2002/07/01(Mon)
気になるメール3通
大手町でNTT-ME記者発表会。ようやく無線LANホットスポットのローミング話が出てきた。しかも,かなり大規模で,かなりマットーな形で。まあ,来年の話かな,使い物になるホットスポットサービスが登場するのって。都内は臨界点を超えると早そうだけど。
夜,ライターY氏と新宿ラージマハールでカレー。初対面だけど,すぐに変人だと悟る。大学を2つはしごしつつ麻雀で生活したあと,パチンコで生計を立て,その後はパソコン系奴隷ライターとして糊口をしのぎ,今はデートレーダーとして高級車が数台買えるほどの資金を運用してるとか。ライターは趣味でやってる,と。その割に,かなりの仕事量をこなしてるらしい。かつて目指した弁護士と同じくらい稼げると豪語するのに,ちょっと驚いた。そんなパソコンライターもいるのか。「どんなジャンルでも書けますよっ」的な発言は頼もしいけど,ぼく的には,海とも山ともって感じ。山師の可能性もあるし,実際,ラスベガスで600万円勝って,それを一気にかけて負けたなんて話をする29歳は,ふつう山師だと思われても仕方ないのでは。でも,こぢんまりしたお利口さんが多い世の中,こういうヤツっておもしろいよな。目が鋭いもん。
気になるメールが3通。この日記を読んでる人から。1つは桑田の英語の歌詞について。仕事が落ち着いたら,ここにお返事書きます。もう1つは法隆寺のエンタシスのこと。これも落ち着いたら。それからもう1通は,石川県在住の27歳と自称する謎の女性からのもので「メル友になりませんか」というもの。全文引用。「こんにちは。初めまして。突然すみません。私は石川県に住む27歳。名前は能任千香子といいます。ホームページをみてメールしました。詳しくはないけど私も心理学哲学好きです。宜しければメールフレンドになってください。汝自身を知れ汝自身について考えよ--mailaddress」。
一体,ぼくのホームページのどこに「心理学哲学」なんてあるのか。シグニチャにとってつけたように白々しく「汝自身を」なんて書いてるあたりが,薄気味悪い。これ,スパムに決まってるんだけど,なんか気になってしまうのです。ちょっと画期的だなぁと。初めて「久しぶりっ,ケイコです。最近どうしてますか? 私は仕事が忙しくて……」という,最後まで読まないとスパムと気づかないような語りかけるようなメールを受け取ったときのような新鮮さがある。でも,わからないのは,ぼくがまかりまちがって返事を書いたとして,先方に何のトクがあるのかってこと。だって,すでにこっちのメールアドレスはわかってるんだし。もしかしてマーケティング用語で言うところの「ワン・トゥー・ワン」なのか? ぼくが返信したら,丁寧に返信しかえしてきて,それで最終的にエロサイトに誘い込むとか?
2002/07/11(Thu)
木柱をまねて石柱を作ったギリシア人
『天下無双の建築学入門』(藤森照信,筑摩書房),読了。想像と違ってちっとも建築学じゃなかったけど,おもしろい読み物。古来,人間にとって住居とは何だったのか,どうやって住居というのは各地で現在のような形になったのかを,古今東西の建築例と,建築家の直感,それに豊かなイマジネーションとで描き出す。「建築を決定するのは屋根でも窓でもなく床である」とか「モダニズム建築は,世界全建築史の原子爆弾である」とか,すぱっと言い切る歯切れの良さも気持ちいい。この人,夢は縄文人が暮らした住居を,縄文人が使ったであろう道具だけで,縄文人が作ったように作り上げることだとかで,実際に,石器を使って木を伐ったり,釘もないような竪穴式住居をこしらえたりってフィールドワークもやっちゃう,無手勝流の建築史家。
で,この本にあったのが「法隆寺の柱は古代ギリシア建築のエンタシスの流れを汲む」というのが俗説であって,この珍説がどうやって広く信じられるにいたったのかという指摘。
この本の著者によると,法隆寺エンタシス説を初めて唱えたのは伊東忠太という明治時代の建築家で,1893年のこと。大胆な仮説だけど,そういう仮説が出てくる時代的背景もあったんじゃないだろうか。もし法隆寺が西洋文明の源である,ギリシア文明から直接影響を受けているのだとしたら,西洋に追いつけ,西洋を吸収しようという明治時代の日本人の「和魂洋才」という精神を,すでに1000年以上前からやってたことになるんだから。
「法隆寺の木柱の源はギリシアにあり!」という直感を得てから,彼はロバの背に揺られて3年かけてユーラシア大陸を旅したものの,結局,証拠は見つからず。法隆寺エンタシス説は,奈良のバスガイドは言っても,専門の建築史家はもはや口にしない説になっているという。正倉院の校倉造りの湿度調整説とともに,法隆寺エンタシス説は奈良の古代建築における二大俗説。
そもそも両者は見た目が違う。エンタシスのほうが,ある高さを超えるとじりじりと径が細まっていく円錐型シルエットなのに対して,法隆寺の木柱は下から3分の1あたりが膨らんでるトウモロコシ型シルエット。ちょっと注意して見れば素人でも別物とわかる。法隆寺の柱は「胴張り(どうばり)」と呼ぶそうです。
ギリシア神殿というのは,もともと丸ごと木造だった,という。それがだんだん石柱に置き換わった。証拠は随所にある。もしはじめから石柱だったなら,角柱になるはずなのに,ことごとくギリシア神殿の柱は丸い。それは木を真似たからに他ならない。石を切り出したら,ふつうは四角い。わざわざ丸くする必要なんてない。あるいは石柱と必ずセットになっているグルグル巻きの草葉の模様も,やっぱり木を模した証拠。石柱に刻まれた筋は木の表面を擬している。
「どうしてギリシア人は,最初の神殿を,地中海地方の恵まれた大理石を使わずあえて乏しい木の柱で支えたんだろうか。ギリシア人は元をたどると北方の暗い森林地帯から明るく乾いた地中海へとはい出てきた民族で,生命力に満ちた森の信仰と木造建築の記憶を忘れることがができなかったから,と言われている。ところがやがて,おそらく木材の欠乏あたりが理由で,木の柱を石の柱に移し替えるようになる」。
もとは木柱だったと。だからこそ柱というのは丸い。著者はこういう言葉で,その短いエッセイを締めくくる。「柱というものは石で作ろうがコンクリートや鉄で作ろうが,技術と表現の源は木なのだから」。なんだか,このフレーズにジンと来てしまった。西洋というのは自然と対峙してこれを征服する文明というのがふつうの見方だけど,実は森の記憶,木のチカラを信じているわけだ。知性の象徴のようなギリシア文明の荘厳な神殿に,とても素朴な森の人の記憶が刻まれている。いや,そもそも森の信仰を素朴なんて考える理由はないけど。
丸い柱のモチーフが木というのは,考えてみたら,あまりに当たり前のことという気がしてきた。
ところで,この間大野さんという方からいただいたメールには,もう1つおもしろい説が書かれてあって。「ギリシャ神殿の柱ですが、真ん中が膨らんでいるのは離れて見た時にもまっすぐに見えるようにするための工法だったという説もあります」,ということです。
あ,記憶がよみがえってきた。むかし法隆寺を訪ねたときに父親にそう教えられた気もします。でも,うーん,どうでしょう。ぼく的には,かなり眉唾だと思います。だって,まっすぐの柱を遠くから見たとき,真ん中が細く見えたしりませんよね?
2002/07/13(Sat)
ドレスコード?
会社の先輩の結婚式2次会で神宮前へ。やや小雨が来てるのが気になったけどバイクでお出かけ。ネクタイ締めて,スーツを着てバイクに乗るのを,みんなヘンだと指摘するけど,いったい何で? 電車より倍以上早くて,ドアトゥードアだし,それにいまの季節,夜のバイクは気持ちいいんだから,いーじゃんと思うんだけど。確かにスーツ姿でバイクに乗ってる人は少ないけど,だから何?
結婚式2次会というより,元職場同僚の同窓会という雰囲気。お久しぶりの先輩,上司たち。「キミは全然だめだ。もっと仕事しろ」と,いろんな人に言われる。ぼくなのかなぁ,ぼくがどうにかできるコトなんだろうか。
しかし,もっとも結婚しそうもなかったNさんが結婚という事実,挙式の模様を映すビデオに改めて驚愕。
以下,長くなりますが,英語の話。ちょっと前に桑田の「夏の日の少年」という曲に出てくる歌詞の英語がおかしいと書いたら,そのことで桑田のファンという方からメールをもらいました。「Do you know how many tears I have cried?」という英文は,「cry tears」とcryを他動詞的に使ってるけど,それはヘンじゃないか,とぼくは思ったのです。cryは泣くという意味では自動詞として使い,単にI cried last night.と言えば,そりゃ涙を流したに決まってるのであって,いちいち I cried tears last night.とは言わない。「頭痛が痛い」的冗長さがある。それがぼくの感じたところ。ただ,これには例外があって「cry bitter tears」のように形容詞が付く用法はある。
で,メールをまるまる引用します。
「彼はKUWATA BAND以前はかなり間違った英語を書いていたようです。でも,気が付いた? 指摘された? 以降は気にして,トミー・スナイダー(元ゴダイゴのドラマー)や小林克也さん等に英語が間違っていないか確認をしているようです。その後のアルバム,シングルは「英語補作詞トミー・スナイダー」とされている作品が多数あります。今回の「夏の日の少年」もトミーの名前が書かれています。サザンオールスターズと同時期に活躍していたゴダイゴのメンバーであり,桑田さんの書く詞の雰囲気を理解してもらえるという理由で英語補作の依頼をしているようです。かと言って今回の英語が正しいか間違ってるかは,残念ながら私にはわかりません。でも,一応トミー公認?の英語だと言うことを知ってもらいたくてメールを送りました。」
なるほど。で,思い直して検索してみました。キーワードは「how many cry tears」。英語の学習方法の1つに,コーパスを使った自発的なコロケーションの学習というのがあります。用例があるかどうか,実際の用例がどうなってるかを,大量の実例(この場合はネット上の英語)を使って調べるってことです。それがインターネットで実に簡単にできる時代になったのです。ビジネス英文のコーパス検索ができるサイトなんてのもあったりして,あれこれ検索すると楽しい。think aboutとthink ofの違いは何だとか,そういうのを実例をたくさん見比べると,ルールが見えてきたりする。
で,cry tearsの検索結果。レニー・クラビッツの歌詞にひっかかりました。「So many tears I have cried」と,ある曲の中で彼は歌っています。なるほど,少なくとも「I have cried so many tears」は言えるようです。で,気づいたのは many も形容詞。桑田の歌詞の「Do you know how many tears I have cried?」は,「I have cried so many tears.」の反語的表現で,そう考えると,実はこの「tears」には「so many」という形容詞が付いていると考えられる。ただ泣いただけじゃなくて,たくさん泣いたってこと。だからOK。
桑田の歌詞には「うーん,それってアリ?」という違和感を感じただけだけど,J-POPには,もっと違和感を感じるものがゴロゴロしてる。たとえば今テレビでやってるCMで,チューブの前田は「I have been loving...」とか歌ってるけど,loving って何だ? とか。小比類巻かほる以来,なぜかJ-POPでは長い歴史のある「Hold on me」という奇妙な表現とか。誰が歌ってるか知らないけど,全部英語で歌ってる割に「I wanna keep on dance. This is my life.」なんていうのもある。あるいは,ちょっと古いところでGLAYの「グロリアス」という歌では「恋に焦がれ恋に泣く,心から………,I sing my dream forever, I wish you will be happy life」なんてのがある。もう狂ってるとしか思えない。
ナンチャッテ英語について,あれこれ思う。基本的には何でもアリでいいんだけど。うーん。
英語勉強中の身としては,違和感を感じる表現に出会ったとき,それが正しい表現かどうかは,まず背景的なモノで判断しがち。中国人が使う英語やJ-POPだと,「まあ間違えてるんだろうな」と思うわけです。でも,たとえば初めて「I am so smart, aren't I?」とアメリカ人が言うのを耳にしたとき,「えっ,まさか。amn't I じゃないの?」と思いながら,頭の中であれこれ考えるわけです。で,「そうか,疑問文のbe動詞ってのは,人称代名詞に束縛されるんじゃなくて,話の向かうベクトルにより強く束縛されてるんだな」と自分の中で納得し,そうしてそのうちそれが当たり前に思えるようになるという過程を踏む。
むかし,言語学者はこう言ってた。「母親がいくら壊れた文法で話しかけようとも,子どもは正しい文法を身につける」。これは最近はちょっと嘘じゃないかと言われてるらしい。ふつうぼくらは日常生活では壊れた文法で話していることもままある。ところが母親は,幼い子どもに向かって話すときには,注意深く正しく話そうとしているし,子どもの間違った言葉使いはその場で訂正させる。言われてみれば,子どもや外国人に話すときには,ぼくも正しい文法で話す努力をしている気がする。
英語学習中のぼくは,自分の了解範囲を超える文法とか表現に,きわめて敏感。明らかにヘンなのはいいんだけど,「えっ,何それ? そういうの知らない」と思える表現に出会うと,とまどう。
たとえば,I have been loving...という表現。 be lovingに強い違和感を感じるのだけど,改めて動詞のloveを辞書で引いてみると,「【用法】感情をこめた強意表現以外では通例進行形なし」とある。「あれ,それじゃあ I am loving とも言えなくはないのか?」と悩ましく思ってしまうのです。
これが前田じゃなくて,英語ネイティブの曲だったら,「そうか,そういうのもありなのか!」と悟れる。あるいは調べてみる気にもなる。でも,前田じゃあね。結局,もやもやした気味悪さだけが残って,「そのうち誰かに聞いてみよう」で終わってしまったりする。
うわっ! 検索して発見。I have been loving というのは,英語的にオッケーかも。いっぱい用例が見つかった。I have been loving every minute of it.とかいうのがある。「慈しむように,一秒一秒を愛しく思った」というニュアンスか。なるほどー,love も,そうやって進行形で使うことがあるのか! つまり,loving というのは,love という能動的な気持ちが一刻一刻について更新され,持続されているイメージ。現在進行形よりも,現在完了進行形で使う頻度が高いみたい。うーん。確かに「I have been in love with you.」だと感情が平坦な感じがするけど,「I have been loving you all this time.」だと,かなり熱っぽい感じがする。
何か自分にとって違和感がある文例に出会ったとき,あれこれ調べてみて,「そういうことだったのか!」と納得した経験は少なくない。それこそが,外国語を一歩一歩理解することだと思う。でも,J-POPに関しては調べるより先に「うっそぉ」と思ってしまうんだな。はっきり言って,J-POPの英語ってぼくにとってはノイズ。やめてほしい。だから,桑田の曲の歌詞についても「冗談でしょ?」と思ってしまったわけです,たぶん。
で,英語の先生(ハワイ在住のアメリカ人)に聞いてみました。ぼくの予想どおり「I cried tears last night.」は回りくどい表現だけど,もしそれが詩なんかだったら,あり得なくもないとのこと。特にtearsに形容詞がついた場合,というのは辞書と同じ説明。「I cried tears of joy」って表現ならOKだって,なるほど。で,桑田の「how many tears I have cried」に関しては問題ない表現ということでした。でも,別の人(トロント在住のカナダ人)に聞いたら,「I cried many tears」は,かなりヘンとのこと。もう一人,ダブリン出身のブリティッシュ英語な人に聞いたら,「I have cried so many tears」は,詩的表現としてはOKかもしれないけど,それを言うなら「I cried rivers of tears」のほうがいいって話でした。なるほど,そういう表現もあるのか。
ここに来て,もう1度ぼくは混乱してきました。たぶん,tearsってのは一粒一粒の涙のことを指す言葉ではなくて,涙という,ある一定の量の液体のことを指す言葉。とすると,many tearsっていうのは,かなり特殊な表現に違いない。わざわざ涙を数えるなんてことはふつうはしないわけで。詩的表現としてはOK。だけど,やっぱり日本語で「どのくらい泣いたか,あなたは知らない」というなら,how many times I have cried のほうが,ふつうの表現じゃないのかという気がしてきた。
何よりもJ-POPの英語が切なく感じる理由は,そんなね,聞いてるほうも歌ってるほうも,一体正しいのかどうかもわかりもしないコトバを使って,一体人の心に響くような歌が歌えるのかってこと。なんで自分のコトバで歌わない? ヨーロッパの言語をかっこいいなんて思う段階って,もうそろそろ日本人は卒業してもいいんじゃないの? ということ。
ここ何十年かわからないけど,わかりもしないコトバで歌ったがために,日本の歌謡曲は歌詞の内容がレベルダウンしたんじゃないかと疑ってみたりするわけです。すごく浅薄で,曖昧で,雰囲気だけのコトバの連続。
ただ,もう1回ひっくり返して考えると,ちょっと話が違ってくる気もする。どんなに間違えた英語を使っていても,その背後にある元になった日本語の枠組みが,日本語ネイティブに見えてくるという現実もある。たとえばGLAYの,I wish you will be happy lifeという壊れた英語。ぼくには即座に「ずっとシアワセでいてね」という日本語のメッセージが思い浮かぶ。でもこれ,壊れ具合としては「キミが幸せな生物でいたようになってくれるといいのに……」というぐらいヒドイ。
2002/07/24(Wed)
漱石
やたらと青空文庫を称揚するヒトもいるけど,ぼくなんかは,かび臭いブンガクだらけで,一体何がうれしいんだと常々思ってる。今さら読みたい作品なんてちっともない。哲学もそうかもしれないけど,20歳を過ぎてブンガクなんてコトバを口にするのは,ふつう恥ずかしいんじゃないだうか,その道に進んだのでもないかぎり,と思ってる。ところが,久しぶりに読んだ漱石に衝撃を受けた。
久しぶりに会う友達。待ち合わせまでの空いた時間に山ほど買い込んだ本をいくつか見せてくれた。その中の1冊に,『理想の国語教科書』(文藝春秋,齋藤孝)というのがあった。手渡す彼女は興奮気味に「これがね,大きな書体とかルビとかね,なんか懐かしいっていうか,すごく安心なんですよ」と語る。例の『声に出して読みたい日本語』のオッサンだったっけ,違うか,まあ,いずれ日本語ブームの1冊かぐらいに思って,それほど興味もそそられずにページ繰った。
開くとすぐにあったのは,夏目漱石,『夢十夜・第一夜』。わずか3ページほどの,その場で読める短編。あまりのコトバの流麗さに圧倒される。無駄がなく,リズムがいい。ストーリー展開の妙なのか,文章の歯切れの良さなのか,読んでいて気持ちがいい。
小泉八雲的怪談の趣がある夢の世界の描写が実に美しい。夢なので生と死の境目が曖昧。逆に鮮明に描き出されるのは,一夜と百年という時間の対比。ともすると,妖艶なイメージを喚起する女の赤い唇と,百合の花弁の無垢な白さの対比。わかりやすすぎるオチが凡庸な気がしなくはないけど,それも実は意図的なのかと思うほど,全体がよくバランスされている。
ブンガクを語る青臭さを嫌うあまりブンガク自体を顧みないのは,過激なフェミニストを嫌うあまり女を顧みないぐらい馬鹿げてる。
でも,漱石って朝日新聞に連載してた流行作家なんだから,ホントはブンガクなんて厳めしさはないんだよな。斉藤氏が指摘するのは,「同時代でも森鴎外は漢語の素養がないと読むのは厳しい。幸田露伴となると,読者を選ぶ。でも,漱石はちゃんと選べば中学生でも読める。彼が漢文の素養がなかったのではなく,彼はバランスよく和語と混ぜたから」ということ。しかし,さらに指摘して曰く,「当時の新聞読者には,ちょっとぐらい難しい漢語が出てきても,それをものともしない日本語能力,日本語の頑丈な顎があった」(記憶で書いてるんで,原文とだいぶ違うかも)と。
そういえば,「音と字が必ずしも対応しない」という,世界でもきわめて珍しいライティングシステムを持つ日本語の語彙体系というのは,長らく「読書」という習慣に支えられてきたのだと,日本語学者の誰だかが指摘してたっけ。でも,今どき暇人と変人以外は読書なんかしないからなぁ。
その『理想の国語教科書』に掲載されている作品は,16Qぐらいはありそうな大きな書体で印字されてて,ルビも振ってある。さらにページの最後には難読漢字の読みや意味が書かれている。懐かしい「教科書」っぽさ。
その教科書っぽさで思い出した。英単語帳を作りながら,なんで日本語を学習することをやめてしまったのだろうと,最近思ったのだった。で,最近,大学生の時以来となる日本語単語帳を再び復活したのだった。それを1カ月ほどで忘れ去ってしまっていた……,ことを思い出した。