2000/07/03(Mon)
毎日日記を付ける奴なんて信用できん!
ふだん世間とは時差のある生活をしてるし,ジェットラグなんて何でもないと思ってたけど,何だかリズムが変。NYって東京と13時間の時差で,ちょうど反対だからなぁ。サーカディアンリズムって,ホントにあるのかも。変な時間にちろっと寝て,変にいつまでも目が冴えている。おかげで仕事がはかどったけど。
ある人とのメールのやり取り。信用できない奴シリーズ。初対面に近い状態で,哲学を語る輩も信用できません(4)。素人の哲学談義は,人知れず酒を飲んだ少人数でやるヒメゴトのようなもので,ふつう恥ずかしくて人前でできるものではありません。年をとると,なおさらです。「人生」なんて言葉を使う30代には気を付けろ(誰に言ってるねん)。40代にして人前で哲学を語るのは哲学者か馬鹿モノかのどちらかです。
小学生のとき,夏休みの絵日記を,9月の新学期に入ってからまとめて付けてた奴は信用できません(5)。夏休み中に,毎日欠かさずつけてた奴はもっと信用できません(5')。8月31日にまとめて付けてた奴も信用できません(5'')。8月30日と31日で付けてた奴が,まあ信用できそうです(5''')。
ぼくは9月に入って,悟りを開いていた口。
2000/07/08(Sat)
減量はじめました
昼夜逆転生活をふつうに戻そうと,昼前に出社したのに,結局最後の入稿作業は朝までかかる。校正の回覧には時間がかかるもの。印刷所の朝からの作業に合わせて動くから,どうしても夜の作業になってしまう。そんなわけで,来てるな来てるなと台風情報を見ながら,校正待ち。8日午前8時,校了。今月もようやく全部終わった。それにしても,結局一番もろに台風が東京を襲っているときに帰宅することになってしまった。ものすごい風と雨だ。
突然,減量スタート。実はいま65kgあるのだけど,目標は7kg減の58kg(さあ,公言したぞ。公言ってほどのことないか)。方法は単に食べる回数を減らすだけです。空腹を感じる時間をヨロコビとし,その時間を長めに設定するだけなのでした。そのうち,胃が小さくなるので,軌道に乗れば7kgぐらいはあっというまのはず。の予定。過去の経験では,身体は軽くなるし,ご飯はおいしいしと,全体に調子が良くなるはず。
好きなモノを,よりおいしいと感じるために,空腹の時間をジリジリと楽しむというのは,ちっともストイックな態度なんかじゃなくて,むしろ貪欲なのです。空腹にまさるソースはない,とフランスの諺にあります。1日に3回の何だかそこそこの食事をするより,1日に2回のまあまあな食事より,1日1回の「生きてて良かった」と思える食事のほうがいいのだ。
南の島にフィールドワークに出た生物学者が,毎日剃った自分のひげを曜日ごとにわけて溜めていて,なぜか曜日によってひげの伸びる量が違うことに気づいたという話を聞いたことがある。週末に島に訪れる妻の影響じゃないかという論文を,彼は発表していた。週末に彼女に会える,週末にセックスできる,という期待感が,男性のひげの伸びを速めるのだという推論だった気がする。
だらしなく欲望を満足させられるよりも,ひょっとすると人間というのは,欲望を抑えつつ,よだれをたらしつつ,期待に胸をふくらませるほうが活動的,生産的になるのじゃないかと思うことがある。
と,減量だなんて言ってるそばから暴飲暴食。おなかがハチ切れそうだ。
2000/07/10(Mon)
20時間リズム
人間の体内時計というのは25時間周期でリズムを刻んでいて,だから24時間周期で動いている地球上で生活していると,だんだんズレてきて,それが人間が寝坊をする原因だという俗説がある。あ,なるほどそれで! と妙に納得してしまうお寝坊な人が多いけど,考えてみれば,話は逆のほうが信憑性がある。だって,大昔は地球の自転はいまより早かったのだし。といっても,どっちにしても,ほかの動物がちゃんと24時間で生活しているのに,人間だけが25時間だなんて,ちっとも説得力がない。そもそも何万年も体内時計を調整できない生物種なんて,とっくに滅びるわな。
身体が22時間ぐらいでリズムを刻んでる気がする。夜,眠くなるのが早くて,朝,起きるのも早い。5時過ぎぐらいに目が醒めてしまう。おじいちゃんみたいだ。
Dvorak配列の練習を,まじめに始めた。練習日記をつけてみよう。
Dvorakとは直接関係がないけど,Ctrlキーを押すために酷使されすぎた左手の小指があまりに痛いので(文字を消したりカーソルを移動したり,とにかく何もかもCtrlキーで済ませる人なので),いよいよ何とかしようと思い立って,会社のキーボードは
KINESIS にしてみた。特殊キー以外は1,2時間も触ってれば慣れたけど,問題は親指あたりにあるキーたち。ふつうのキーボードだと親指はたいていスペースキーしか押していないけど,力強さとか器用さからいうと,親指はもっと活躍してもいい指というわけ。だから理屈からいうと,KINESISの配置は,まったく合理的。CtrlもAltもEnterも親指で叩くのだ。慣れるのにもう少し時間がかかりそう。
KINESIS用に,あれこれキー配列をカスタマイズしたついでに自宅のキーボードでも,スペースキーの左横のキーをCtrlキーにして,小指じゃなく親指で押すようにしてみた。これが驚いたことに,5秒で慣れた。いままで「小指が痛い,痛い,痛すぎる」と思いながらCtrlキーを叩いていた苦労は何だったのか。さっさと親指に肩代りをさせれば良かった。というか,今までこだわりを持ち続けていた,「左手小指のCtrlキー」が,こんなに簡単に変更できるものだったとは。慣れなんて,その程度のことなのか。
ホームページに手を入れようと思って,とりあえず
自己紹介ページ の書き換えから。内容の更新はほどほどにして,せっかくだから,ValidなXHTML 1.0,ValidなCSSで気持ち良く,と思ったら,これがなかなかクセモノ。Netscape CommunicatorのCSSのバグ(テキストの画像回り込み処理のバグか)のために,使う必要のないところでtableタグを使わなきゃいけなかったりする。美しくない! ま,どっちにしても自己満足なんだけど。W3Cのおすみつきマークをくっつけてしまった。IE5もw3mもLynxも問題なし。気になるのは,Mozilla M16が落ちること。あ,iモードだとどうなるんだろう。とかやってるうちに,またしても微弱な更新になってしまった。
2000/07/11(Tue)
高校15年生
「覚えていますか?」というサブジェクトでメールが届いた。思わず中身を読まずにいられなくなるような曖昧なサブジェクトのメールだけど,最近はこの手のジャンクメールも多いので,心の準備をしつつ(って,どんな準備だ),読んでみると,懐かしい高校のときの友達だった。一緒にバンドをやったこともあれば,朝まで酒を飲んだこともある,マージャンやったことも何度あるかわからない奴。でも,そういえば,卒業後は会ってない気がする。
画面の前で「おー」と声をあげて,即返信。東京で仕事してるらしいので,メシでも食おうぜ,とか。
公式ページよりも,はるかに注目度の高い,母校の高校の非公式のホームページには,生年月日や入学,卒業年から,自分が何期生か計算してくれるフォームが用意されていた。で,生まれた年を入れてみたら,すぐに41期生だと表示されて,さらに余計なことに「もし高校生活を今でも送っていたら,高校15年生です」と教えてくれた。15年生! どうりで巷の高校生が幼く見えるわけだ。
Dvorakと並行して直接漢字入力に挑戦。ローマ字入力に使われていないストロークで,400字強の漢字を入れるというD-code方式。たとえば,vjで「入」,quで「手」という漢字が入力できる。だから「vjqusuru」と打てば変換なしに「入手する」と打てる。とりあえずの変換表は
こんな感じ だけど,D-code作者によると(あ,D-codeは一般には未公開のようです),自分で使う字を自分が打ちやすい位置にどんどん割り付けていけばいいということだから,これはあくまで暫定。Dvorakに移行するつもりだから,そうしたら,記号キーなんかはうまく置き換えられないし。それに,この表は新聞記事からの頻度情報を元に作成されているので,「軍,蔵,派,県,銀」とか,いかにも社会,経済,政治面の記事に登場しそうな漢字がたくさん含まれている。ふつうのぼくが書く文章には,この手の字はほとんど出て来ないし,逆にぼくが良く使う「何,読」といった字が割り当てられてないから,自分で入れ換えるべしなのだ。
とくに仮名漢字変換だと嫌らしい「漢字」「感じ」の使い分けとか「書く」「欠く」の使い分けとかに威力を発揮しそう。
想像していたよりも,ストロークを指が覚えてくれるらしくて,いくらかうろ覚えの漢字を出すときに「こんな感じのストロークだったかな」と叩くと正しい字が出てくる。これは快感。20個ほどの漢字を覚えただけで,それだけでもかなり楽しく打てる(そりゃそうだ,ぼくが使う漢字のうち5個に1個ぐらいはその20字で打てるわけだから)。T-codeやTUT-codeと違って,練習なしで本番に使えるというのが良い。
久しぶりに読んだフィクション
『壊れゆく女』(アンヌ・フランソワ),
読了 。'97年ごろにベルギーの三大文学賞を取った作品とかで,だいぶ期待して読んだのに,いまいち。せっかく久しぶりに読んだフィクションだったのに。サイコ恋愛小説とでも言うんだろうか(あ,表紙には「roman psycho」と書いてあるな)。外面上はふつうでも,性的なトラウマを持つ,変質的な医者と,病に侵されて行く患者であり,美貌のバレリーナの2人。その2人の心の声のモノローグだけで物語は進む。「君を分解させてくれ。私は君に接近して行くよ。君の知らないうちに」。「彼は小エビの殻でも剥くように,私の殻を剥ぎとっていく。顔いろひとつ変えずに,私の精神の鎧をはがし,すべてをめちゃくにしてしまう」。扉に引用されてる言葉だけ見ると面白そうなのに。邦訳タイトルもうまいし,帯のキャッチもうまい。
フロムの本,最近改訂したそうです。
『自由からの逃走』(エーリッヒ・フロム),
読了 。10年近く読もうと思いつつ読まなかった本。なんで読まなかったかというと「フロム=現代思想かぶれの若造」という図式がぼくの頭にあったから。ある人が,「フロムね,むかしオレもハマったよ」と言ってるのを聞いて,ぼくの中でその図式が固まったのが10年前だった。もちろん『人間における自由』も読んでない。
それが,2年ほど前にたまたまタイトルにひかれてフロムの書いた『愛するということ』を手にしたら,一気にフロムのファンになってしまった。真摯な態度。ごまかしも曖昧さもない。鋭敏な問題意識,緻密な思考。それでいて平明な語り口。決して常識的な考え方なんて説いたりしないのに,ものすごい説得力。また読みたいなと思う本は少なくないけど,本当に繰り返し読んだ本は,最近ではこの本ぐらい。
そんなわけだから,読む前からフロムの主著である『自由からの逃走』には期待していたんだけど,まあその期待の結果は下のメモの量を見てもらえばわかったりして……。歴史を動かす力として,マルクスが経済的な社会構造を考え,ウェーバーが宗教,倫理,イデオロギーといったものを考え,そしてフロイトが人間の深奥に潜む性的な衝動を考えた。フロムは,そのどれか1つだけで説明するは間違いであるとしつつも,彼の分析は,あくまでも心理的側面に限定されている。ただフロイトと違うのは,社会的な心理を取り扱っている点と性的な抑圧だけでなく,他の抑圧された願望も等しく扱っている点。「社会的性格」という概念は,フロムがはじめて提出したものらしい。
近代資本主義社会,個人主義の時代。自由をおうかしているように見える現代人にとって,自由とは一体なんなのか。それが問題の出発点。人類は,政治的,経済的,社会的といったあらゆる外的な圧力から徐々に解放され,自由を手に入れた。それは一見,論をまたずに肯定されるべきことのように思えるが,はたして歴史上それが良かったのかというと,疑問の余地が残る。実は自由を積極的に享受できるほどに成熟していないのではないか。近代人は,かつて生活に意味と安定を与えていたすべての「絆」から解放されて,そのかわりに無力と不安にうちひしがれる孤独な個人となった。だから,近代人は自由を不安に,重荷に感じ,そこから逃げ出すように,権威主義的なモノにすがることが多く,そういう社会心理こそが,ナチズムをはじめとするファシズムが台頭する社会的土壌だったと,フロムは指摘する。ユダヤ人のフロムらしく,ナチズムの心理の分析にずいぶんページが割かれている。なるほど,ファシズムの根底にあるのは,サディズム的性格とマゾヒズム的性格なのか。
さまざまな社会的束縛からまぬがれて,歴史上,人間が自由になってから,まだそう時間が経ってはいない。それゆえに,フロムが「第一次的絆」と呼ぶ,個人と社会を結びつける紐帯,たとえば世襲制,奴隷制,封建制,専制などの社会システムから解放された「個人」という存在は自由を手にしながら,同時に孤独と不安にさいなまれることになる。人に安定を与えてきた,自然,氏族,宗教といったものとの合一はもはやない。原始人や中世ヨーロッパ人は,厳しい自然や社会システムのなかで,「飢えや抑圧に苦しむかも知れないが,あらゆる苦しみのなかでもっともつらい完全な孤独と疑いとに苦しむことはない」,とフロムは言う。
フロムが『自由からの逃走』を書いた1941年から翻って,現代のことを考えてみる。現代日本では,不況だの少年犯罪の凶悪化だのと言われながらも,実際に人々が感じている経済的安定感や社会的安定感は非常に大きい。加えて,個人に不安をもたらす要因となる,社会的,経済的な地位の流動性も少ない。この国ではうまく隠蔽されている気がする。アメリカのような弱肉強食の競争主義がない。実際には巨大なヒエラルキーがあるのに,人はみな平等である,自分は中ぐらいであるという幻想を持つことのできる社会。けれど,そんな安定した社会にあっても,個人の孤独,不安という問題は本質的に解決していないと思う。
と,感想を書こうと思ったけど,まったく頭の悪さを露呈するばかりの,まとまりのない文章になってしまった。面倒くさくなったので,気になったところだけ引用しておこう。と,思ったら長大な引用になってしまった。
個人は独りぼっちにされた。すべてはみずからの努力にかかっており,伝統的な地位の安定にかかっているのではない。
われわれの考えでは,かれ(宗教改革者のルター)の神にたいする関係は,人間の無力にもとづいた服従の関係である。かれ自身は,この服従は自発的であり,恐怖からではなく,愛から生まれるものだといっている。もしそうであれば,それは論理的には服従ではないということもできよう。しかし心理学的には,かれのいう愛や信仰が,実は服従であることが,かれの思想全体から明らかである。かれは意識的には,神への「服従」を自発的な愛にみちたものといっているが,かれは無力感と罪悪感にみちている。かれの神への関係は服従の関係にほかならない。(ちょうど,他人へのマゾヒズム的な依存が,意識的にはしばしば「愛」と考えられているように)。
ルッターに見られるような,確実性への強烈な追求は,純粋な信仰の表現ではなく,たえられない懐疑を克服しようとする要求に根ざしている。
ルッターの「信仰」は,自己を放棄することによって愛されることを確信することであった。それは国家とか「指導者」にたいし,個人の絶対的な服従を要求する原理と,多くの共通点をもつ解決方法である。
(キルケゴール,ニーチェ,カフカなどを引用して)しかしこれらの思想家がえがいたような,またいわゆる神経症患者が感じているような,この個人の孤独と無力の感情を,一般の普通人はまったく意識していない。それはかれらにはあまりに恐ろしすぎるのである。それは毎日の型のような活動,個人的また社会的な関係においてみいだす確信と称賛,事業における成功,あらゆる種類の気ばらし,「たのしみ」「つきあい」「遊覧」などによって,おおいかくされる。しかし,暗闇で口笛を吹いても光はあらわれない。孤独や恐怖や混迷は依然として残る。ひとはいつまでもそれにたえることはできない。かれは「……からの自由」の重荷にたえていくことはできない。かれは消極的な自由から積極的な自由へと進むことができないかぎり,けっきょく自由から逃れようとするほかないであろう。現代における逃避の主要な社会的通路はファシスト国家におこったような指導者への隷属であり,またわれわれ民主主義国家に広くいきわたっている強制的な画一化である。
マゾヒズム的努力のさまざまな形は,けっきょく1つのことをねらっている。個人的自己からのがれること,自分自身を失うこと,いいかえれば自由の重荷からのがれることである。
個人的自我を消滅させ,たえがたい孤独感にうちかとうとする試みは,マゾヒズム的努力の一面にすぎない。もう1つの面は,自己の外部の,いっそう大きな,いっそう力強い全体の部分となり,それに没入し,参加しようとする試みである。その力は個人でも,制度でも,神でも,国家でも,良心でも,あるいは肉体的強制でも,なんでもよい。ゆるぎなく強力で,永遠的で,魅惑的であるように感じられる力の部分となることによって,ひとはその力と影響にあやかろうとする。ひとは自己自身を屈服させ,それのもつすべての力や誇りを投げすて,個人としての統一性を失い,自由をうちすてる。しかしかれは,かれが没入した力に参加することによって,新しい安全と新しい誇りとを獲得する。またかれは疑惑という責苦に抵抗する安全性も獲得する。マゾヒズム的人間は,外部的権威であろうと,内面化された良心あるいは心理的強制であろうと,ともかくそれらを主人とすることによって,決断するということから解放される。すなわち自分の運命に最終的な責任をもつということから,どのような決定をなすべきかという疑惑から解放される。かれはまたかれの生活の意味がなんであり,かれがなにものであるかという疑惑からも解放される。このような問題は,かれが結びついている力との関係によって答えられる。かれの生活の意味やかれの自我の同一性は,自身が屈服したより大きな全体によって決定されるのである。
他人(あるいは他の生物)を完全に支配することの快楽,これがサディズム的衝動の本質である。
:::苦痛を与えることは手段であり,本質ではない。
しかし心理学的には,この2つ(サディズム,マゾヒズム)の傾向は,1つの根本的な要求のあらわれである。すなわち孤独にたえられないことと,自己自身の弱点とから逃れでることである。
権威主義的性格のもつ勇気とは,本質的に,宿命やその人間的代表者や「指導者」などが決定したことがらを,たえしのぶ勇気である。
かれの信念は結局かれの疑惑に根ざしており,その疑惑を補償しようとしている。
権威主義的哲学は,どんなにはげしく相対主義を克服した主張し,それを行動にあらわしているとしても,それは本質的に相対主義的であり,虚無的である。それは極端な絶望や,完全な信仰の喪失に根ざしており,ニヒリズムと生命の否定とをみひびく。
逃避のメカニズム
個人の外部の圧倒的な力に比較して感じられる自己の無意味感を克服するために,自己の統一性を放棄する
外界がもはや脅威的なものとならないように他者を破壊する
外界から完全にしりぞいて,外界が脅威を失うようにする
自己を心理的に拡大して,外界を相対的に縮小する
これらは個人の心理では重要だが,文化的にはたいした意味をもっていない。
・個人が自分自身であることをやめる
これが現代社会において,大部分の正常なひとびとのとっている解決方法である。文化的な鋳型によってあたえられるパースナリティを,完全に受けいれる。そして他のすべてのひとびととまったく同じような,また他のひとびとがかれに期待するような状態になりきってしまう。「私」と外界との矛盾は消失し,それと同時に,孤独や無力を恐れる意識も消える。このメカニズムは,ある種の動物の保護色と比較することができる。かれはその周囲の状態にまったくにてしまうので,周囲からほとんどみきわめがつかない。個人的な自己をすてて自動人形となり,周囲の何百万というほかの自動人形と同一になった人間は,もはや孤独や不安を感ずる必要はない。しかし,かれの払う代償は高価である。すなわち自己の喪失でる。
孤独を克服する「正常な」方法が,自動人形になることであるという仮定は,われわれの文化のうちにもっとも広くいきわたっている人間観と矛盾する。われわれの大部分は,自分の思うままに自由に考え,感じ,行為する個人であるとみなされている。たしかにこれは,近代の個人主義の主題について,一般にいわれる意見であるばかりでなく,各個人も自分は「自分」であり,かれの思想,感情,願望は「かれのもの」であると,真剣に思いこんでいる。たしかにわれわれのあいだには,本当の個人もいるが,しかしたいていの場合,この信念は1つの幻想である。しかも,この信念は,このような事情の原因である諸条件を撤去することを妨げるものであるから,危険な幻想なのである。
批判的思考の抑圧は幼少のころにはじまる。;;にせの思考。
思考や感情についていえることは,また意志についてもいえる。多くのひとびとは,なにかをするときに,外的な力によって明らかに強制されないかぎり,かれらの決断は自分自身の決断であり,なにかを求めるとき,求めるものは自分であると確信している。しかし,これはわれわれが自分自身についてもっている1つの大きな幻想である。われわれの決断の大部分は,じっさいにはわれわれ自身のものではなく,外部からわれわれに示唆されるものである。決断を下したのは自分であると信ずることはできても,じっさいには孤独の恐ろしさや,われわれの生命,自由,安楽にたいする,より直接的な脅威にかりたてられて,他人の期待に歩調を合わせているのにすぎない。
独創的とは,……ある考えが以前にだれか他人によって考えられなかったとうことではなく,それがその個人のなかではじまてちるということ,すなわちその考えが自分自身の活動の結果であり,その意味でかれの思想であるということを意味する。
;;独創的思考能力を阻害するもの。教育,社会的キンキ。すべての真理を相対的なものとみなすこと。
……一般の成人に残されている独創的な思考能力を,すべて積極的に混乱させようとする他の要素がある。個人生活や社会生活のすべての根本的な問題について,また心理的,経済的,政治的,道徳的な問題について,巨大なわれわれの文化は1つの特徴をもっている−−−すなわち問題をぼかすことである。その煙幕の1つに,問題があまりに複雑で普通の個人には把握できないという主張がある。事実はその反対に個人生活,社会生活の根本問題は,たいてい非常に単純であり,だれでもがそれを理解することを期待できるように思われる。それらが非常に複雑で,「専門家」だけが,しかもかれの限られた領域においてだけ理解できるというようにみせかけることは,じっさいは−−−しばしばある意図をもって−−−本当に問題となっていることがらにたいする,自分の思考能力の自信を失わせることになる。個人は混沌とした多くのデータにとりかこまれながら,無力をかこち,専門家がなにをなすべきか,どこへいくべきかをみつけだすまで,憐れな忍耐力でまちつづけている。
このような影響は二重の結果をもっている。すなわち,1つは聞くこと読むことすべてにたいする懐疑主義とシニシズムであり,他は権威をもて話されることはなんでも子どものように信じてしまうことである。このシニシズムと単純さの結合は近代の個人にきわめて典型的なものである。その本質的な結果は,かれが自分自身の思考や決断をおこなう勇気を失わせることである。
批判的な思考能力を麻痺させるもう1つの方法は,世界について構成された像をすべて破壊することである。さまざまの事実は,それがくみいれられた全体の部分としてのみもつことのできる特殊な性質を失い,たんに抽象的な量的な意味しかもたないようになっている。それぞれの事実は他の事実とまったく同じものであって,問題はわれわれの知っていることが多いか少ないかとういことだけである。………われわれは興奮することがなくなり,われわれの感情や批判的な判断は妨害され,ついには世界でおこっていることがらにたいするわれわれの態度は,平板な無関心な性質のものとなる。「自由」の名のもとに生活はあらゆる構成を失うのである。それは多くの小さな断片から作られ,それぞれがたがいに分離し,全体としての感覚はみじんもみられない。個人はちょうど積木をもった子どものように,これらの断片をもってひとりぼっちにされている。しかしちがっているのは,子どもは家とはどんなものであるか知っており,したがってかれが遊んでいる小さな断片にも家の諸部分をみつけだすことができるのに反し,大人はその「断片」を手にしながら,「全体」の意味がわからないのである。かれは途方にくれ,不安になり,その小さな無意味な断片をみつめつづけているだけである。
独立と自由は孤独と恐怖と同じことであろうか。あるいは,個人が独立した自我として存在しながら,しかも孤独ではなく,世界や他人や自然と結びあっているような,積極的な自由の状態があるのだろうか。
われわれは,……人間は自由でありながら孤独ではなく,批判的でありながら懐疑にみたされず,独立していながら人類の全体を構成する部分として存在できることを信じている。
もし個人が自発的な活動によって自我を実現し,自分自身を外界に関係づけるならば,かれは孤立した原子ではなくなる。すなわち,かれと外界とは構成された1つの全体の部分となる。かれは正当な地位を獲得し,それによって自分自身や人生の意味についての疑いが消滅する。この疑いは分離と生の妨害から生まれたものであるが,強迫的にでも自動的にでもなく,自発的に生きることができるとき,この疑いは消失する,かれは自分自身を活動的創造的な個人と感じ,人生の意味がただ1つあること,それは生きる行為そのものであることをみとめる。
新しい安定は……,人間の自発的な活動にもとづいている。それは人間の自発的な活動によてt瞬間ごとに獲得される安定である。それは自由だけがあたえることができ,……まぼろしを必要としない安定である。
自我の実現としての積極的名自由は,個人の毒自制を十分に肯定する。
自我の独自性はけっして平等の原理と矛盾しない。
「自発的な愛と仕事」。それが『愛するということ』でも『自由からの逃走』でも,フロムが一貫して主張していること。
2000/07/12(Wed)
また会う日まで
終電までまだ少しあるという時間,新宿アルタ前の広場で,尾崎キヨヒコの「また会う日まで」を熱唱する男女のデュオを見かけた。きっと酔っ払いオヤジにリクエストされたのだろうと思ったけど,突然歌ったにしてはうますぎる。高く,力強い歌い声の女の子がメロディーを歌い,ややハスキーながらもしっかり響く声で,男の子が上手にハモっていた。2人ともビブラートの使いかたが似ていて,いい感じのハーモニー。音楽のできる人がうらやましい。足をとめて,しばし聞き入る。
ひょんなことでメールをやりとりするようになった,某プロバイダ系の人と新宿でカレーを食べる。ぼくより5歳も若い女の子! ォォォ。ホームページからうかがえる人となりは,現実世界でも,ほぼそのまま。あんまり「はじめまして」という感じもなく,あれこれとおしゃべり。こういうのも新鮮でいい。
かつて受けた知能テストでは,ぼくは他の能力に比べて空間把握能力が高いという結果だったのに,泣けてくるほど方向音痴なのはなぜだろう。決定的に,脳味噌のどこかに欠陥がある気がしてならない。新宿からの帰り道,いつもと1本違う道を走り,適当なところで曲がって走って,曲がって走って,もう1度曲がったくらいで,もう自分がどっちのほうを向いてるのか分からなくなる。暗いうえに,最近視力がまた落ちたから,標識その他が見えないことも大きいけど,それにしても自宅から10分圏内で迷子になることの情けなさ。うねうねと走る,はじめて見る商店街。夜の住宅街はどこも同じようにしか見えない。商店街の名前や地名を見ても,杉並区なんてところでは土地カンがないので,やっぱりわからない。後で調べたら,和田という地名は,まさにぼくが住んでる方南と隣接しているあたりのことだった。むむむ……。
2000/07/17(Mon)
日本の女がきれいです
創刊以来20年近い読者でもあるライターさんとの打合せが,雑談モードに入って長引いてしまった。でも,いろいろと面白い話を聞けたのでよしとする。夜,バイト君を誘って軽い食事がてらにビールでもと思ったら,結構食べてしまった。それより,ちょっとだけと思っていたのに長話ししてしまった。あぁ。不毛な長話し。でも,楽しいんだよな,そういうのが,また。なんだ,1日しゃべったり聞いたりばっかりじゃん。パソコンおたくで良かった。パソコンの話ばっかりしてられる。で,仕事はいつするんだね,君って感じ。
14日はフランス革命の記念日だなと思って,久しぶりにパリのアラン君にメールを送ったら,さっそく返事が来た。去年日本に遊びに来たときのことを懐かしがって,メールにmiss japan書いてるので,そうじゃなくて,miss your girlfriend in japanじゃないのかと,それとなくカマをかけてみたら,「iie, chigai masu. demo, nihon no onna ga kirei desu.」と返事を書き送って来た。思わず,大笑いしてしまった。だって,「日本のオンナがきれいです」だよ。オオウケしたことをメールに書いたら,「なんで笑うのか,何が間違ってるのか教えてよ」と言って来た。
で,考えてみたんだけど,これがむずかしい。「おんな」という単語の使いかたを外国人にどう説明するかね。とりあえず,ぼくなら「日本の女の子はきれいだよね」と言うかな,と教えはするけど,「女」と「女の子」の巨大なニュアンスの違いは,どうやって説明すればいいのか。いくらでも例はあげられるけど,端的に両者の違いを説明せよと改めて言われると,すごくむずかしい。ぼくが持った印象は,「オンナ」って言うのは田舎の不良? マチズモ? ますらおぶり? ともかく,ちょっと性差別的な感じなんだよね,きっと。「おんな」という言葉はとうぜん「おとこ」を想起させるわけだけど,どうもこの2つの単語は,今となっては必要以上に性別を峻別してる気がする。もちろん文脈によるし,使う人にもよるけど。あー,girlfriendの意味で「オンナ」というと,ぼくの中では矢沢エーキチのイメージなんだよな。
あれこれ考えて,一般論として「女」より,「女の子」を使ったほうがいいよと,アドバイスしようと思ったけど,30歳すぎた女性に「女の子」と言うのはナンだし,セクハラ発言にもなってしまいかねない。でも,そうすると「女性」という言葉も必要になって,ますます使い分けがむずかしくなる。まあ,フランス語のtuとvousの使い分けだって,外国人に説明するのは,相当むずかしいことなのだと思うけど,日本語の人称関係の語彙の使い分けはけっこうむずかしい気がするのだ。正確には「女」や「女の子」は,人称名詞ではないんだろうけど。
2000/07/19(Wed)
押し流されそうな1日
チーム全員で行くはずだった取材を1件パスして,午後はM社の記者向けブリーフィングに参加。まあ,技術お勉強会ですね。セールストークのケムに巻かれないように,注意注意。
おお,そーゆー戦略だったのか。そーゆーテクノロジーだったのか。そーゆーコトを考えてたのかっ! と,ちょっとわくわくする。感情的には好きになれないM社だけど,やっぱり考えることがスマートだわね。しゃべった人も,みんなスマートな印象。戦略全体の規模はとてつもなくでかいし,壮大な未来像ではあるものの,この会社のヒトたちだったら,ほんとにやっちゃうかも,とも思う。金も人材もうなってるしな。M社の人は,180度の戦略転換だと言ってたけど,転換せざるを得ないことは,もうずっと前にわかっていたし,転換の具体的な兆しは2年以上前からはっきりと現われてはいた。そういう意味ではいまさら大騒ぎするほどのことをぶちあげてるわけでもない。でも,戦略転換がサクッとできるほど,もはや小回りの効く会社じゃないという,外野の予想はまったく裏切られたわけで,巨躯のわりに,永遠の技術志向ベンチャーなのかもしれない。計画の全体像の緻密さに,「いよいよ本気だな」と感じたわけです。で,1ユーザーとしては,CORBAでもSOAPでもいいけど,さっさとネットワーク分散オブジェクトな時代になってほしいと思う。でも,肝心のサービス発見プロトコルが,SCLなのかJiniなのかとか,そこらへんがまだまったく見えてない状況らしい。
ともあれ,向こう5年とか10年スパンの話に,すっかりその気にさせられてしまう。きっと10年後,どうして10年前はコレがなくて生活できたのだろうと不思議に思うような,柔軟で多様なネットワークサービスの利用環境が整っていることになるだろう。その時代にM社が残っているかどうかは別として。もうね,Me特集なんてやってる場合じゃないと個人的には思うのだな。だってさ,「誤解を恐れずにいうなら,Win32 APIを捨てる」と言ってるんだよ,M社は。
夜は特集の打合せ。力わざ企画で,もう処理,処理,処理って感じの作業作業作業。というほどでもないけど,結局,夜0時過ぎまでかかる。とかやってたら,今日も原稿を書く時間がとれなかった。
2000/07/20(Thu)
歌のうまい女のヒトに弱い
小野リサ,いーね。イパネマの娘,いいね。もうメロメロかも
海の日。うちで冷房をガンガンかけながら,調べごとをしていたら,InterFMから小野リサのライブの声が聞こえて来た。恵比寿ガーデンプレイスでライブをやってるらしく,その模様はストリーミングで流してるというじゃないかっ! 以前だったら,そんなもの,わざわざアクセスしたと思わないけど,いまやウチはくさっても常時接続環境。目の前のパソコンをWindowsに切り替えて,ソッコーでURLを打ち込む。
InterFMのサイト にアクセスしてみると,ストリーミングに使われてるのは,QuickTimeだった。が,なぜかぼくのWindowsにはQuickTimeが入ってたのだな(ふつー,入ってないよね,Realは入ってても)。どきどきしながら画面が出るのを待つ。そういえば,小野リサが動くのって,もう長らく見ていない。
ストリーミングの画像と音声が流れ出すと,どうもラジオの音声より10秒ぐらい遅れて届いてる。まあ,そこそこのクオリティだったのでラジオのほうは消して,ブツブツなグラフィックで動く画面に見入り,PCのスピーカーから聞こえるノイズが乗りまくった声に聞き入る。ところがこれがね。いーんだよ!
たんに小野リサがよかったのかもしれないけど。スタンゲッツと誰かさんの(たぶん)有名なボサノバのアルバムがあるけど,あれに入ってた,なんとかという曲(情報量ゼロ)とか,すごくいい感じ。スティービー・ワンダーの"You are the sun shine of my life"もいい。イパネマの娘も,当然のように歌ったけど,もうメロメロかも。小野リサって,こんなに可愛い人だったかねって思った。ぼくは歌のうまい女の人にめちゃくちゃ弱いという自覚はあるけど,微笑みながら歌われた日には,もうガクガクと崩れるように惚れてしまうのです。わーー,どうしようこのかすれた低音,かすかなしかめつら! いたずらっぽい笑み! 64kbpsのストリーミングでも,ちゃんとリップシンクしてて,エクボのできぐあいも見える。うーん,ナニ言ってんだ,ぼくは……。でも,このライブ感はラジオにはないよ。たぶんテレビでもない。こぢんまりしたね,なんかこうすぐそばでやってる感じ。ストリーミングメディアって,オーディエンスが少ない分,見てる人の「見てる」という意識が高いのかもしれない。チャンネルを合わせるより,はるかに積極的な行為だからね。
30分ほどのライブ中継。恵比寿なら,直接行くこともできたなぁとか思うけど,こうやってストリーミングしてくれると,いいよね。ダイヤルアップしてまで見るかというとと,ちょっとわからないけど,目の前にネットにつながった端末があれば,見るよね。そこだよね。
夕方に出社して,日付が変わるまでに原稿を2本書き上げる。関係ないけど,
鈴木重子 が気になる。チェット・ベイカーのような例外はあるけど,そういえばぼくの延髄にダイレクトに響く声を持つボーカリストはみんな女性だ。カレン・カーペンター,美空ひばり,吉田美和って,ぼくの中ではすごく似てて,アルファ派系のゆったりした低音のビブラートを持っている。こいうのを男性で持ってる人って,ぼくは知らない。
2000/07/21(Fri)
朝8時の秋葉
取材で朝8時の秋葉原へ! なんと朝の秋葉原では,野菜が売られてるんだ! でかせぎっぽいおじさんが,新鮮な野菜を,電気街で売ってるんだ! しらんかったよ! いやはや世の中知らないこと,ば・か・り。深夜の秋葉も知らないけど,朝の秋葉も初めてだったのだ。
午前中の取材はばたばたあわただしく。午後は,あれしてこれしてナニをしたらもう夜だった。ぶひ。日付が変わるころにすごすごと退社。
最近なんとなくバナッハ・ニシムラというニックネームを使うようになったら,けっこういろんな人から,「バナッハって何?」と聞かれるようになった。ので,いちおう説明。というか,自分でも初めてちゃんと調べたので,URLのメモ。Stefan Banachというのは,今世紀はじめに活躍したポーランドの数学者の名前です。
「球が1つあります。これを適当な断片にばらばらにして,再びそのパーツを組み合わせます。うまく組み合わせると,元の球とまったく同じサイズの球を2つ,作ることができます」。下手な手品のような,そんな一見不合理なことが確かにできると証明したのがバナッハと,パートーナーのタルスキーという数学者。バナッハ・タルスキーの定理と呼ばれる現代数学の定理ということらしいんですね。去年の日記にも
書いた けど。ちょっとWebで検索してみたら,バナッハの生涯について
書かれた本 もあるし,
バイオグラフィー もある。独学で数学を勉強した人だったのか。パートーナーのタルスキーのバイオグラフィーは
ここ 。で,バナッハ・タルスキーの定理について解説された本としては,
こんなの があるみたい。さらに,この定理の概要をまとめた講義メモが,
ここ にあります。バナッハの顔ってはじめてみた。
で,なんでそのバナッハという名前を拝借したのかというと,ちょっと響きがバカっぽいから。ばなっはっはー,とかいえば,大橋巨泉みたいでしょ。
2000/07/23(Sun)
体温とは欲望しない退廃的な熱情である
10年ぐらい前の古い雑誌を見ていたら,コンピュータを使った言葉遊びの話がのっていた。「(名詞)とは(形容詞 or 形容動詞)(名詞)である」,という単純なルールだけで,あとは辞書に載っている言葉をどんどん当てはめてランダムに文章を作っていくと,結構意味深な近代フランスのモラリストばりのアフォリズム文学っぽいのがたくさんでてきて,おもしろい。で,今日のタイトルは,その意味がありそうで全然意味がないのを真似してみただけです。意味はないけど,なんかバランスの崩れ方がおもしろい。って,喜んでるのはぼくだけか。「女とは,雷のような書物である」「食事とは,広々とした自転車である」「日常とは,未熟な郵便ポストである」。けっきょく,暗喩というのはすべて,こういうストレートな構造を持っているわけで,何でも言いたいように言えるってことだな(違う)。
暑い! 今日の東京は最高気温36度! 都心のアスファルトの上の空気は体温をはるかにうわまわってたんじゃなかろうか。うーん,絶対そうに違いない。バイクでスピードを出せば出すほど,サウナっぽい熱気が身体をつつんだもん。でも,そんな猛暑もあんまり関係なく,冷房の効きすぎた会社へ。空腹を忘れるほど,シュクシュクと単純頭脳労働にいそしむ1日。
直観に反するバナッハ・タルスキーのパラドックスを示したとき,バナッハの気持ちとしては,「それみろ,選択公理なんて認めると,こんなヘンテコなことが起こるんだぞ」というものだったらしい。
2000/07/30(Sun)
役立たずのリマインダー
切れた電球のタマと,切れかけのトイレットペーパーの芯を,玄関のスニーカーに突き刺して,昼過ぎに出社。買い忘れるなよ,というリマインダーなんだけど,これが役に立たない。立つはずもなくて,それらを発見するときには,すでに冷奴とビールの入ったコンビニ袋を手に,帰宅した瞬間なのだから。さすがに,それらだけのためにもう1度コンビニに行く気にはなれない。コンビニがリマインダーサービスをやってくれればいいのに。こんな感じ。iモードで買物しておく。紙が切れかけと気づいたトイレの中から。すると,夜,帰宅前に立ち寄ったコンビニで,「ほい,切れかけてんでしょ」と,紙を手渡される。はぁ。
KINESISキーボード にしたのと,CTRLキーを左手小指で押すのを止めたことで,指の痛みがまったくなくなってきた。KINESISね,ちょっと使っただけじゃわからないけど,確かにいい気がする。疲れてないもん。まったく。いま,自宅では
HHK Liteキーボード (超コンパクトな可愛い奴)で叩いてるけど,肩幅の広さで自然に構えられるKINESISに比べたら,やっぱり断然無理な体勢で打っていて,もう腕がだるくなってきてるもん。
通信販売の「○○社のソバガラ枕に変えたら,ぐっすり眠れて,昼間の仕事も快調」みたいなセリフじゃないけど,KINESISにして原稿もばかばかはかどるようになった気さえしてくる。親指で力強く叩くEnterキーが気持ちいい。
と,極めて快調に原稿を書き進んでいたら,同期のカワダマから電話。プチ同期会に誘われてたんだ。すぐに仕事を中断して,四ツ谷駅前のカプリチョーザへ。お久しぶりの人も。メイントピックはウマヤンの彼女,ナリタマちゃん謁見。むむ,可愛い人じゃん。しあわせそうな2人。ほっといてもノロけそうな2人なのに,カワダマがしきりに突っ込む。1人芝居で2人の出会い,なれそめ,初エッチまでを再現演技。テンション高い時のカワダマはパロディの天才だね。大笑い。当人たち,照れながらも,部分的にドキッとしてたと思うな,個人的には。「気づいたら,隣に寝てた」とか,ふつーゆーかね。わはは。
日曜日,宵の口の都内はガラガラ。バイクが気持ちいい。パスタをたらふく食べて編集部に戻ると,暴力系(外見)のデスクに「原稿。早く。今日中ね。10分で書けるよね」と,ぎろっと睨まれる。こわい。うちの編集部には珍しい体育会系のこのデスクが来てから,全体に引き締まった感じでいい感じ。書きかけの原稿をものすごい勢いで仕上げて,さらにもう1本,瞬時に終らせる。原稿を持って行ったら「えっ,早いね」とデスクは言った。ふふふ,KINESISキーボードのおかげです,とは言わない。
入校作業も校正作業も,バリバリ進んで快調,快調。いやぁ,はかどってる時って仕事なんて楽なもんだね。一気にゴールが見えつつ,校正をファクスして帰ろうとしてたら,バイトのNが原稿を持って来た。「急ぎ?」「いえ,まあ」「いつまで?」「朝までに見ていただければ」「ほぉ……」。というわけで,若干頭がくらくらするような不細工な文章と,サービス精神の欠落した不明瞭な説明の仕方に教育的指導のアカを入れていたら,結局,仕事が終ったのは4時すぎ。
アルチュール・ランボーが,捉えがたい時間と言って繰り返し詩に描いた夏の黎明。この時間,都会は都会で美しい。オレンジ色の朝焼けの中,神殿の廃虚のように青白く浮かび上るビル郡。薄紫色の金属光沢を放つガラス張りのビルの曲面に,隣のビルの影が,巨大でシャープな美しい曲線を描く。爽涼蒼白のアスファルト。高速道路と街路樹のすき間からこぼれ落ちて来る朝陽。眠たげなタクシーの残す,かすかなエンジン音と暖かなトルエン臭。まだらな気温の空気の中を,バイクで駆け抜けるのは本当に気持ちがいい。
2000/07/31(Mon)
失われしウナギを求めて
立秋が8月8日で,その前の18日間。いわゆる,土用ですな。というわけで,人並にウナギを求めて,いざオペラ・シティの最上階へ。ゲラ待ちゲラ待ち。時間たっぷり。
アップルの記事書きからアップルに転職したF島さんに,久しぶりにバッタリ。近くにいるのに会いませんねぇ〜などと話しているうちにエレベータは,ひゅーうぅーんっと53階まで。18階あたりで降りるF島さんに「ぼくらウナギ食べに行くんです〜」と言ったら,F島さんは「お,いいねっ」と答えたのに……。
ウナギなんて,どこにもないやんかっ。上にウナギがいる,と自信マンマンに言ったSヤンもSヤンだけど,F島さんだって,毎日働いているビルなんだから「お,いいね」じゃなくて「ん? ウナギなんてあったっけ」とか答えてくれても良さそうなもんなのに。ひょっとしてアップル社員も最上階系はソエン? 地下のトンカツ専門? え,そーなの?
口がウナギになってしまった3人でオペラ・シティの中を彷徨する。もう焼肉でもカレーでも納得できないわけよ。ウナギの出前を断ってまで,でばってきた手前。と,気合いの割に,バイトのU山君はサンダルばきだ。なんで,うちの会社のバイトってサンダルで出社するかね,しかし。
3階にある,ちょっと気取った日本料理屋でビンゴ。あったわあったわと,喜びいさんで入ると,すでに編集部の人間がいた。土用のウナギって,いつからの習慣? もしかして,ぼくらって商魂タクマシいウナギ屋に踊らされてるだけ? んなことないか,土用のウシの日にウナギを食う習慣って,江戸時代ぐらいからあるんだよね,きっと。全然関係ないけど,最近,IWC(国際捕鯨委員会)関連の話題がおもしろい。関西出身のぼくとしてはハリハリ鍋が好きだし,給食に出たクジラのタツタ揚げにノスタルジーを感じるけど,日本の食文化に鯨はなくてはならないって感じではないよな,いまさらっていう。捕鯨問題は,いまや国際政治の道具と化し,環境活動家の私服肥しのネタとなりはててるらしい。クジラをめぐる国同士の衝突。あ,まぁそんなことはどうでもいいや。
ところで,イルカもシャチもクジラ目に分類されてて,生物学的には彼らはおんなじなんだぞ,とここでもう1度ぼくは主張しておきたい。4m以上の体長があるものをクジラと呼び,それ以下を習慣的にイルカと名付けてるだけで,ハクジラとイルカはおんなじジャンル。なんでこの話をすると一笑に付されるのかワカランのだ。理不尽なり。今日も嘘つけって顔で笑われた。ある女の子に「けんちゃんって,イルカみたい」と言われて以来,自分ではすっかりイルカのつもりになっているぼくとしては,イルカのことはイルカに聞いてほしいと思ったり……。ふぅ。ぼくってなんかいつもとテンション違う? やっぱり? うん,そう思う。でもね,イルカってものすごい褒め言葉じゃん。賢くて,人なつこくて,やさしくて,つるつるしてて,ぴちぴち元気に泳ぐし,好奇心旺盛な遊び好き。イルカちゃんになりたいよ。
………。でまあ,その初めて足を踏み入れたお店。ウナギ食えました。テンプラ,おいしうございました(モンゴイカ,おいしうございました,と遺書に書いて自殺した文筆家は誰だったっけ)。いや,うまいのはうまいんだけど,2500円の「牡丹膳」で1人3000円チョットの支払い……。なんでふつうの時間帯なのに,20%もサービス料を取るんだ!? いまどきビジネス街で,そんな店ってあるか? たいした店でもないくせに,ふんっ。お高くとまりゃーがって。んーなことだから,客がいないんだ。
それと。関西と関東で,ウナギの蒲焼きって全然違って,関西って蒸さないでしょ。ぼくはアレのほうがいいと思うんだな。あと,ウナギの握り寿司。アナゴなんてすかすかのモン食えるかって,関西人としては思う。いや,関西に行くことがあったら是非ウナギの握り,食ってみてよ。ホントうまいから。
仕事はパラパラとスダレのように進行。追加原稿を書いたり,校正したり。23時すぎ,今日はここで区切りと思って,だべっとしてたら,バイトのTが原稿を寄こしやがった。まじめに目を通すと,時間はかかるしクラクラくるしで,ゲンナリした気分で読み始めたら,これが意外にイイ。まともな原稿になってるじゃん。成長ぶりに思わず目を細める。
NISHIMURA Ken <nis@bigfoot.com>