2001/09/03(Mon)
初めて見る,tがひっくり返った発音記号
英語の音って日本語と全然違うから,実は分かったようで良く分からんと思ってた部分があった。使われる発音記号の数はたかだか知れてるけど,それはあくまでも音を知るための手がかりと言うし,個人差や地域差が大きい。アメリカ内だけでも,東西と南でずいぶん違う。
でも,あるとき気づいたのは,個々の音素に地理的,個人的な「揺れ」があることとか,特定の単語の発音の仕方に揺れがあることと,弁別的な音素自体が有限で固定であることとは別に矛盾しない,というか別の話であること。それは日本語でも同じ。そう考えると,いくらも音って存在しない。特定の音素がつながったとき,単体で発声される音素と似ても似つかない音になることがあるというのは知ってるし,英語では音の連結や欠落が非常に良く起こるというのも分かるけど,それにしても必要なのは弁別すること。うまく作れない音はいくらでもあるけど,さすがに,もう知らない音はないだろうと。最近そんなことを漠然と思っていた。
ところが,今日のちょっとした発見。tutという綴りの単語。日本語で「ちぇっ」というのと同じ奴。日本語のカナは表音文字というけど,ちょっと意地悪く言えば,そうとも限らなくて,英語の発音記号と同じように,あくまで口から出て来る音を表わす手がかりということになる。この「ちぇっ」は文字通り発音するのじゃなくて(することもあるけど),いわゆる舌打ち音。宍戸ジョーが,人差し指を口の前に立てて,首をふりながら「チッチッチ」とやる奴。古いか。
そういえば,こういうのもある。日本語の「ん」は英語の音で言うと「n」になる場合と「m」になる場合があって,たとえば続く音が「p」の場合,「甲板」というようなとき,「kampan」というように「m」に近くなる。字と音が1対1に対応しているわけじゃない。
で,この「tut」。辞書で引くと,見慣れない発音記号が書いてある。タイプライターフォントの「t」をひっくり返したような記号で,「舌先を歯茎につけて吸うようにして出す舌打ち音」と説明がある。「ch」に近いけど,chがほかの音と同じく空気を吐き出すときに出る音であるのに対して,「tut」は空気を吸い入れるときに出る摩擦音。
考えてみると,他にも発音記号で書くとどうなるのか良く分からない奴がある。たとえばノーと答えるとき,アメリカ人は軽く首をふりながら「ぁっんっー」という感じの,鼻に抜けた音を作る。親しい間柄でないと,ややぞんざいに響くので,日本語の「うぅん」に近いんだと思う。発音記号がどうなるのか分からないけど,みんな作る音は共通してるし,何よりイントネーションは正確に同じ。一般的な発音記号にはうまく乗らないけど,みんながみんな作る音が共通してるということは,これは立派に英語の音素と言ってもいいような気もする。それとも実は,ネイティブの耳には,何らかの別の音の組合せとして響くのだろうか。確かにスペルは決まってるから(って,思い出せない),そんな気もする。
日本語で「あ〜ぁ,やっちゃった」というときの「あ〜ぁ」に相当する,英語の「あっぉー」というのも,発音記号は良く分からない。
うちの兄貴は良くため息をつくときに「ちぇしぃーーーっ。はぁー」と,ため息の前にtut音と,寒さに震えるときに日本人がやる「しぃー」という吸気音を作る。あれはあれで,弁別的な,しかも非常に意味をもった音の単位。
マレーシア人の友達は,「ほらね,でしょ☆」というときに,指でピストルの形を作りながら,ホッペのあたりで「チャッ」という音を作る。今その音を真似してみるに,それはどうも口蓋に張り付けた舌の左右どちらか片側を,勢い良く口蓋から引き離すときに出る音で,別に作るのは難しくないし,日本人でも「ちぇっ」の代わりに良くやってる人がいる気がする。
アフリカ系の言語では,喉の奥のほうで鳴らす「ポコーン」という音を,れっきとした単語に使われる音素として使うものがあるらしい。国際的に定められた発音記号もちゃんとあるという。そういえば,これってブッシュマンの作ってた,あの「ポンッ」て音かしら。
言語学に音韻論という研究領域があって,ホントかどうか知らないけど,音韻論は,現存する,およそ学問と呼ばれるもののうち,「理論は完成した。研究課題はもはやない」と言うレベルにある唯一の学問という話。
人間の口で作れる音,作りやすい音というのは形状的な理由と,人間の口まわりの筋肉の運動能力によって決まっていて,その幅広い音のバリエーションを,ある区切り方をして,数十の弁別的な「音」として捉えたシステムが,1つの言語内での「発音」,音韻体系ということなんだろう。考えてみたら,きわめてアナログなものをデジタル化というか,符号化しているわけで,よくもまあ,コミュニケーションなんか成り立つなと不思議に思わなくもない。
で,頭では分かっているし,言い分けることもできるのだけど,やっぱり日本語で書くと「ラック」になる「lack,rack,luck,ruck」を聞き分けるとか言うことになると,これは難しい。心の準備ができているときに,さあこれは,じゃあこれはと1個1個テストされれば間違えることはないかもしれないけど,さらっと話しの中で出て来たら意味に頼って想像するほかない。というより,そうしているらしいことを最近,決定的な実例で思い知らされた。
東南アジアの未除去地雷の話をしているときのこと。地雷を踏まないように歩くには,「グラスのないところを歩くといい。そこが安全。なぜなら,グラスがないということは,みんなが踏んで歩いてるということだから」と言われて,ぼくの頭に浮かんだ絵は「ガラスの破片が散らばった地面。その破片の落ちてないところを歩く」というもの。なんで急にガラスの破片なんかの話が出て来るんだろうと思った瞬間,はっと気づいた。「glass」ではなくて「grass」。獣道のように草がないところを歩けというわけ。
母語にない音素(日本人にとっての英語のth),母語で弁別的でない音(日本人にとっての英語のLとR)を複数音として捉える言語を習得するのは当然むずかしいわけで,日本人にとって英語は「発音すらむずかしい」と思っていた。世界的に見ても,日本語のようにLとRを区別しない言語は少数派のようで,お隣の韓国語でもこの違いはある。ほかのアジア系と同じく英語に苦労しているタイ語ネイティブに聞いたら,タイ語にもこの違いはあるという(ちなみに,タイ語には関係代名詞もあるとか……)。
日本語は子音の数が少なくて,しかも子音が単独で自由に使われることはなく,必ず母音をともなう。音の自由度が小さく同音異義語が多い。だから,日本語話者は外国語学習に不利な立場にあると。まあ,そうなのかもしれないけど,一方で,日本語を外国語として話す人に聞くと,日本語にしかない音で,非常に習得のむずかしいものがあるという。英語話者は語頭に来る「つ」は難しいというし,「っ」と「ー」の有無,その区別は,英語話者はもちろん,比較的発音の近い韓国語話者にとっても非常に難しいらしい。
この「っ」というのは音というより,空白で,こういうのはあまりないらしい。日本語ネイティブなら「さっき」と「先」は苦もなく区別できるけど,そういう半テンポの無音による区別なんてものがない言語(少なくとも,英語を始めとするヨーロッパ言語と韓国語,中国語はそうみたい)を話す人には,とてつもなく難しいらしい。母音を伸ばすかどうかで,別の音になるというのも難しいという。あるとき日本語がペラペラのウニョンが,「岡さんがね」というので誰の話かと思ったら,「お母さん」だった。彼女はぼくが発音する「鬼さん」と「お兄さん」の区別がほとんどできなかった。文部省が実施している日本語検定には,良く「よっか(四日)」「ようか(八日)」の引っかけ問題が出るという。
英語には音節に強弱はあっても,長短はない。あるとき英語話者向けの辞書を見て「:」という,日本語の「ー」に相当する発音記号が見当たらなくて驚いた。アメリカ人に聞くと「mood」と「cook」の母音の違いは,長短ではなくて強弱だという。じゃあ,あの英和辞典にある「:」ってナンダ?
外国語の学習の過程では「まずはthとsの区別だ。それが終わったらr……」という風に1個1個順番にやるわけじゃなくて,普通は全部いっぺんにやる。で,ぼくの経験では,それまで使い分けてない音であっても,聞けばすぐに違いは分かるし,すぐにその場で真似もできる。たとえば中国語のtsやs〜shにいたる4つほどの音,あるいは4つの音調を,ちゃんとぼくは聞き分けることもできたし,発音もそれなりに使い分けられた。でも,それがどういう音だったのか,5分後には覚えてないわけだし,まとまった単位,1つの文になったりすると,10秒後に繰り返すと,すでに音調が間違ってたりする。つまり発音って「物真似→自発的な音作り→無意識レベルでの聞き分け」という風に,時間とともに習熟していくものじゃないかと。そう考えると,新しく使い分ける必要のある音素の数が多いだとか,少ないだとか,そんなものは,あまり外国語学習においてネックとならないんじゃないか,と。英語には日本語にない音がいくついくつあって,だから難しいのではなくて,単に「ない音がある」から難しい。たとえ1個の「っ」であっても,ない音に習熟しないといけないという意味では,英語話者が日本語を学習するうえでぶつかる発音上の問題が,反対向けの「日本語→英語」の場合より簡単という理屈は通らない。少なくとも習熟にかかる時間が大きく違うということはないんじゃないか。
久しぶりに兄貴に電話して話したら「発音良くなったん?」と聞くので,やや呆れてしまった。「通じればいいんや」といって,発音に気を使わないのは馬鹿だけど,「発音がそれっぽい=外国語がうまい」と言う図式とか,あるいは「外国語学習=発音学習」という発想って,非常に浅い気がする。スペイン語は日本語と音が似てるので,簡単だとか,フランス語のRとか鼻母音は難しいだとか。そんなの発想って,ウンコもいいとこ。習得が難しいのは音じゃなくて,文法。
10歳を超えてから外国語として学習する以上,発音に対する習熟はきわめて時間がかかるし,ある意味ネイティブと同じ音を作れるようになる可能性は限りなくゼロに近いわけだけど,そんなのは,もっと本質的な語学学習の困難さ,文法とか語彙に対する習熟と比べれば,ほとんどどうだっていいこと。よほど年寄りでもない限り,誰だって1年も練習すれば通じる音は作れるようになるもの。でも,1年くらいで正しい文法で自在にしゃべれるようになる見込みなんてゼロに等しい。
で,ぼくはアメリカに10カ月ちょっといて,発音がうまくなったか? というわけですが。もちろん上達はしてるはず。でも,それは何も英語に囲まれて暮らしてるからとか,チョロチョロおしゃべりしてるからなんて理由なんかじゃなくて,卓球部の新入生が1人で壁に向かって素ぶりでもするかのように,お部屋で発音を研究して何十回も何百回も練習しているからだと思うんです。それでも,totallyとかobviousとか,literaryなんかはうまく言えない。「with this」のようにthが2個続くだとか,特定の子音が続くと難しくて,エイヤで「withis」と音を1つ落して誤魔化したり。知ってて「wiz this」と発音して誤魔化したり。ホントは万単位の回数,口にしないとダメなんだろうなと思いつつ。
ネイティブの発音に近づけようとして,意味不明の音を作ってしまうよりは,思い切って自分にとって弁別的な音で代用するのもありかと思って,最近はむしろカタカナを思い浮かべるくらいのつもりで,「とぅたりぃ」と言ってみたり。脳の回路に余裕があるときだけ,2つ目の「t」を「l」っぽく変化球にしてみたりするわけです。でも,一方で,こういうのを練習してると,何だか阿呆くさくて,「トータリー」でいいやんかと思えてくることも多い。ぼくの観察では,同じくらい英語のしゃべれる学生を比べると,発音はヨーロッパ系よりアジア系の学生のほうがうまいけど(フランス人,スペイン人はひどい),つまり発音と発話の流暢さは必ずしも関係がないというか,別個のことで,発音は下手でも,非常に英語のうまい子はいくらでもいる。
「発音」なんて,外国語学習の全体像からすれば,ごくごく小さな,誰にだって必要最低限はすぐに超えられる課題だと思う。もちろん永遠に超えられない課題でもあるのだろうけど。
2001/09/04(Tue)
読めない本
スピードやボキャブラリーの問題はあるものの,辞書がなくても,もう新聞や雑誌,ペーパーバックなんかは一通りなんだって読んで楽しめるくらいにはなってると思ったけど,最近ベストセラーになったという『Pastoralia』(George Saunders著)のいくつかの短篇は,さっぱり分からんくて,つまらんかった。あまりに分からなくて情けないを通り越して驚いた。
不思議なスタイルの作品ばかりで,どれも文体も内容もハチャメチャ。非常にクリエイティブで独創的な物語といえば,そうなんだろうし,ふつうの英語ネイティブが読めば,おもしろおかしかったりする表現が散りばめられてるんだろうけど,何だかさっぱり。
比較的面白く読めた表題作のPastoraliaは,石器時代の原人として振る舞うことを職業とする男女の話。現代だか近未来だか分からない。見せ物用に作られたセットの洞窟の中で,完璧に365日24時間,原人として振る舞い続ける2人。外界とのやりとりは,ファクスによる,雇用主との日々のやりとりだけ。それ以外は英語を使うことは禁じられていて,身ぶり手ぶりと叫び声やらですべて済ませる。形だけは狩りに出かける風を装って,外界から差入れられる山羊を火であぶって食うし,飛んでる虫を捕まえてむしゃむしゃ食う,そして時間があれば壁画を描く。少なくともそういう素ぶりをすることが,仕事。たまに訪れる見物客が冷やかそうが話しかけようが,あくまで原人であることを続けないといけない。
男女のペアのうち,女のほうは仕事熱心でなく,英語はしゃべってしまうわ,もっとも禁じられている見学客とのおしゃべりもしてしまうわと,勤務態度が極めて悪い。男のほうは,そのことを特に報告せず,「今日のパートナーの勤務態度:良好」と日々ファクスで報告する。ところが,雇用主はどこからともなく彼女の不評をかぎつけて,「本当のことを報告せよ。首にしたほうがいい人がいるんじゃないのか。かばってもタメにならんぞ」と男に迫る。男から話を聞いた女は,自分にはドラッグ中毒の息子や病床に伏した母親がいて,職を失うと,彼らの面倒を見切れなくなるといって,男に事実を報告をしないように懇願する。同時に勤務態度を改めると男に誓う。同じようなことが何度か続き,男はそのたびに女の肩を持って苦境を救うものの,最後には見限って,ありのままを報告してしまう。
女は首になり,続いて違う女がやってくる。新しい女の勤務態度は良好で,男以上に原人そのものの振る舞いをする。狂ったように虫を捕まえて食べる。男はパートナー評価表に「良好」と書き付けてファクスする。そこで物語は終わり。
同じものを日本語で読んでいたら,もっと早く気づいたに違いないけど,実は読んでいる間,それがアメリカ社会の一般的なホワイトカラーの職場を風刺した物語であることに,ぼくは気づかなかった。何だか奇妙な話だな,というだけで,要するに文章を「読む」ことに脳神経のすべてが使われていたということ。
2001/09/08(Sat)
私のIQは138だから
夕方,ミスターサトーと刺身を摘みつつビール。韓国人のウニョンも呼んで3人で日本酒。大学院に戻って2週間になるミスターサトーは,何だか話しぶりが急にアカデミックになったような気がするし,妙に英語を話す率が高い。ウニョンは日本語が上手だから3人でいるときは,基本的に日本語を話すけど,勉強した量というとウニョンも英語のほう多いから,難しい話や言葉は英語のほうが通じる。でも,日本人と韓国人が英語で話さなければならないというのは,何かものすごく変な気がする。アパートの隣に住んでる人同士が,お互いの部屋の前で話をする代わりに,わざわざ隣街の公園まで歩いて行って話しているような。
2軒目のバーでワインを飲んだ後,さらにウニョンのアパートでワインとチーズ。「死ぬまで飲もう!」というのが韓国語の表現にあるらしい。日本語だと「死ぬほど飲もう」というところ。
早々と「死んでしまった」ミスターサトーは放っておいて,韓国語とか韓国事情の話を聞きまくる。非常に似ているところと,驚くほど違うところと。一番驚いたのは,「韓国の人はみんな自分のIQを知つてるヨっ」と笑って教えてくれたこと。「私のIQは138だったから,政治学でソウル大学に行くのはむっつかしぃーと思た。わったしはぁ,頭は悪くない。だけど今ね,LSATの成績があとチョット目標に届かない,それはぁ,あたしの頭がわぁるいのっかぁ,それか言葉のぉ問題なのか,自信がなくなってきぃたよぉ」。そんな話を笑って続ける。彼女の夢はアメリカで弁護士になること。優秀なネイティブに混じって,ロースクールに入る試験を受けようというんだから,たいしたものだと思う。
「けんさん,けんさん。この写真ね,あたしが23歳のとき,私のオニさんが撮り,ました」。綺麗な額縁に入れられた5,6年前の写真をぼくに見せながら,彼女は言った。西洋風の白亜の建物の中庭かどこかで撮られたとおぼしきモノクロのポートレイト。瞳に映り込む光の具合,背景のぼやけ具合,表情の自然さ,少し風を感じさせる髪の乱れ。明らかにカメラ好きの人が撮った写真。良く撮れてる。今よりややふっくらした頬の,その写真の女の子は「少女」という言葉のほうが似合う。韓国の人気アイドルの写真だと言われれば,信じてしまいそう。
写真を見ながらウニョンはため息をつく。「ああぁ,このころの私は何だってできた。やりたいって,そう思えば何でもできると思った。それで,ホントにできたっのになぁ」。
初めてウニョンに会って,アメリカで弁護士になりたいと聞いたときには,内心「無理に決まってるじゃん」と思ったけど,LSATの参考書に書き込まれた小さな文字,無数のハングルとアルファベットを眺めていて,何だかムショウに頑張ってほしいと思った。「わったしの人生,どうなるっかなぁ〜」なんて言うときの,深刻なんだか笑ってるんだか分からないモノの言い方は,やっぱり日本人に似てる。
2001/09/13(Thu)
カトマンズ・ポスト紙
あちこちのニュースサイトを見ていて,ふと思った。日本語と英語しか見ていない。で,世界ではどうやってテロは報道されてるのか気になって,読めもしないのに,ひとまず叩いたのは,ル・モンド紙のURL(http://www.lemonde.fr)。似たような報道をしているらしいということ以上には分からない。
googleで「world newspaper」を検索。良くできた各国の新聞サイトへのリンク集にヒット。そこからたどって,ヨーロッパ,アジア,ラテンアメリカ,ミドルイーストなんかの新聞をあさってみる。つらつらと字面を見ながら,ヨーロッパ系の言語はドイツ語中心に広がる言語たちと,フランス語を中心に広がる言語たちは,それぞれ良く似てるなぁとか,フィンランド語やスウェーデン語はかなりワケがわからんなぁとか思いつつ。イタリアのサイトはセンスがいいけど,ドイツのサイトデザインは実直でモサイなぁとか。
ネパールでほとんど唯一の新聞という雰囲気の「カトマンズ・ポスト紙」を見てみると,トップには「ネパール人に被害者なし,駐米大使からの報告」なんてのがあって,どこの国も「邦人」のことが気になるのねって。
そのリンク集からたどれる新聞の半分くらいは「英語で」書かれてるか「英語でも」書かれてるので,実はかなり読めるものが多い(ヨーロッパ系は英語ないのが多いなぁって当り前か)。たとえば,タイの「Bankok Post」。名前とサイトの雰囲気からするとタイの有力紙っぽいけど,記事は英語。バナーに踊るタイ文字以外は英語。
その新聞リンク集には,Japanの項目も当然あるわけで,「The Asahi Shimbun」とか「Daily Yomiuri」とかある。今まで日本語で何気なく見ていたけど,日本から発信される英語ニュースが,ほかの国の英語ニュースに混じってるのって,なんとなく新鮮。自分の中では当然日本語は特権的な位置を占めてるわけだけど,それが急に相対的に見えてくる気がする。たとえば非アジア圏の人にすれば,タイ語も日本語も同じようなものだから(ちょうど日本人にとってデンマーク語もスェーデン語も同じようなものってのと同じで),「The Asahi Shimbun」って,いまいち洗練されない英語で書かれた,アジアの地方紙って感じに見えるんだろうなぁって。
ともあれ,英語が読めれば「世界中の新聞が読める」という可能性を,今さら考え直してみたり。それと同時に,英語ネイティブスピーカーの特権的地位には何だか納得いかないものを感じる。
MSNBCで,まるっきり電波少年のパクリやんかという「LOST」という番組がある。目隠しして飛行機に乗せられた2人1組,10人ほどのアメリカ人が,いきなりモンゴルの砂漠に降ろされる。「ニューヨークへ帰れ」というのが指令。自分たちがどこにいるのか,何大陸にいるのかも知らされていない。その番組で,ウランバートルの人たちに向かって,平気で「Do you speak English?」と非常にずーずーしい態度で話しかけるアメリカ人を見てると,ほんとに飽きれてしまう。馬鹿じゃないかと思う。つくづく何てゴウガンな国民だと思うわけだけど,いっぽうで,これだけ世界中が英語を使ってるように見えることを考えると,ある意味仕方のない誤解なのかなぁって気もしてくる。
2001/09/21(Fri)
日系サンセーもパールハーバー以来というし
イチローを見にオークランドの球場へ。冴えない冴えない。前回見たときには,打つは走るは刺すはの大活躍だったのに,今回はぼろぼろ。なんと2度も三振。Oakland A'sが勝とうが負けようがどうでもいいけど,せめてイチローにはブンブンがんばってほしかったなぁと。
30代後半とおぼしき日系サンセーの人と話してたときのこと。テロのあった朝,ぼくは寝てて日本からの電話で起こされたなんて話をしたら,「えーっ,寝てたの? まあ,バケーション中だからそんなもんだよね。でも,恐いよね,パールハーバー以来だよね」と何げなく言うので驚いた。「Did you just say ``since Pearl Harbor''?」。
初対面の人に議論をふっ掛けるほど世間知らずじゃないけど,今日はランチを食べながら,ミスターサトーとひとしきり今回のテロにまつわる諸々の日本人のウップンをはらしたところだから,いくらサンセーとは言え,日系人の口からパールハーバーという言葉が出て来たことに,ぼくはショックを受けてしまった。
日本ではあまり報道されてないみたいだけど,アメリカ人は「アメリカ本土が攻撃されるのはパールハーバー以来で,あのときの奇襲は……」と,いったい今回のテロに関するコメントで何度パールハーバーという言葉が出て来たかというほど,あの「歴史的虚構」を口にしている。ある政治家はこうコメントした。「私の記憶が確かなら,パールハーバー直後に日本のコマンダーが口にしたのは,こんな言葉だったはずだ。−−眠れる獅子を起こしてしまったのかもしれないな−−,いまテロリストたちもそう考えてるに違いない」。ちょっと待て。それは映画のセリフであって,映画で使われたあのセリフは文脈のデツゾウだろう。あんたの記憶は数カ月前の映画で得た知識だろうって。今になって,日系人があの映画の上映に敏感に反応していた理由が分かる気がする。
こうなったら,いっぺんちゃんとパールハーバーの歴史を調べる必要があるなぁと思ったりするこのごろ。今のぼくの理解では,宣戦布告が遅れて(翻訳文が間に合わなかったという話),結果として奇襲となったものの,今にも日本が攻めてくることをアメリカ側は知っていたわけでしょう? 平和交渉が難航した末に日本が飲めっこない条件をアメリカが提示して,いってみればアメリカは日本に攻めさせた。違うの? そして「眠れる獅子発言」は,宣戦布告が遅れてしまったことに対して言われたものであって,奇襲そのものに対するコメントなんかじゃない。さらに言えば,戦争なんだから,たかが軍人が2,3000人死んだくらいで何だよ。ヒロシマで一般市民を10万人に近い規模で一気に殺したアメリカは一体何様なんだ。ベトナムでアメリカは何をしたか,彼らは覚えてるんだろうか。
まあ,パールハーバーそのものの歴史的詳細に,ぼくはそれほど興味があるわけじゃない。興味があるのは,その歴史的事実にスパイスを効かせていつまでも利用してるアメリカ人の心理と,政治的なやり口。結局,彼らは仮想的であっても敵の存在なしに,ユナイトできないんじゃないのか。一見アメリカがやられたように見えるけど,イスラム社会はいずれ西洋社会と対立せねばならんのだから,叩き潰さねばならんと思ってるのだとしたら,実は今回のテロだって,都合よく利用できるきっかけなんじゃないのか。アメリカは本当のところいつトップの座を奪われるのか分かならいとビビッてるボス猿みたいなもんじゃないのか。
内政ではあんまりいいことがないから,ブッシュ大統領にとって,「われわれアメリカはっぁ」と国民をアジることで,内部的な不満から目をそらし,外部へ目を向けさせる効果もあるんだろう。実は今回のテロですごくホッとしてる人もいて,テロが起こるまでスキャンダルの渦中にあった,コンディット議員なんかは,その1人なんだろうなと思う。あれほど毎日報道されていたのに,今ではその後のいきさつについて情報を探すほうが難しい。
基本的にぼくはアメリカなんて,日本と比べてちっともいい社会だと思わないんだけど,今回のテロに関するアメリカ人の反応を見ていて,本当にこの国に住む人たちの国民性が嫌になった。キチガイじみたペトリオティズムなんかと関係なく,案外クールな反応をしているサンフランシスカンのほうが,ずっとメトロポリタンというか,健全な地球市民って気がする。
サンフランシスコみたいないろんな民族のいるところでは,どこの国の人間であろうが,黙っていれば外国人だってアメリカ人に見える。だから,野球場全体に愛国的なムードが充満して「God bless America」を観客が歌うようなときには,ぼくは黙ってアメリカの国旗をそれなりに掲げてみたりするんだけど,内心では「ふんっ」と思ってるわけで。もういい加減へき易。
たぶんアメリカ人のほとんどは頭に血が昇ってる。軍事行動に出る法案は上院は満場一致,下院はたった1人の反対で可決された。国民の70%は軍事行動容認で(テロ直後の90%から下がってるのが救いだけど),UCBの学生たちが反戦デモもやれば,総すかんを食らう。こんな状態がいったい血が昇ってなくて,何だっていうんだ。でも,それと同じくらい,別のいろんな意味で,ぼくは頭に血が昇ってる。
日本は日本で外から見てると情けない。日本では軍事支援に関する特別法案を通そうとしたりしてるみたいですが,何のこっちゃって感じです。日本って外交の立ち回りが下手なのね,要するに。
ミスターサトーと話してて,なんだか,ものすごく頭の中にいろんな思いが巡ったし,それを整理してみたい気もするけど,眠いし,今日はまいっか。
アメリカ,アメリカ,というアメリカ人は馬鹿だと思うけど,アメリカ,アメリカという日本人はもっと馬鹿だと思う。
2001/09/25(Tue)
アメリカのハンバーガー
快晴。さわやかー。ユニオンスクエアのMacy's屋上にあるCheese Cake Factoryで,遅めのブランチ。Double BBQ Bacon Cheese Burger。陽あたりの良い場所にいたら,じりじりとやけそう。今日のサンフランシスコは,久ぶりに「暑い」と思える気候。半袖。鳩にフライドポテトを与えてたら,「こないだの鳩のフライは気に入った?」と中国人の友達に聞かれた。「えっ? あれチキンじゃなかったの!?」。
実は東京はかなりスゴイと思うけど,食文化に関してサンフランシスコもかなりバラエティに富んでいる。それが口に合うかどうかは別として,全部ホントにその国の移民たちが作ってるわけだから,かつて日本にあった「スパゲティ・ナポリタン」というような,雰囲気だけ真似してみました,というエセ民族料理は少ない。
帰国が迫ってるいま,東京に少なくて,サンフランシスコでしか食えないものは何だろうかとぼくは考えるわけですが,それはハンバーガーしかないんじゃないかと思うのです。あいや,不法滞在のメキシカンたちが作る安くてウマいブリトーも,なかなか東京じゃないか。客がみんなスペイン語でオーダーしてるような店に行くと,ほんとに安くてうまい。
もともとぼくはハンバーガーが好きで,マクドナルドのハンバーガーですら好きだった。ここで「マクドナルドすら」というのがポイント。価格競争での圧勝もあって,日本では1人勝ちの様相もありますが,マクドナルドは,アメリカではそれほど評価が高くない気がする。規模はデカイけど。
で,3日ほど前,すごく久ぶりにマクドナルドでビックマックを食べたら,驚くほど小さくて,中身もしょぼく感じられた。「ちっともハンバーガーやないやんか」って。
ハンバーガーはちゃんと作ると大変うまい。同じファーストフードでも,BurgerKingとかJack in the Boxとかは結構うまいし,Carl's JR.が最近はじめたレストラン風バーガーなんかは,まあまあ。でも,なんといっても,ファーストフードじゃないちゃんとしたハンバンガー屋で食うハンバーガーはうまい。ちゃんと炭火で焼いてくれて,好きなだけ野菜やらハラペーニョからピクルスを入れて。東京で,こういうのって,ぼくが知ってるのでは下北に1つあるけど,やたら高かった気がするし,気軽に食べに行くという感じじゃない。
日本に戻って,あ,あれ食べたいと思って食べられないモノって,ほぼ唯一のアメリカ料理と言われるハンバーガーかな,と。フレッシュネスバーガーだとかモスバーガーだなんて言ったって,しょせんファーストフードだしね。
2001/09/27(Thu)
へくてぃっく
お昼ごろから夕方までカフェで読書。ここ3日ほど,サンフランシスコはとても良い天気。暑くも寒くもなく(朝夕除く),すがすがしい。本を読みながら無意識にクルクル回してたペンを,50cmの距離でマジマジと眺めてるおじさん。ふと気づいて,本から目を上げた。「それはどうやってやるの? 親指の周りを回ってるの? どの指で押してるの?」。「この指(薬指)なんていうんでしたっけ,コレです」。「ゆっくりやってみせてよ」。
いわゆる鉛筆回し。「日本じゃ学生はみんなやりますよ。やり方はうまく説明できないけど,このレベルに達するのに3年はかかりますよ,ホント(笑)」。おじさんは,ぼくの親指の周りを前後にクルクル回るペンを目をまるくして見ている。
『Suzanne's Diary for Nicholas』(James Patterson著),読了。日本語じゃ絶対に読まないようなラブストーリー。ところがこれが結構イイ。最後の20ページほどにさしかかったところで,不覚にも泣けそうになってきた。あぁぁぁ,スザンヌッ,ニコラスッ! カウンターの向こうから,退屈そうにしていた店員が,ちらちらこちらを見ているのが気になって,立ち上がる。急いで部屋へ戻って続きを読む。わぁぁーん。
大脳の経年変化というのか,生理学的な理由から,男は歳を取ると涙もろくなるというけど,結構ホントかもしれない。本を読んで涙ぐんだのは,案外はじめてかもしれない。というか,本や映画で泣くようなことはほとんどないんだけど。
やっぱりぼくは,こういうところがトロいんだろうなーと思うけど,現実がぼくに影を投げかけはじめてる。そっか,帰るのか。戻るのか。さっきまでノンビリ本を読んでたと思ったけど,この生活はもう終わりなのか。
航空券を予約したのは1週間前で,帰国予定日は決定していたのだけど,ぎりぎりになってから,みんなにお知らせメールを送った。一緒に勉強したり,遊んでくれたりした人に一斉にメールを送ったらドバッドバッと返事が来て,いきなり「時間がない」という感じがしてきた。みんなに会えるだけの時間がないやんか。
夜は葉巻とビールとビリヤード。うまいステーキを食いました。
2001/09/28(Fri)
ソフトランディング
Webブラウザのスタートページで日々見比べてるサンフランシスコと東京の気温は,いま非常に接近してきている。接近といっても,東京の気温がグングン落ちてきてるだけだけで,サンフランシスコの気温はずーっと似たようなモノだけど。で,今日は最高気温も最低気温も,ほぼピッタリ一致。渡米の時期を10月にしたのは,「出発元と行き先が似た気温」「チケットが安い時期」という理由もあったりして。時差はどうしようもないけど,急な気温の変化に慣れる必要はないという,「ソフトランディング」。
サンマテオ方面へ友達とドライブ。BGMのカーペンターズを聞きながら,やや驚く。子どものころ「音楽」として何気なく聞いていた曲の歌詞が妙に分かる。田中星児がカバー曲として歌った「ビューティフルサンデー」のオリジナルの歌詞もはじめて知った。「♪When you said, said, said,,, said that you loved me. Oh, my, my, my, it's a beautiful day.」。って……,あれ……。ちょっと待て。
「♪I've got someone waiting for me. And when I see her I know that she'll say, Hey, hey, hey, what a beautiful day.」。日本語の歌詞にある「だぁれっかが,ぼぉーくをーー,ぉをぉをぉを,まぁーっ,まぁーっ,まぁー,おぉ,待ぁってぇーるぅ」なんてニュアンスはまったくないやんか。待ってるのは彼女に決まってる。日曜日の朝,早起きして,これから公園に彼女と散歩に行こうという状況じゃないのん。なのに,なんで日本語の歌詞は「誰か」なんだ? あんまりにも元と違いやしませんか? なんでそんなことするんだろうと,思って検索してみたら,なんと訳詞は田中星児本人らしい。あーっ,なるほどっ! って,なんでなるほどかは分からんけど……。彼はなんとびっくりグッチ裕三のいとこだって。知らんかった。
この「誰かがぼくを待ってる」という歌詞は,子どもだったぼくにとって,本当に「誰か」だった。別に彼女じゃなくても,女の子じゃなくてもいい誰か。未知の世界へ飛び出すんだ,という爽やかな出発の日曜日。そんな風に,ぼくは受け止めてた。うーん,全然違ったのか。なんかショック。でも,田中版のほうが,爽やか度がずっと高いかも。この曲って,最初はドイツでヒットして,それから世界中でヒットしたそうな。