ても全然わからんぞ!」と不評(?)の「絵でわかるキーワード」というページを担当しているので,毎月かなり頭をひねりながら絵を描いている。その手のラフで,最近だんだんと凝るようになってきた。以前は人間は全部頭が丸で四肢が棒だったけど,最近はちゃんと顔も描く。
ちょっと前に,アートディレクターに「こんな絵がほしいんですけど」と絵のラフを見せたら「おっ,絵心があるね」とほめられた。ぼくはほめられると,すぐに調子に乗るタチなので,それ以来またさらに凝るようになってきた。凝ってみるとわかるけど,絵というのは描けば描くほど,コツみたいなのがわかってくる。
昔,美術の時間に絵を描くなんてのがあってもちっとも好きになれなかった。うまいと言われたこともなかったし,うまくなれるとも思わなかった。でも,美大に行く学生が良く「何千枚もデッサンを描いた」というとおり,絵というのはセンス以上に訓練が必要なんだろう。
物理学者のファインマンは,40歳を過ぎたあたりで,突如絵に目覚めて習い始めたという。描くことに夢中になった結果,みるみる腕をあげて,2,3年後には大枚をはたいて彼の絵を買い求める人が出てくるまでになったという。
昔好きだったフランスの印象派の画家ユトリロは,少年時代からアルコール中毒で,酒癖から抜け出す方策として医者に絵を描くことを勧められたという。モノトーン調の暗い色彩で描かれたパリの裏町を描いた作品を,ぼくが模写したのは中学生のとき。
絵を描いてみたくなった。ちょうど数年おきに楽器をやってみたくなるのと同じようなものかもしれない。
2002/12/19(Thu)
オレンジのつぶつぶが!
夜,ようやく調子に乗って原稿が進み始めたと思ったら,いきなりキーボードにオレンジジュースをこぼしてしまった。オレンジの果肉,かなりツブツブした感じの奴らがキーボードの右側3分の1ほどにぶちまけられてしまった。
キーボードにお茶をこぼしてパソコン(マザーボード)を壊した経験もあるので,あわてて電源を切る。ツブツブをふき取って,十分に乾かしてから起動してみると,完全にキーボードがおかしくなってる。
キートップをはずしてティッシュで拭き取っても効果なし。あきらめて,ノートをばらして水洗いすることに。忙しいときに限って,こういうことって起こるよなぁと思いつつ,愛機ThinkPad s30をバラす。バラす過程で,細部の工夫に感心。なるほど良く考えて作られてるよ。
本体から外したキーボードパーツを,ちゃぷんと水につけると,出てくる出てくるオレンジのツブツブが。キレイに水で流して,後はドライヤーで乾燥。
これで完璧だろうと思ったら,ちっとも症状は変わらず。押してないリターンキーが押されっぱなしになってしまう。原稿が書けん……。あきらめて1日マシンを寝かすことに。ついでにぼくも寝ることに。
 | ちゃぷちゃぷと水洗い |
 | トイレのハンドドライヤーで乾燥 |
2002/12/26(Thu)
ざくり
最後の原稿2本。さらさらと。画面づくり。8カ月の甥っ子の写真をちょっくら加工して誌面デビューさせる。うん,可愛く笑ってる。最後の数ページの校正チェックだけ残して4時退社。今年の仕事もほぼ終わり。
デッサン入門4冊到着。おおーっ,絵を描くってのはこういうことだったのかとちょっと感動。思った以上に確立された文法と技法がある。
ユトリロの絵を模写したとき,無数に錯綜する縦横斜めの線を,どうやったらあんなに風景から写し取れるんだろうと思ったものだけど,何よりデッサンに必要なのは「デッサンの文法」とそれを補助する幾何学的観察能力なんだ。どうして中学校の美術では文法を教えないんだ。いきなり「描け」と言われて途方に暮れる生徒が多いのも無理もない。パラグラフの構成方法や文章技法を教えようともせず,ただ真っ白な原稿用紙を渡して作文を「書け」と生徒に強要する結果,ほとんどの人が作文嫌いになるのと同じ構造という気がする。
日本ではフィーリングが重要なスキルで,あまりに感性を重視するばかり,技術を教えること,あるいは技術論を語ることをよしとしない風潮があるんじゃないだろうか。英語やフランス語の「art」には,芸術という意味だけじゃなくて,もっと広い意味での「技術」「技巧」「〜道」という意味が包含されているけど,日本語の「芸術」には技術といったニュアンスは皆無。
基礎をきちんとこなせば誰でもある到達点にたどり着けることなのに,「オレは向いてないから一生駄目なんだ」と思っている学習者がいるとしたら,こんな不幸なことはない。基礎の習得過程というのは,自分の能力の伸びがもっとも目に見えてうれしいはずの時期なのに,基礎というと退屈で単調な練習というイメージがつきまとうのは何故だろう。
さて,ぼくのお絵かき願望は三日坊主で終わるだろうか。ともかく始めてみよう。
2002/12/27(Fri)
仕事納め
久しぶりのプール,1200m。泳ぐ頻度が落ちまくってる。帳尻(なんのだ?)を合わせるために年内は毎日泳がなくては。久しぶりだったからか,それともこんなもんなのか,1000mは20分10秒。あとちょっとのところで20分を切れなかった。
仕事は5分×3。待ち時間たっぷり。旧編集長とカレーへ。カレー後,新旧編集長とお話。辞表を出した後でも進退問題ってクリアになるわけじゃないんだ,と知った夜。ビックリするほどたくさんの人が辞表を繰り返し繰り返し出しているらしい。なんて会社だよ,まったく。なんてパセティックな人たちだ。
『平安朝の女と男---貴族と庶民の性と愛』(服藤早苗,中央公論),
読了。自然のままありのままの動物的存在であることをやめてしまった人間にとって,性やカップリングというのは,社会的な環境に左右される相対的なもの。人間の本能は壊れているので,歴史を通して普遍の,これこそ本当の性愛のあるべき姿なんてものはないと思う。で,今あるべき性愛の姿というのは,どういうものか。ぼくは昔から漠然と聞きかじってきた平安朝の通い婚がいいんじゃないかと思ってたけど,どうもよくわからない。少なくとも男女の平等さという点では,平安時代のほうがずっとリベラルだったと言うのは間違ってないような。てわけで,手に取った本。
いまタイトルを手でタイプしてみて気が付いた。よく見ると,この本のタイトルは「男と女」ではなくて「女と男」となっている。まあ,そういう強い思想というか,主張というか,理念というか,問いかけに満ちた本。フェミニストやジェンダー論者が,問題意識喚起の意味を込めて「売買春」を「買売春」と書くのと同じコト。著者は古代史研究家の仮面をかぶった強烈なフェミニスト。古代には対等で性愛に関してもおおらかだった男女関係が,身分制社会や家父長制的社会システムが確立するにつれて,いかに女性の性愛が抑圧されるに到るかを跡づける。農耕民族たる日本人の神話や祭りにみる男女の性愛観。平安時代の男女の出会いの諸相。男色のはじまり。性器の呼び方の変遷。どのテーマもおもしろい。
あまりに目的意識が先に立ったウンザリする記述とか,著者の主観的推量であるのに学術的であると言わんばかりの論理展開を確信犯的にしているフシがあるのが気になる。ぼくは男女は平等であるべきだと思うし,現代日本社会はまったくそんな理想から遠いと思ってるけど,だからといってわめき散らす女は好きになれない。
性愛の問題を社会学的に検証するのは大切だろうけど,生物学的な側面をばっさり捨て去ってしまっていいものだろうか。古代には強姦がなかったとする著者の主張にしても,史料に記録がないからなんていう心細い理由だけじゃなくて,生物学的に検証してもいいんじゃないかと思う。チンパンジーにだって売春や強姦はある。
2002/12/28(Sat)
初台
かつてよく通った中華料理屋の四川風麻婆豆腐が恋しくて初台へ。通勤経路だからというのもあるけど,会社が初台から信濃町に移転してからも,なんだかんだで初台に行ってるような気がする。
麻婆豆腐仲間のYさんが,また良く食う食う。冬筍の岩海苔香味揚げというオススメ料理の調理法を店員に尋ねたら,なんの躊躇もなく,すらすらと流暢な日本語で微に入り細に入る解説をしてくれた。ポイントは高めの温度でさらっと揚げて,筍の甘みを閉じこめることだそうな。しかし,ふつう料理店というのはおいそれとレシピを教えたりしないものだと思ったけど,あんなに簡単に秘訣を教えていいものなんだろうか。
パークハイアットへ。10年近くもすぐそばに通っていたというのに行ったことがなかった上のほうへ。高見から見下ろす新宿の夜景は捨てたもんじゃない。眼前にそびえるNTTドコモのビルを見て思ったけど,あの巨大な時計はやっぱり失敗だったんじゃないだろうか。いや,時間がわかって便利なんだけど,なんかイマイチ冴えない。
年末で,もうあまり人気もない静かなバー。斜め前で色っぽい会話を交わす50がらみのおじさんと,25歳前後とおぼしき女性の会話が気になる。いかにも世間知らずな乙女を陥れようとするその手練……,と思ったけど,よく耳を傾けてみると,年齢のわりに話の内容が無残。50年も生きてきて,そんなことしか言えないのかよぉと同業者,もとい同性としてやや憐憫を感じつつ。のぞき見た若い乙女のほうはといえば,そこはかとなく顔の調和の崩れた美人。おじさんのくだらない仕事自慢にナイーブに感心している。世の中うまくまとまるもんだな,と妙に納得。
と,我を振り返ってみると,年頃(?)の男女2人がロマンチックな夜景を前にグラスを傾けているというのに,食べ物の話に終始する色気のなさ。嗚呼。