2001/05/06(Sun)
魚食うからね
スペイン語では動詞の形から主語が1人称なのか2人称なのかなどが分かるので,いちいち主語は言わないという。だからだと思うけど,彼らは良く男の子のことをリファーするときに,sheと言ったり,逆に女の子をheと言ってしまったりしがち。彼らは間違ったことにすら気づいてないけど,英語ネイティブや日本語のネイティブのぼくは,一瞬焦るわけです。「he? girlfriendの話してんでしょ??」とか。
中国語ネイティブの人は,時制を滅茶苦茶にしがち。中国語は孤立語という語形変化のない言語グループに属するので,彼らは動詞を変化させるという発想が苦手。特に過去形が苦手という気がする。
同じように,単数複数の区別のない日本語ネイティブは冠詞をすっとばしたり,複数のモノをリファーするときに,いきなり単数形を使ってしまったりしてしまいがち。特に会話では,冠詞なしの加算名詞がじゃんじゃん登場する。定冠詞を使うべきところを,不定冠詞にしてしまうことがあるというのも,まあ似たような問題。
何かというと,ある言語ではきっちり区別していることでも,そんな区別をしていない言語を話してる人にとって,その区別はたいして重要じゃなく見えるもの。だから,自分がおかしている間違いが極めてささいなことのように思えるということ。冠詞や単数複数の区別というのは,英語ネイティブの会話では極めて重要な情報伝達手段として働いてる。
あるメールで,I've received an e-mail from her once before. と書いたとき,ネイティブにこう言われた。「an e-mailなんだから,onceなんて言わなくても1回に決まってるじゃん。onceは余計だよ」。ぼくはanを付けることは忘れなかったけど,それが運びうる情報量を過小評価していたというわけ。
あるいはこんなことも。「韓国人の友達が,その韓国レストランはイケると言ってたよ」と言いたかったのだけど,ぼくは,My Korean friend told me the restaurant was pretty good. と言ってしまった。ぼくの頭には複数の人が推薦している図があったのだけど,「Oh, did he?」と単数で返されるまで,自分が複数形のsを発音するのを忘れてたことに気づかなかった。
昨日読んだ文法書の話。今までもやもやしていたことがいくつかクリアになったのだけど,その中で一番感動したのはカウンタブル/アンカウンタブルの区別の説明。たとえば,experienceという単語を使うとき,口にする直前まで an を付けるのかどうか悩んだりしてたけど,そんなの悩むまでもないことなのだった。「経験」が量として感じられるなら,a great deal of experience だし,やったことがある個々の「経験」が頭の中に星のように存在してるなら a lot of experiences と言えばいい。車の運転経験は量的だし,海外旅行経験は数的。
実はあらゆる名詞はカウンタブルにもアンカウンタブルにもなりうる。単に程度の違い。ずばりそう書かれてあった。ある名詞が抽象名詞や数量名詞で数えられないかどうかは,文脈と経験や文化に根ざしているのであって,辞書できっちり分類できるような決まりがあるわけじゃないという。すべては程度問題。すべては「英語を話す多くの人がどう感じてるか」,極端に言えば「発言者がどう感じているか」の問題。いちいち「これは加算か非加算か」なんて悩まずに,加算っぽい気がして加算っぽく使いたければ,そのように使えばいいだけのことなのだ。
日本人の発想からすると数えられそうでいて,実はより集合名詞的,抽象名詞的に英語ネイティブに感じられる存在,たとえば,moneyやfruitやfurniture,damage,crew,staff,baggage,equipment,music,work,news……(以下文法書参照)なんかをおさえれば,実はカウンタブル/アンカウンタブルというのは,おおざっぱに言えばOKなのじゃないだろうか。後は違和感を感じる実例に出会ったときに,気を付けて英語をインプットしつづければ,やがて……。
抽象名詞でも形容詞がつくと a bitter experienceと,本来抽象的なはずの概念が,aがついて具体的なナニモノかとして捉えられるケースが多い。他の「楽しい経験」や「悲しい経験」なんかと区別される,1個の「苦い経験」という概念が頭にあるように感じられているからじゃないかと思う。しかし,さらに例外というのはあって,he gave me a good adviceとは言えず,he gave me some good adviceとなる。
adviceというのは,vocabularyという単語と同じく,言葉の海から手にすくいとった,ある量の言葉のかたまりで,それはドロリとした液体のようなイメージなんじゃなかろうか。adviceから,それを構成するいくらかのwordsを落したところで,それはやっぱりadvice。だけど,an bitter experienceは,1個の構成物で,それを構成する何かが欠けると,別のモノになってしまう。うーん,違うかな。
外国語学習者に広く見られる現象にオーバーコレクションというのがあるらしい。直し過ぎ。ぼくは最近,sの発音をthにしてしまうことがあって,言ってからしまったと思うことがある。フランス人は,hの音を知らなくてそこに意識を集中するあまり,本来不要な位置にまでhを入れてしまうことがある。韓国人としては比較的英語の上手なヒワンは,冠詞を付けすぎてしまう問題を指摘されたことがあると言っていた。
フランス語とスペイン語の両方が等しくネイティブというスイス人が,「なんで英語ではfruitは数えられないんだ! 理不尽ナリ!」と言っていた(通常非加算というだけで,文脈によってはもちろん数えられるわけで)。つまりヨーロッパ人が果物を見る目とアメリカ人が果物を見る目は違うということ。アメリカ人は「果物」というと,個々の果物の具体的な形を思い浮かべるよりも,マーケットで売られてて山積みになった秤売りの果物とか,テーブルに置かれた果物の山を思い浮かべてるということ。
サンフランシスコのラティーノコミュニティ(ほぼメキシカンですな)がお祭りをやっていて,それをのぞきに行ったのだけど,そこでやってた簡易健康診断を受ける。いや,血圧,血糖値だのコレステロールだのを無料で調べてくれるというので,ものは試しと思って。指先にパチンと針で傷をつけて採血。エイズの街なのでややびびったけど,ちゃんと手袋は1人ごとに変えてたみたい。
で,そこでの会話。10分ほどの待ち時間の後,診断結果をみながら。医学生のバイトかなんからしきお兄さんと。「善玉コレステロールの値が,平均に比べてすごく高いですね」「はは,それはぼくが日本人だからですよ。魚を一杯食べるんです」「あっはっは,そりゃ確かに効くかもね,ヘルシーだね」。
fishが多くの場合単複同型で,あたかも数量名詞的に捉えられている感覚は,ぼくにとっては許しがたい。あまり魚を食わないアメリカ人にとって魚は魚なんだろうけど,ぼくにとって魚は断然カウンタブルだし複数はちゃんと複数形を使いたい。少なくとも数十種類の違う種類の魚という概念がぼくの頭にはあるわけだし,夕飯にサンマを何尾食うかは,とても重要な問題。なのに,英語では,I eat a lot of fish として,fishesとは言わない。
単複同型で扱われることが多いということは,複数になったときには,むしろこのfishという名詞は数量名詞的に捉えられてるのじゃなかろうか。しょせん食わない人の目には,たくさんの魚ってのは単なる群れとしてしか映らない。日本人のぼくとしては,I eat a lot of fishesと言いたいわけだけど,これだと相手の頭の中に「頭から尻尾まで,たくさんの魚をバリバリと食ってる日本人」の図が浮かぶんじゃないかと思って,I eat a lot of fishと言ってみるわけです。ついでに,a lot ofは加算,非加算のどちらにでも使えるので,聞いてた兄ちゃんはeat much fishと受け取ったかもなと思ったり。これだとeat meatと同じなわけで,これなら切り身の魚肉とか調理済みの魚を連想させるのじゃないかと。
DVDで映画,『KEEPING THE FAITH』を見る。なかなか。
2001/05/11(Fri)
文法的感情
未発達な言語というものはあるのだろうか。世界に3000〜4000はあると言われる言語というのは,みな等しく複雑(あるいは単純)で,優劣はないと思っていたけど,確かに年月を経て進化をしてきたシロモノなのだから,進化の方向性や深さが違うということはありえる。ドイツ語で書かれたハイデッガーの『存在と時間』が,他の言語に翻訳不可能と言われるのは,ドイツ語文法特有の時制の使い方によるという話を聞いたことがある。日本語や韓国語は相手との関係を記述する敬語が発達してるというし,英語は比較表現が発達した言語ということなんかも聞いたことがある。
職業坊主,西洋心理学指向があって大学院卒業準備中のミスターサトーが,お茶をかき回しながら,こんなことを言った。「言葉で言い表わせない感情というのがある。あの言葉でもないし,この言葉でもないという感情。語彙の貧困は感情表現の貧困を意味し,感情が鬱積するのは,そういう原因もあるのだ」。「オリジナルの仏典で使われたサンスクリット語というのはインド・ヨーロッパ系語族に属していて,あれは現代の英語やドイツ語に匹敵する非常に発達した言語で,一通りのことは何でも表現できた。だからサンスクリットを話していた彼らは非常に高度な知的生産活動ができた」。
思考とか感情とか,それが言語とどうかかわってるのかなんて分からないけど,確かに言語なしには両方とも,その存在はありえないか,もしくは極めてシンプルなものに留まるはず。
ある感情をずばり言い表す言葉はなくても,言葉を連ねることによって,どんな感情だろうと表現できるはず。というよりも,言葉の連なりこそ感情じゃなかろうか。脳の中で起こっている何か複雑なトポロジーの言語ネットワーク上の有機的な変化というか電位的ステータスが感情だとしたら。いや待てよ,とすると文法と感情というのは,どういう関係なのだろう。感情は実は言語にある文法規則に支配されている?
2001/05/14(Mon)
サラトガ
サンノゼよりやや北にあるサラトガという街の箱根ガーデンというところへ。日本にいたら,こういうところにはそうそう来ないというぐらい,日本よりはるかに日本らしい日本庭園。ゴールデンゲートパークにある日本庭園がチャイニーズがごっちゃになったアヤシイ雰囲気なのに対して,かなりまともな日本情緒ただよう場所。
立ち読み。『脳のことが知りたい』とか何とか言う本。失語症患者が,言葉を取り戻す症例の紹介に,何だか非常にうなずいてしまった。要するに外国語習得って,失語症のリハビリのようなものなのね。一見受身であるようなリスニングやリーディングという言語理解のプロセスが,本質的には声を出すという「運動」に深く関係しているという指摘に「やっぱり」と言う気が。表音表意文字の入り乱れる日本語の書き言葉の使用は,かなりさまざまな脳機能の連合によっているというのも面白い話。日本語話者の失語症患者って,言語と脳の関係を探るための研究材料の宝庫と言われてるんだとか。
立ち読み。『日本の論点2001』。文芸春秋から出てるんだったっけか,結構好きなんだよな,この本。日本の英語教育について,4人ほどがああでもないこうでもないと論陣をはっている。ざっくり拾い読み。それぞれナルホドと思わせるモノがあるけど,渡部昇一氏の指摘がもっとも鋭い気がした。誰の指摘だか忘れたけど,「心もとない,か細い土台の上に50階建てのビルを立てようとしているのが日本人の英語学習」という意見に,その通りとうなずいてしまった。日常会話という土台的な英語と,高度な,それこそ「読み書きそろばん」と言われたような教育によって習得される言語能力と,この2つは別。土台というのは基本文型がきっちり延随レベルで把握できるとか,脊髄で反射的にしゃべれるとか,そういう子供でもホームレスでもできるような会話。
外国語学習において,両方あるのが理想だけど,前者か後者かと言えば,実は日本人には後者のほうが大切じゃないのかというのが渡部氏の指摘。英会話だ,コミュニケーション能力だと言って,従来の読み書き中心の英語教育を攻撃する風潮に警鐘を鳴らしている。日常会話がなんとなくすらすらできる若い人というのは増えてるけど,まったく内容のないうすっぺらなことしか言えないのじゃあ,以前は「日本人は壊れた英語を話すが,何かものすごく深い考えを持っている教養のある国民」と思わせていた化けの皮が剥がれただけじゃないかという。会話能力というのは,本当にそれが必要とされる人や,やりたい人だけが身に付ければ良いだけで,大切な子供の学習時間を,たかが旅行のときに使うぐらいのために外国語に費すまでもないと。
2001/05/30(Wed)
30度の温度差
先週,特に夕方は寒くてブルブルしてたのに,今日は突如,最高気温が91度(32度)のサンフランシスコ。昼間は夏のよう。半袖で出かけて夜も半袖で過ごせる。夕方,ユニオンストリートをぶらぶら。さーわーやーかー。夜の10時過ぎに半袖でも,若干暑いというのは珍しい。夜のニュースでは,5月の気温としては観測史上最高の101度(38度)をサンフランシスコでは記録,この数字は機械の故障じゃないと言ってたから,よほど特殊な天気だったのだろう。80度(26度)を超えるような日でも夕方を過ぎると急速に冷え込んで,ブルブル震えるというのが典型的なサンフランシスコの天気。真夏でもお出かけに厚手のジャケットを持つのがサンフランシスコっ子の常識。海風が山を越えて内陸に入って来ると,サンフランシスコの街は深い霧,冷たい風に包まれる。
いつまでこの陽気が続くのかと思ったら,この週末には,また最高気温が60度(15度),最低気温が50度(10度)というウスラ寒そうな予報が。それって一気に30度(18度)の温度差ってことじゃん。誰だったか,サンフランシスコでひと夏を過ごした小説家が,「アメリカで過ごした一番寒かった冬は,サンフランシスコの夏だ」と言ったとか言わないとか。本当にサンフランシスコは暖かいんだけど,寒い街。つかのま,暑い日があると,「これぞぼくがカリフォルニアと聞いて思い浮かべる天気」と思う。
もしかしたら2度見ることになるかもなぁと思いながらも誘われるままに,映画,『パールハーバー』へ。絵はキレイ。軍事オタクの気持ちが少し分かる気がした。でも,この映画,長すぎ。ロマンス狙いすぎ,メロドラマしすぎ。歴史的史実がどうだか正直分からないことは多いけど,いくら日本人でも(って?)そんなことせんだろう,言わんだろうってシーンが連発。シビリアンや病院をマシンガン・ソウシャしますかね? したの? そもそも日本人役者が不細工だし,セリフは驚異的に棒読みだしでビックリ。
帰宅してテレビを付けると,ニュースレポーターのこんなセリフが耳に。「過去の歴史的事実を隠そうとしている人びとがいる……」,画面を見ると,日本語で書かれた教科書が。パールハーバーで3000人以上の若者の命が失われたと,ことあるたびに言ってる,その国民は,軍人じゃないシビリアンを8万人も一瞬で殺した原爆のことは滅多に口にしないじゃないか。結局,歴史的史実として大切だと語り継がれるものは,自国民がやられた話であって,やった話ではありえないのだ,どこの国でもいつの時代も。
歴史家が学問としてやっているものは別として,世に言う「歴史」というのは,しょせん政治の道具なんじゃないのか。歴史は,一国の教科書やメディアからは学べないと思ったほうがいいのじゃないか。アメリカ人の目を通して見たパールハーバー,たとえば中国人や韓国人の目を通してみた日本の軍国主義,侵略戦争ってのものを,実は日本人は見たほうがいいのかもしれない。
2001/05/31(Thu)
歴史
San Francisco Chronicleに載った「HOLLYWOOD VS. HISTORY」と題する映画評には『パールハーバー』にたいする歴史家の辛辣な意見がいっぱい。「180億円もの金を使ったんだから,歴史家に2,3ドルくらい払うことだってできたはずやん」と,太平洋戦争の歴史研究の第一人者。史実に対する正確さや,時代考証はかなりお粗末らしい。「もし日本軍が本土に来たら,カリフォルニアからシカゴまで侵略されることになるだろう」というセリフ,ぼくも見ながら何か変だとは思ったけど,「ファンタジー以外の何モノでもない。日本はそんなことができる可能性も,野望も持ってなかった」というのが歴史家の証言。やっぱり。
爆撃されてる真最中の空軍基地から飛行機が飛び立ったりするのは,ファンタジーに違いないとは分かったけど,結構シロウト目にはそれなりに自然に見えてしまうような笑えるエラーもあったらしい。「映画の中で彼らは,魚雷を搭載した爆撃機に空軍基地を攻撃させているが,いったいどこに魚雷を落すというのだ?」。
沈没しようとする戦艦「アリゾナ」の甲板に水兵がたくさんいて,「タイタニック状態」でけちらされるというシーンがある。まるっきり見た目も雰囲気もタイタニック。違うのは血と火と爆弾の数。ワラワラとやられるまま吹き飛ばされるままの兵士たち。しかし,いくら何でも甲板に人が多すぎると思ったら,やっぱり多かったらしい。ロッキーと同じで,最初はメタメタにやられればやられるほど,「トーキョーを爆撃するぞ!」というときに観客の共感を得やすいということ。
撃墜されて海に墜落した飛行機から,主人公が生きて帰って来るというファンタジー(あ,ネタばらし)は恋愛モノなんだし別にいいだろうけど,「シカゴまで侵略されるかも」なんてファンタジーを混ぜこんでいいのか。平和交渉の最中の突然の裏切り,奇襲,奇襲というけれど,上層部は日本がすぐにでも攻撃してくることを知っていたというのに,映画では「まったく寝耳に水」を強調してる。そういう虚構は許されるのか。虚構と史実をおりまぜ,文脈をデツゾウし,21世紀の通信テクノロジーまで1940年代に持ち込んだ,ファンタジーなハリウッド映画というわけ。週末の連休で,すでにジュラシックパークを超える興業成績を収めつつあるそうな。
NISHIMURA Ken <nis@bigfoot.com>