the other side of my days
ご意見,ご感想,ごいちゃもんなどございましたら
NISHIMURA Ken <nis@bigfoot.com>まで。


2000/05/01(Mon) With whom?
2000/05/02(Tue) 終わった
2000/05/03(Wed) いとこと
2000/05/04(Thu) それぞれの
2000/05/05(Fri) 初めての2人乗り
2000/05/07(Sun) 知の欺瞞
2000/05/08(Mon) 年上年下
2000/05/09(Tue) 引っ越し
2000/05/10(Wed) 砂漠
2000/05/11(Thu) 恋愛における共犯というスキーム
2000/05/12(Fri) Last Flight
2000/05/13(Sat) ジョージ・ユーロ
2000/05/14(Sun) 久しぶりの雨
2000/05/15(Mon) 体調不良
2000/05/16(Tue) 南半球のネット友達
2000/05/18(Thu) 2冊目のフェルマー
2000/05/25(Thu) 恐ろしくメールがたまっていた
2000/05/26(Fri) 外食時にメニューで迷わない方法
2000/05/27(Sat) 反省
2000/05/28(Sun) あれこれキーボード
2000/05/29(Mon) 24×4を100と答えるイギリス人
2000/05/30(Tue) 新聞配達


2000/05/01(Mon)

With whom?

ちょっと気になる数字。たまたま,ある調査をWeb上でみかけて,それによると「誰と一緒に旅行がしたいか」という質問に対してアメリカ人の58%は「配偶者」と答えてるんだよ。「子ども」と答えた人が34%で,「友達」と答えた人が18%。これってすごいことだと思って。日本で同じ質問したとして,はたして女房や旦那と旅行がしたいって答える夫婦がどれくらいいるかね。
歴史上,文明が亡びる直前には離婚率が上がるなんて話もあったりするみたいけど,ともかく今のアメリカって離婚社会でしょう。それがリベラルだとかモダニズムだとか言うつもりはないけど,やっぱり,どっか突き抜けてるところがあるのも確か。
で,離婚率が高いってことは,仮面夫婦の数が相対的に少ないってことで,ラブラブ夫婦が多いってことじゃないかと単純に思ったわけ。
「愛のあるところ,家族をあらしめよ」。そう言ったのは有島武郎だったかな。続けて言った言葉は忘れたけど,愛のないところに家族を存続させるなということだった気がする。永続的な家族というものが,子育てのための有効なユニットだった時代は部分的には終わっているのだから,日本でも,もっと離婚率が上がってもおかしくないと思う。

2000/05/02(Tue)

終わった

2日の夜8時に出社。ビル前でばったり会ったボスと,そのまま新宿へカレーを食べに行く。10時,今度こそ出社。あとはさらっとで終わる仕事だと思っていたのに,なんと朝9時になるまで校正が出なくて,結局全部が終わったのは午前11時前。待ち時間の間,信じられないぐらいの時間,おしゃべり。
でも,ともかく今月も仕事が終わった。さて,ゴールデンウィークだ。いつもなら感じる,仕事が終わったときの解放感がないのは,なぜだろう。

2000/05/03(Wed)

いとこと

夜7時の待ち合わせに,寝坊して1時間も遅れてしまった。ひさしぶりに会うイトコのショーカイと渋谷でビール。ぼくよりほんの一歩だけ先に30歳になっていたショーカイは,ちょっと太っていた。いつの間にか日本国籍になってたのは,日本企業の海外部門で仕事をするには,日本国籍があるほうが楽だかららしい。半分台湾の血を引くパパは,ちょっと寂しがったらしい。まあ,日本国籍になったと言っても,もともと見た目は香港系日本人というような顔で,つまりぼくとかなり似てるけど。
男も30にもなればいろいろ考えるもので,お互いにあれやこれやと打ち明け話とも相談ともヨタ話ともつかない話をする。

2000/05/04(Thu)

それぞれの

5時半の待ち合わせなのに,はっと目が醒めると5時24分で,また寝坊したかと思ったら,まだ朝の5時半だった。お腹が空いたのとお酒が抜けたのとで目が醒めたらしい。朝,白いごはんと納豆がおいしいときは,調子がいい。経験的に。
10時ごろに少しぼんやりして,何もする気が起きないので,ちょっと横になって寝ようと思ったら,すっかり眠ってしまったらしい。はっと気づくと,また5時24分。どうなってるんだと思いつつ起き上がると,今度こそ夕方だった。
相変わらずね,と笑う彼女は,遅刻常習犯のころのぼくしかしらない。学生時代,ぼくはいまよりもっと怠惰で不規則な生活を送っていた。もう6年も7年も前の話。
ひとしきり,何度繰り返したか分からない昔話と,他愛のない現在のこと,それから,それぞれの未来のことを話し終わると,夜は早めに別れる。自分たちの昔話をするというところは恋人同士のころと変わらないけど,もう交わりそうもない自分たちの未来のことを淡々と話すというのは,やはり他人なのだと感じる。

2000/05/05(Fri)

初めての2人乗り

朝の新宿。がらがらの道を走るのが気持ち良い
12時に寝て3時半に目が醒めてしまう。眠い気もするけど,眠れない。ひさしぶりにオンラインチャットしたりしながら,少しワインを飲む。結局,そのまま朝になっても眠れない。9時過ぎになってバイクででかける。すさまじく良い天気。ガラ空きの,朝の道路。木もれ陽のなかを,爽涼とした風を受けながら走るのが気持ちいい。
オイルを交換して,ガソリンも満タンにして横浜までひた走る。渋滞の横浜市内で,車の間を調子良くすいすい走っていたら,車線変更禁止違反とかいうので捕まってしまった。ふつうバイクなら黄色の線の上を走るもんだけど……,まあ違反は違反か。1点減点。反則金6000円。あと何点で免停になるんだろう。あぁぁ。
むかし住んでいたところ,むかし通った店。懐かしい横浜の街をあちこち走る。日に焼けてしまった。鼻が真っ赤だ。

2000/05/07(Sun)

知の欺瞞

2枚のネットワークカード。ようやく家庭内LANが完成。記念に画像をつけてみることにしました。
ニューヨーク市立大学物理学教授,アラン・ソーカルがフランス思想界に放り込んだ爆弾といわれる,"FASHIONABLE NONSENSE --- Postmodern Intellectuals' Abuse Of Science",読了。別に
邦訳の出版が待ちきれなかったわけではないけど,何をトチ狂ったか,Amazon.comで買ってしまった本。
確かにひどい。数学的言辞を弄する人文系学者の過度のペダンティズム。雰囲気でしか内容を理解していないのに,深遠な思想を気取るためだけに,現代数学や物理学の言葉を,次々に濫用する。クリステバが言うんだ,詩というのは語彙空間からの任意の単語の選出であり,集合論における選択公理がどうしただの,連続体仮説がどうのとか。「一体彼女は何の話をしているのだろう? 彼女は本当に自分で何を言ってるのか分かってるのだろうか」と,ソーカルはコミカル過ぎず,アイロニカル過ぎず,淡々とポストモダンの思想家と目されるフランス思想界の大家の言説をバッサバッサと斬っていく。ラカンにはじまり,ビリリオ,ドゥルーズ,ラトゥール,ボードリヤールなんかもバッサバサ。越権行為との誹りを受けることを予想して,厳密に議論範囲の制限を自らに課しつつ,きわめて抑制の効いた文体で欺瞞を暴いていく。でも,ラカンやボードリヤールはうまいな,と思う。文体なんだよね,きっと。論理的に込み入ったセンテンス,巧みなメタファーとスピード感のあるアフォリズム文体で,読者がケムに巻かれるのもなんだか分かる。まして数式にアレルギーのある人が読んだら,「へぇ」と思うに決まってる。でも,まさしく王様は裸だったというわけ。ラカンの,現代数学を(理解はしてないけど)勉強しまくりましたと言わんばかりのひけらかしがある一方で,たとえばLuce Irigarayという人(ぼくは何をやった人か知らないし,名前も聞いたことがないけど)なんかの言ってることは,ほとんどお笑い。男性器が堅く直線的だから,流体力学は男性には作れなかったなんてことを平気で言ってのける。なんのこっちゃ。
イリガライ
Luce Irigaray
〔1939〜〕
ベルギー出身,フランスで活動する思想家。〈エクリチュール・フェミニン〉の代表的な理論家・実践者。1974年《検鏡》を出版,ラカンの女性観を批判して反響を呼ぶ。女性のセクシュアリティを強調し,複数的な快楽に基づく女性主体を打ち立てることで男根中心主義の一元的支配を打破しようと試み,フェミニズムやレズビアニズムの理論に影響を与えた。著書《ひとつではない女の性》(1974年),《性的差異のエチカ》(1984年)など。
−−平凡社,マイペディアより
エピローグにいろいろ分析はあるけど,思うに,たぶん2つ大きな問題があって。1つは自然科学を知的お化粧や政治的道具として使うこと。もう1つは,ポストモダンのお決まり,何でも相対化してしまうことで,科学さえ,1つの世界観,価値観と言い切ってしまうこと。とくに後者の態度は危険だと,ソーカルは警鐘を鳴らしてる。

2000/05/08(Mon)

年上年下

久しぶりに行く,恵比寿ガーデンプレイス。ちょっと寂れてるっていうか,人が少ない。
朝早く目覚める。良い天気。さっさと出かける。午前中は会社のそばの公園のベンチに寝転がって読書。風が気持ちいい。
午後,どたばたと方々にメールを書くも,あまり仕事らしい仕事にならず。
夕方,恵比寿ガーデンプレイスに集合……,うーん,これは何の集まりだ? 仕事と言えば仕事だし,でも,明確に仕事というわけでもなく,ビールを飲みながら,あれこれの情報をしいれる。いつもの面々に加えて,初対面の人が3人。出席者みんな,ことごとく年上。ぼくはものすごく若ぞうなわけだけど,そういうの嫌いじゃない。
夜,早めに散会したので,元上司のNさんに電話してみる。職場が渋谷だから,いれば,すぐにビールモードだと思ったけど,あいにくすでに帰宅していた。続いて同期のKに電話。渋谷で飲んでるとかいうので,直行。今度は一気に年下君たちのハイテンションに囲まれる。
ほんとにバイクが気持ちのいい季節だ。

2000/05/09(Tue)

引っ越し

午前中,区役所をはしご。はしごってことはないけど。やや汗ばむぐらいの陽気で,今日もバイクが気持ちいい。渋滞の幹線道路をそれて,裏道を走る。
世田谷から杉並への移転届けをようやく済ませた。引っ越しから約3カ月。引っ越し予定日が,すでに過去の,2月という日付であることは,とくに何も言われなかった。住民税のことは1月1日だから,そんなに面倒はないってことか。それにしても区役所の公務員の態度が妙にいいぞ。そこそこゆき届いた教育を受けた私企業の窓口のような感じ。とはいえ「お客様」と呼ばれると,ちょっと違和感がある。税金は任意で払ってるわけじゃないし,行政サービスを受けるのは「客」としてではない。まあ慣れのこともあるので,マクドナルド的やりとりが楽だし,スムーズだけど。
スターバックスで読書
天気が良すぎて仕事する気になれず。新宿南口のスターバックスで,コーヒーを飲みながら読書。岩井克人,『二十一世紀の資本主義論』読了。『貨幣論』で展開してた議論が繰り返し,繰り返しエッセイに登場するのが,ちょっとしつこい感じはあるけど。筆者が貨幣の自己循環論法と呼ぶ無限後退の眩暈が,少しずつテーマが重複する論説集という形態でなおさら強調されてるのが,偶然にしてもできすぎてる気がする。でも,ともかく面白い。ひとことで言えば貨幣経済に本質的に存在している不安定性について論じてる本。ちょっと劇的な効果を狙いすぎじゃないかと思わなくもないけど,遠くない将来,やがてある瞬間にグローバル市場を一気に襲うことになるかもしれない「ドルの危機」を語るときの,筆者の文体,その間合いがなんとも言えないスリルがあっていい。資本主義という社会機構にひそむ逆説,その根底をなす貨幣というものにひそむ逆説。常識的な認識をひっくり返しつつも,より合理的な説明を次々に繰り広げる展開に,ジェットコースターに乗っているときのような,ほとんど快感に近い興奮を覚える。
時代が産業資本主義から高度情報社会,情報資本主義へ変貌を遂げるなか,資本主義という原理はますます抽象度の高い段階に達する。グローバル化する市場において,その資本主義がはらむ巨大な危機。
この本に引用されていて前から気になっていたマルセル・モースの『贈与論--原始社会における交換の形式と理論』が読みたくなって,紀伊国屋に走ったのはいいけど,たまたまエレベータを降りた理工学書のフロアだけで1万5000円分も本を買ってしまって,階下の人文書のコーナーにたどり着けなかった。ストレスがなくてもストレス解消的買物はするのです。
浅田次郎のサイン会をやってたけど興味なし。福田和也の『作家の値打ち』が気になってたち読み。エンターテイメントだろうが純文学だろうが,取り上げたすべての作品を100点満点という1つの数字だけで評価するという結構恐ろしくもあり,楽しげな企画の本。日本の文学は元気か? ってこと。まあ,ぼくは小説というかフィクションは当面読むつもりがないからあんまり関係ないんだけど。
石原慎太郎って,そんなにすごいのかなー,妙に評価高い。村上春樹も高い。うーん……。最近の村上龍をぼろくそに言ってたり,ぼくがイラつきまくった林真理子や鈴木光司の点数が20〜30点というのに,妙に納得。ハセ・セーシューの『不夜城』のプロットがパクリだったとは知らなかった。良くできたエンターテイメントだと思ってたけど,オリジナルじゃなかったのか。

2000/05/10(Wed)

砂漠

20歳のころの知り合いに,当時のお前には砂漠のような感触があったと言われた。そうやって,まだしも砂漠って言われるほうが救われる気がするんだな。

2000/05/11(Thu)

恋愛における共犯というスキーム

まぐろの半殺しという謎の料理。タタキってことだけど,半殺しってなぁ。一般的に,そう言うの?
夜,早めに退社。早めといっても10時半なんだけど。部内の後輩の女の子から「食事いきませんか」なんて,ひっそりメールが届いて。「斜め前にいるんだからメールじゃなくていいじゃん」と返事したら,「や,なんとなく。内緒っぽくていいじゃないですか」だって。
天然だろうけど,こういうコっているんだよな。ドキッとすることを言うもんじゃない。いや,何もぼくがドキッとすることないんだけど……。でも,きっかけが偶然であっても故意であったとしても,ちょっとした秘密を共有しようと持ちかけるのは古典的な口説き方なわけで。共有する秘密は,おおっぴらに公言できない悪徳のほうがいい。
恋愛という共同幻想を成り立たせるのに,「共犯」というスキームがきわめて有効なわけで,それは映画『俺たちに明日はない』のボニー&クライドに心酔する若者の心理によって端的な形で見られる。恋愛と犯罪に共通するのは非日常性という刺激。
運命的な出会いという不可避的な人間関係が幻想であることを,ぼくらは嫌と言うほど自覚している。どうして何百万人もいる「パートナーになりえた人」の中で,「その人」でなければならない理由が想像できるのか。だから幻想にのめり込むためには,非日常的な力が必要で,それを与えてくれる幻覚剤の1つが,たぶん悪徳。
俗っぽく言えば「障害が多ければ多いほど燃え上がる恋」。道ならぬ恋に燃えた2人が,障害が消えたとたんに現実が見えて来て覚めてしまうのはよくあること。フリンにおいて共犯関係というのは,実は非常に安定した構図で,むしろフリンがフリンでなくなる時点において,つまり共犯という求心力が消え去る時点で,2人の関係はバランスを崩すもの。勢いあまって結婚することもあるだろうけど,悪徳とか隠し事という非日常の終わりが,恋愛という非日常の終わりになることもある。結婚というのは日常そのものだから,どっちにしても非日常という魔法は,みるみる消えてしまう。
2人とも既婚のフリンカップルと違って,片方だけが既婚のカップルには,どうしたって非対称性がある。明らかに既婚者のほうがフリンの代償は高くつく。精神的にも,経済的にも。逆に,未婚のほうには,その代償に相当する覚悟が最初からない。というより,自覚しなきゃという自責の思いがつきまとうだけ。だから,フリンがフリンでなくなるとき(あるいはなくなろうとするとき),その決意の重たさに,未婚のほうは戸惑うことになる。主に年齢のアンバランスがあるために,なおさら2人の認識は大きく隔たったものになる。かたや再婚が前提であり,かたや恋愛が前提という。だから隠されていた問題が顕在化するだけといえば,そのとおりだけど。
離婚という行為に関して未婚側は共犯かというと,決してそうじゃないことが多い。未婚側が望んでいることは結婚ではなく恋愛であることが多い(のは,年齢的なもの)。そして,既婚側は精神的な負い目を相手に感じさせることを絶対に避ける。だから,離婚という2人にとって重大な意味を持っているはず行為に関して,2人とも,具体的な話を避けるようになる。そして,意志の疎通もないままに既婚者側は離婚してしまう。あくまでも自分と,自分たち夫婦の問題として。
結局,フリンという一見不安定な恋愛関係は,じつは形骸化した婚姻関係によって支えられた安定な関係であるという逆説が成り立っているわけである。フリンの恋に危機が訪れるとしたら,それはフリン関係にある2人の問題ではなく,既婚者側の婚姻関係が消滅することによってなのである。

なんだか見て来たような話っぷりのぼくですが,それはそのとおりで,ここに書いたのは,かつてのぼくの経験談。若かったし。もう時効かなと思って,書いてみました。
「恋愛には運命が必要」と勝手におおげさな前提をしてたり,夫婦という人間関係をまったく考えてもいないあたりが,まだアオイ感じの文章ではありますが。おととい読んだ岩井先生の本の文体を,ちょっと真似てみようという気になって,それで最後の段落みたいな妙な文章になったわけです。「フリンという一見不安定な恋愛関係は,じつは形骸化した婚姻関係によって支えられた安定な関係であるという逆説」なんていってますが,こんなのぜんぜん逆説でもなんでもなくて,当り前のこと。

2000/05/12(Fri)

Last Flight

母親から電話で,今日が父親のラスト・フライトだったと聞かされる。40年近いパイロット人生の最後として,羽田−松山間を飛んだらしい。同乗した母親の話では,松山では,横断幕と大量の花束に迎えられて,キャリアを締めくくるには申し分ない拍手だったという。
とうとう父親の操縦する飛行機に乗らずじまいということになってしまった。おつかれさまでした,と一言だけ書いたメールを送る。

2000/05/13(Sat)

ジョージ・ユーロ

大学のスキーサークル時代の友達が誕生日だというので,数人で集まる。久しぶりの吉祥寺。雨が降ったので電車。かなり遠回り。
風邪なのか何なのか,喉と舌と唇が痛くて,味が分からない。飲物を飲み込むのにひと苦労。

『ユーロ・ビッグバンと日本のゆくえ』(長坂寿久著,集英社),読了。日本経済の危機感を煽る帯のコピーが内容と乖離してるぞ。
『ユーロ・ビッグバンと日本のゆくえ』(長坂寿久著,集英社),
読了。岩井克人の『21世紀の資本主義論』によると,資本主義の危機は基軸通貨としてのドルの危機にあるということだった。でも,ユーロはダメなのか? エンは? と,思って思わず手に取った本。アジア圏で国際化するエンのプレゼンスがどこまで強いものになるのか分からないけど,ドルへの一極集中は早晩終わるのじゃないだろうか。終わらせなければならないという共通認識はあるんじゃないだろうか。
ユーロ導入の意義として筆者があげているのは,1.EU域内における為替変動による経済活動の不安定化緩和と為替手数料というコストの削減。それによるグローバル市場での競争力の強化,2.通貨統合による恒久的平和の維持,3.ドル以外の基軸通貨の創出,の3つ。このうち,どちらかと言えば2は付随的なものかと思っていたけど,どうもそうじゃないらしい。
通貨統合のプロセス,マーストリヒト条約批准に向けてEU各国が取り組まなければならなかった政治的,経済的な課題が,決して小さいものでなかったにもかかわらず,この壮大なプロジェクトが強力に推進され,ついには実現してしまった背景には,じつはヨーロッパ人共通の認識として「ヨーロッパ平和への願い」が強くあるのだということが紹介されていた。何世紀にもわたって狭い地域内で血みどろの戦争を繰り返して来たヨーロッパ人にとって「もう戦争はやめよう」という平和の誓約として,ユーロはマイルストーンになっているというわけ。
世の中には「ユーロという歴史的な実験は,壮大な失敗に終わるだろう」と予想する人もいるけど,筆者の長坂氏の分析では基軸通貨としてのユーロのゆくすえは楽観的。長期的に見れば,ユーロは基軸通貨たりうる要件を満たしているという。そして「頭の体操だ」と前置きしながら,世界の通貨という通貨,すべての通貨がドルとユーロの2つだけに収斂していくプロセスを読者に提示してみせる。ユーロ登場のインパクトの本質は,ナショナリズムと切り離されたグローバルな貨幣の登場にあるという。
流通量や利用可能な地域で言えば当然米ドルはグローバルだけど,1国の経済事情や政治論理によって,自国に有利になるように意図的に価値を操作できるという意味ではしょせん1国の通貨。プラザ合意以降,急速に円高が進み,莫大な対日債務は大幅に目減りした。あれはアメリカの戦略であり横暴ではなかったのかと指摘し,告発するのが『マネー敗戦』(吉川元忠著)の論旨だった。グローバルなドル,強いドルはナショナリズムのお化けだ。
ブレトン・ウッズ体制の終わりを宣言したニクソンショック以降,不換紙幣となった米ドルは,発行すればするほど発行母体であるアメリカにとってうまみのある存在になった。貨幣の歴史上,鋳造すればするほどもうけになる(シニョレッジというらしい)という誘惑に勝てた国や国王はきわめて稀だと,岩井氏は言う。冷戦構造下で資本主義圏のリーダーとしての自覚を強く持っていたアメリカに働いていた自制力が,ユーロや台頭いちじるしい東アジアと経済的に対峙しなければならなくなったときにも有効か。はたしてアメリカがシニョレッジの誘惑に屈っしないでいられるのか。岩井氏は,あらゆる国の政治や経済から独立した世界中央銀行の非現実性を前提として,ドルに潜む危機を指摘していた。だけど,すでに欧州中央銀行は,どこか特定の国にくみするものじゃないという意味ではメタ中央銀行となりえてるんではないだろうか。ユーロ・ローカルではあるけれど「グローバル」の本質がナショナリズムからの独立であるとすれば,ユーロは,とても大きな意味を持った実験成果となるんじゃないだろうか。
ヨーロッパ固有の雇用構造の問題,社会保証の問題なんかの詳細よりも,抽象的な議論のほうが楽しい。長坂氏は,頭の体操といって話を続ける。やがて世界の通貨はユーロとドルへ収斂し,もしかすると遠い将来には世界共通のただ1種類の通貨に収斂しないとも限らない。そう想像することが,あながち荒唐無稽だと言い切れなくなっている時代,それが21世紀を目前に控えたわれわれの時代と言う。
なんてね。世界経済の話なんて,ぼくにとってはどうでもいいことなんだけど。

2000/05/14(Sun)

久しぶりの雨

『アフォーダンス』(佐々木正人著),読了。岩波科学ライブラリって,ボリュームの割にちょっと高い。
夕方から雨。雷鳴が聞こえる。まとまった量の雨が降るのは久しぶりという気がする。雨で湿度が高いことと,熱っぽいとので,なんだか汗ばむ。咳こむ。まったく理由がわからないけど,喉の痛みだけじゃなく,舌先の痛みがひどい。
日経トレンディのインターネット実力ランキングという特集を読んで,ちょっとめまいを感じる。Eコマース市場の爆発的立上りは,もう少し,すぐそこまで来てると実感。日本の場合,あとはインフラ。
アフォーダンスという言葉にひかれて岩波科学ライブラリーの1冊,『アフォーダンス--新しい認知の理論』を読んでみた。ボリュームが少ないうえに,説明の構造にいまひとつ骨がなくて,散慢な印象。全体として訴えて来るものが何もない。知性とか知覚にとって,環境そのものが重要な役割を果たす,というよりも環境そのものに情報が実在するのだという認識そのものが,とりたてて目新しく感じられないからかもしれない。ラマチャンドランの本のインパクトが強すぎたから,この本の印象が薄くなってしまったのは間違いない。

2000/05/15(Mon)

体調不良

『100人の20世紀(上)』(朝日新聞社)。表紙の目はアインシュタインの目。そうは見えなかった。
なぜか下巻を先に
読んでいた『100人の20世紀(上)』(朝日新聞社)を読了。450ページ弱で50人だから,1人あたり8ページか9ページ。扉の写真と略歴年表を除くと個々の人物にさかれた分量は6ページ程度と短い。でも,食い足りない感じがしつつも,次々にページをめくってしまうということは,これはこれで良い分量なのかもしれない。
非常に大きなショック。積ん読状態の本をひっくり返してみたら,カバーをかけられた本の中に,この『100人の20世紀(上)』がもう1冊でてきた……。下巻を買ったときに実は一緒に買ってたんだった。あぁぁ,またやってしまった。1800円の本は高いとは思わないけど,1800円の紙の束はかなり高いと思う。

体調が悪い。夜になるにつれて熱っぽくなる。咳がとまらず,喉の痛さが増す。なぜか舌も猛烈に痛い。つばを飲みこむだけでも痛いのに,ビールは飲む。これは病気かもしれない。

2000/05/16(Tue)

南半球のネット友達

ゆうべ久しぶりにチャットしていたシドニーのネット友達が「4月に学校を卒業するので,そしたら日本に寄るよ」なんて言った。その気もないのに,冗談めかしてそんなことを言うのが,ネット友達としての,ぼくらの挨拶のようなもの。yee はシドニーに留学中のマレーシア系中国人。その彼女と,チャットなんかで他愛ないメッセージをやりするようになって,もう3,4年になる。もちろん会ったことはない。yee は,ぼくにとって3重か4重の意味でバーチャルな知り合いだ。1.ネット以外で話したことがない(ビデオチャットというのはあったりするけど)。2.遠くに住んでいるし育った環境がまったく違う。3.お互いに非母語の英語でしかやりとりしたことがない。あらゆる意味で,リアルさがない。
突然,「週末に遊びに行くよ」とタイプしてしまった。冗談としか思わない彼女に淡々と理由を説明した。
父親の会社の社員優待で,海外に行ける航空券があまっているのが,ぼくはずっと気になっていた。5月末の定年退職で使えなくなってしまう航空券。ゴールデンウィークに使うつもりが,ずるずると予定を立てられずにいたぼくのせいで,無駄になってしまいそうだった航空券。
もうあきらめていた「航空券を使うこと」と「君んとこへ遊びに行くよ」といういつもの冗談が,突然結び付いた。すぐさま国際便の時刻表でシドニー行きの便を調べて,父親に電話した。「急な話だけど取れるものなら,シドニー行きの便を週末に」。
出発希望日時の伝え方が曖昧だったので,ウィークデーのスケジュールになってしまった。でも,ともかくチケットは取れた。問題は仕事をどうするか。

2000/05/18(Thu)

2冊目のフェルマー

フェルマー本は2冊目。絶対こちらから読むべきだった。なかなか感動的
『フェルマーの最終定理---ピュタゴラスに始まり,ワイルズが証明するまで』(サイモン・シン著,青木薫訳),
読了。1年ほど前に読んだブルーバックスの『フェルマーの大定理が解けた!』という本が今ひとつ面白くなかったので(正直に言うと理解できないことが多すぎたので),もうフェルマーはいいやと思っていたのに,なぜかまたフェルマー本を手にしてしまった。
シンプルな問いがシンプルな答えを持っているとは限らない。それは人生も数学も同じ。フェルマーの定理は,定理が主張していること自体は極めて簡単なのに,350年もの間,もっとも優れた数学者たちが次々に証明に挑戦しようとして失敗してきた難問中の難問。一見すると高校入試の問題にも見えるほどシンプルでありながら,実際に1995年に証明に使われたテクニックは,最先端の現代数学の塊だったという。誰もが証明することをあきらめかけていたような,そんな方程式に8年近い歳月を費して挑んだ孤高の数学者の物語。
この本,買うには買ったけど,すぐに読むつもりなんてなかった。ただ,ちょっと整理しようと思って,ふと拾いあげてパラパラめくった瞬間に目に飛び込んだ見出しが気になった。「1人の天才の死」。その章の書き出しはこんな風。「志村は今でも,図書館の本のことで谷山からはじめてもらった葉書をもっている」。
「谷山=志村予想」と呼ばれる未証明の定理が,まったく関係がないと思われていた2つの数学分野を結びつける,とてつもないアイデアであること,現代数論の土台となりつつあること,そしてワイルズが最終的にフェルマーの定理を証明したときに証明したものであることなんかは知っていた。章のはじめに風采のあがらないダッサイ背広を来た「昔の日本人」ぽい写真が載っていることから,その章が谷山や志村の人生や,彼らのアイデアについて書かれているのだろうと察しはついた。ということは,「1人の天才の死」という章見出しと,その書き出しから言って,次の文章には「谷山が死ぬ」,いや「死んだ」ことについて書かれているはずじゃないかと思って鳥肌がたった。この本を読むまで,ぼくは谷山という天才数学者が31歳で夭折していたことを知らなかったのだ。
谷山は「昨日まで,自殺しようという明確な意志があったわけではない」と書き残して自殺したという。しかも,恋に落ちた女性と挙式まぢかだったという。
あまりに気になって,そこだけ拾い読みするつもりになった。でも,どうせなら日本人数学者,谷山と志村のことが書かれているあたりからと,少しさかのぼったページから読み始めた。1章をまるまるを読み終わるころには,あまりに前後が気になって,とうとう頭からおしりまで,ほとんど一気に読んでしまった。登場する数学者たちの天才を疑いはしないけど,この本を書いたサイモン・シンというインド系イギリス人の力量もすごいと思う。
ブルーバックスの本が,複雑すぎない程度の数式でもって証明の概要を俯瞰しようしているのに対して,こちらの本は数式はほとんどまったくといっていいほど出て来ない。そのかわり,巧みなたとえ話で証明の道筋がどんなものだったか,その数学的な意味や重みがどれほどのものであるのか,そこにたどり着くまでの古代ギリシア以来の数学者たちのドラマ,そして定理を証明した張本人であるワイルズの人生に焦点をあてたドラマなんかを,みごとに描ききっている。自分が証明したわけでも,証明の現場に立ち会ったわけでもないのに,プルプルと感動にふるえてしまう。8年間もの間,ただ黙々と1つの問題を考え続けたという,その情熱。そして1度は証明に欠陥が発見されて絶望の淵につきおとされたワイルズが,14カ月の歳月を経て,今度こそ証明を完成させたというその瞬間。本当に見事に描かれていると思う。

ああ,本なんか読んでる場合じゃないし,日記にその感想なんて書いてる場合じゃないのだ。

2000/05/25(Thu)

恐ろしくメールがたまっていた

しばらく家を離れていました。いろいろあって大変だった。はふぅ。やっと帰宅。
メールを読まなかったわけじゃないけど,自宅のマシンにはダウンロードしてなかったから,ずいぶんメールがたまっていた。
仕事も激しく溜ってる感じ。月末に向けて百万馬力(アトム比10倍)で頑張らないと。

2000/05/26(Fri)

外食時にメニューで迷わない方法

仕事に百万馬力中(?)なので,ちょっと前に書きなぐった文章を。

近所のコンビニにZIMAが置いてあったので買ってみた。新しい目立つものを選ぶのは簡単。
まだ冷蔵庫を買っていない。ハードディスクを買う前に,ふつう「まず冷蔵庫」だろうという気もするけど,近所のコンビニで毎日ビールを買って帰ると,そう不便でもない。毎日生活できている。
ところであれは何だろう。ビールがほしいだけなのに,コンビニの棚の前に出ると,ちょっと悩んでしまう。「やっぱりビールじゃなくて最近勢力をぐんぐん伸ばしてるフルーツ系チューハイにしようか,安いしな。いや,やっぱりビールだろ,ビールなら一番搾りだ。けど,実はスーパードライも最近好きになってしまったんだよな。いや水っぽいバドワイザーも嫌いじゃないしなぁ。ところで他に選択肢はないのかね,ここの棚じゃあ」。その間約5秒。5秒ぐらい楽しんで迷えばいいという意見もあるかもしれないけど,迷ってる自分があんまり好きじゃない。迷ってる時間も好きじゃない。
同じように,自動販売機の前で悩む。あれこれ悩む。ファミレスで注文に悩む。出前のメニューを眺めて考え込む。長いと1分ぐらい考えることもある。さすがに自動販売機の前で1分もとどまることはないけど,後ろに誰も人がいないと,コインを入れて腕組みしたまま10秒以上悩むことがある。そういう姿はかなりナサケナイものがあるから,誰かの気配がしたとたん,無難な烏龍茶のボタンをとっさに押したりすることになる。ドキッ,ポチッ,ガコッ!
ある時期,食べることや飲むことごときで,そういう「迷いの時間」や「迷いの精神的ストレス」があるのは無駄なんじゃないかと思えて「一店一品の原則」を作って,3,4年間続けたことがある。あるメニューなり選択肢が与えられたとき,それを見るまでもなく必ず選択が決まっている状態にしておくわけです。原則が原則として機能するためには例外をなくすることが大切だけど,人間,やってみればたいていの習慣には慣れてしまうもので,ある時期のぼくのメニュー選択は速かった。というより選んでなかった。
これはやってみると非常に楽で,ほとんどの店でメニューを見る必要がなくなる。たとえば,過去5年間近くにわたって,ロイヤルホストでぼくが頼んだ注文の95%以上は「スパニッシュ・ハンバーグステーキ,ライス,ホットコーヒー,コーヒー先で」だし,サブウェイのサンドイッチなら「イタリアンホワイトの6インチでツナ,野菜調味料全部入れてマヨネーズ多めで」だし,2つ頼むなら「あとケイジャンチキンでマスタードとホットペッパーたっぷり」以外にない。たぶん2〜30店ぐらいの店について明確に選択が決まっていた。そういう特定の店での選択肢だけでなく「そば屋ならカツ丼。イタリアンならアラビアータ,それがなければカルボナーラ,それもなければ明太子かツナ。カレーならキーマ,マトン,カツカレー」という序列を決めておく。まだ決まっていないジャンルにでくわしたら,過去に自分が選んだ中で一番多かったものを,以後の選択とする。さらにもう1つ単純なルールがあって,ごちそうになるときとか,選択に気をつかいそうなときには,こうする。「同じものを」。自分はさっさとメニューを閉じて,相手が選ぶ前に言ってしまう。
もともと新メニューが出ても見向きもしないというコンサーバティブな傾向はあったけど,明確にそれをルールにすると,やっぱり変人と言われる。「そうじゃないかと思ったけど,やっぱりコイツは変人だった」というような,妙に納得した顔をされることもあるけど,こちらもそのことに妙に納得してしまう。時代が変なのだから,生き方が変なのは変じゃないのだ。だから変人と言われておおいに結構,はっはっは。
一見この一店一品の原則を守りとおすと,非常に寂しい人生になりそうな気がするけど,冷静に考えてみると(あるいは考えるまでもなく),そうでもない。たとえ豊富に選択肢があったとしても,冒険的選択で失敗するより馴染みのものを選ぶという傾向や,もともと存在する好みの問題から,その中で実際に意識にのぼってくる有効な選択肢はせいぜい3,4種類しかなくて,誰だって,だいたいそのうちどれかを選んでることが多いのじゃないだろうか。だったら一品に決めうちにして行く店を増やすか,どんどん店を変えたっていいことになる。
選択肢が多すぎると物が売れないというのはセールスの常識で,モノの場合,客に提示する選択肢は3つ程度がいいとされる。まず靴を1足見せる。相手が悩んでるようなら,別の靴を出す。どっちにしようか悩んでるなら,3つ目の真打ちを持って来て,「ああ,これが一番お似合いですよ!」とやってやる。すると背中を蹴られた客は「そうか,私はこの靴がいいんだ」と安心して買っていく。間違っても4つ目の靴を見せてはいけないし,周囲に並んでいる靴の中にもっといいものがあるとは夢にも思わせないことだ。
ぼくのギモンはここにある。「ぼくは本当にそれを欲望して,それを選んでいるのだろうか」。食べたいから食べるんだというのは嘘だし,飲みたいものを飲んでいるというのも嘘じゃないだろうか。なにも哲学的な意味での人間の自由意志について考えてるわけじゃなくて,もっと社会学的,心理学的な意味において「個人が自由に選ぶ」ということは一体どういうプロセスだろうかと考えてるわけです。
直観的には,こう思う。物欲,性欲,食欲,あらゆる欲望を24時間体制で刺激され続けている高度資本主義社会に生きるぼくらに,自由な選択など本当は残されていないのじゃないか。ぼくらが自分の好みや気分で気ままに選んでるように思っているモノは,すべて3つ目の靴なんじゃないのか。物質文明を否定したいわけじゃない。ここにあるのは「ぼくは本当にぼくであるのだろうか」という漠然とした不安なんだと思う。
自由はシンドイ。あなたは自由に選んでいいよと言われる。いまや生き方だって,個人が自由に選べる時代なのだ。なのに,不幸なことに価値観がない。あまりに多様化してしまった価値観は,互いに互いを相対化してしまった。ぼくには宗教もイデオロギーもない。一番まずいことに,これこそ自分の内なる声だと信じられる欲望もない。欲望を所有することが許されていないからだ。
動物的欲望であれ人間的欲望であれ,満たすのが簡単で,しかも選択肢が多いと,その欲望を自分で所有しているとは信じづらくなる。それはたぶん,ぼくの欲望が資本主義というシステムに組み込まれていることをハッキリ悟らされる瞬間だからで,一見個人主義,自由主義的に見えるこのシステムが,実は個人の欲望を刺激し,コントロールし,利用するための極めて管理的なシステムだったのだと感じるからかもしれない。どんな欲望を抱いたところで,速やかにシステムに吸収されるのだから,本当の意味で欲望を所有することは誰にもできない。
と良く分からないことを書くのはこのくらいにして,外食メニューの話に戻ると,一店一品の原則を続けて3年ほど経ったあるとき,ちょっと変更して,日付を利用したラウンドロビン(総あたり)戦略にしたことがある。メニューや陳列棚を頭からカウントして,日付の数字そのもか下1桁にあたるところに来たら,それを選択する。ただし,以前に1度でも選んだことのあるものは除外して,その場合はすぐ隣を選ぶ。さらに,行動範囲にある店も同様にカウントして,しらみつぶしに店を回るというやり方も併用する。ポイントは自分の意図や利益とは無関係に必ず一意に選択が決まること。それと大切なのは,ルールが自分の外部にあって,変更しようがないのだと自己暗示をかけること。ちょうど自分たちで変更もできるし決定権もあるはずの憲法第9条を,多くの日本人が神聖不可侵なものだと錯覚しているのと同じようなこと。
この方法で,ぼくはそれまで口にしたことも,しようとも思わなかったいくつかの食べモノの味が,意外にぼくの好みであることを発見した(念のために書くと,好き嫌いというか,苦手なモノはあまりない)。ただ,この方法には難点があった。一意に決まると言っても,結構カウントするのがめんどうなのだ。結局ルールが守れなくなってきて,数カ月でこの方法は断念してしまった。
日付ラウンドロビン戦略が失敗に終わってからというもの,今ではこれといった方法もなく悩む毎日。ただ以前と違って「悩んだところでたいした違いがない」ことを,より一層自覚できたことは大きい。今の戦略を,あえて言葉にすれば「欲望マッチポンプ」(椎名林檎風)。たまたまメニューの中でタツタ揚げが目に止まる。「うまそうだ。うまいに違いない。断然これしかない。もともと,お前はこれが食べたかったんだぞ」と自分に言い聞かせる。最近では,このプロセスがかなり素早くなってきた。つまり,ふつうの人がメニューをふつうに選ぶプロセスに,遠回りしながらもたどり着いたわけかもしれないわけで……。

2000/05/27(Sat)

反省

昼過ぎに出社。部内サーバの一部プログラムが反応しなくなっていたので,慌ててメンテナンス。みんな出社前で良かった。去年の秋に起動したきり,1度もリブートしてなかったので,今日がはじめての2000年超えブート。無事に動いているようだ。バイトのNが「このさいNTにしませんか」と言う。冗談言えよ,NTなんて。金も手間もかかるだけじゃないか。ぼくが部内サーバの管理をやってる限り,NTなんてごめんだね。

明日,試験だというのに2冊も買った問題集のうち,1冊の三分の一しかやっていない。でも,自分を責める気はない。これはコッキ心の問題じゃない。たぶんプライオリティの問題。ぼくは試験に大きなウェイトを置かなかっただけのことだ。手持ちの「時間」という財産を投資しなかった。
反省すべきなのは,投資計画のいい加減さのほうであって,自分自身ではない。必要なのは常に理性的,意識的であることであって,意志を強く持つことじゃない。

2000/05/28(Sun)

あれこれキーボード

試験は,思ったよりできなくてガッカリ。試験終了後,16時過ぎに出社。
原稿を書いていて,なんだかものすごく疲れた。そんなこともあって,思わず現実逃避モードのキーボード研究。Webをあさる。日本語入力方式についても,あれこれ。いずれこのジャンルで企画記事を作りたいと思っていたりする。
T-Code,TUT-Code,G-Codeあたりの直接漢字入力方式が気になる。とくにG-Codeが良さげ。難点は,まだユーザーが(推定)1人しかいないこと。TUTは,Cannaの設定ファイルの変更だけで使えるから,とりあえず試してみた(cp /usr/share/doc/canna/examples/tut.canna ~/.cannaとするだけ) 。ひらがなと漢字数文字,自分の名前だけは打てるようになった。確かに2ストロークで漢字が1つ打てる(例えば「cz」で「愛」という字)のはいいけど,最低でも700字の漢字について,全部打ち方を暗記しなきゃいけないなんて,正気の沙汰じゃないやね。それを覚えたら圧倒的に入力が速くなるというなら,チャレンジもするけど,そうでもないみたいだし。親指シフト入力の人も言うように,たとえスピードが変わらなくても「楽」なことが大切かもしれないけど,いろんな意味で本格利用のリスクは大きそう。
どうも直接漢字入力をやってる人とか,SKKを使ってる人が仮名漢字変換のデメリットを強調するときの言葉は大げさだ。昔の,誤変換だらけの頭の悪い仮名漢字変換しか使ったことがない人が多いように思う。ATOK7やWX2,Wnn4に比べたら,そりゃいいかもしれないけど,比べるのがATOK13だとねぇ。といっても,ぼくはいまATOKが使えない環境にあるんだけど。
英文タイピング用に考案されたDvorakが,思ったよりもイイ。かな漢字変換を使うローマ字日本語入力でも効果絶大かも。ほとんどホームポジションから指が動かないことを発見。この文章も一部はDvorakで書いてます。10分ほどタイプしてたら,とりあえずの位置は覚えられた。もちろんまだQwertyのほうが十倍以上速いけど(Qwertyって,ふつうのキーボードのことです。上段左から「Q,W,E,R,T,Y」と並んでますよね)。
 [簡単なDVORAK切替え方法]
 alias asdf="xmodmap /usr/share/xmodmap/xmodmap.dvorak"
 alias aoeu="xmodmap /usr/share/xmodmap/xmodmap.us"
 
NTTの白鳥さんという人が作ったという「SKY配列」が,Webの検索では見付からなかった。それはそうと,M式が結構良さそうに思えた。親指シフトも,やっぱり悪くなさそうだ。
久しぶりに使ったSKKはやっぱり小指が痛い。確定動作が少なくて,打っていくそばから文字が入れられるSKKは,打ってて気持ちいいんだけど。

2000/05/29(Mon)

24×4を100と答えるイギリス人

1杯360円の立ち食いそばの支払に,1万円を出したぼくが悪いと言えば悪い。でも,ほかに持っていなかったのだから仕方がない。
「えーっ,イッチマんエーンッ!」と,出稼ぎらしい東南アジア系のおばさんは,露骨に不快そうな顔を作った。ひっこめてもどうしようもないのに,ぼくはちょっとお札をひっこめるそぶりをした。
「センエン足りないからゴキャク円マじってもイーか?」と聞くので,「あっ,そんなの全然いいですよ」と答えた。そうしたら,「まず,ゴッヒャクエーンダマ,ジューマイね,それからセンエン札が,イチ,ニー,サンー,シー,ヨン枚ね」と言って,今まで見たこともない500円玉の固まりをぼくの手の平にのっけてきた。500円が混じるというのは,せいぜい500円×3ぐらいだろうと思っていたのに,ゴヒャクエンダマがジューマイ!
一瞬何が起こったのか分からなくて,手の平に乗っかった,ずっしりと重いニッケル合金の固まりをじっと眺めてボーゼンとした。なかなか美しい円柱や……。
すぐにこう考えた。「このおばちゃん,頭悪いよ。計算できないでやんの。500円玉が10枚で1万円だから,千円札は余分だ。つまり,ぼくはそばを食った上に4000円+1000円−360円=4640円も得することになるんだ……。いや,これはちゃんとおばちゃんに申告するべきだろう。でも,こっちも計算が分からないフリをしたら……,いやいや」。だいたい,ここまで考えるのに2,3秒だったと思う。
この文章を見て,「頭が悪いのはアンタだよ」と思った人は,もちろん正しいんだけど,どのくらいの人がそう思わなかったか,結構まじめに知りたいと思ったりする。アラビア数字で書くと,500×10=5000は小学生でも間違えないけど,五百円玉×○○○○○○○○○○が5000円という計算,というか認識の仕方が必要な場面は,ぼくらの生活習慣にはないんだな。生活の中で扱うコインの組み合せは,ほとんど変則パターンがないので,ぼくらは計算ではなくて,実は直観的に金額を把握してるんじゃないだろうかと思う。だから,出会ったことのない組み合わせに戸惑うわけ。500円×10枚を計算するんじゃなくて,手に乗っかった感触と10という数字から,ぼくはその固まりを直観的に1万円だと思ってしまった。
この話を文字ではなくて話し言葉で職場の人に話したら,ぼくとまったく同じ計算間違いをした。やっぱり,コインの金額把握には,「計算」じゃない何か習慣的なものがあるに違いない。
そう考えると,24×4=100と答えるイギリス人のことが納得できた。イギリスではつい最近まで通貨のシステムに10進法ではなくて,12進法を採用していたらしい。その影響で,結構まとまな企業の,若くて有能な秘書というような人ですら,「24×4は?」と聞かれると,ちょっと考えてから100と答えたという。このエピソードを何かの本で読んだとき,いくらなんでもそりゃないだろうと思ったけど,今日のぼくの500×10=10000は,まさに同じような間違いだ。

昨日に引続きメモ。
ぼくにはAZIKが良さそうだ。NICOLA配列はASCII配列キーボードではシフトに割り当てるキーが足りないので使いづらい。
AZIKというのは,どうやらSKY配列に触発されて,それをQwertyに適用したようなものらしい。M式やSKYやAZIKに共通するのは,AI,EI,OUなどの二重母音が1つのキーにわりあてられていることか。さらにAZIKでは「こと(KT)」「ます(MS)」「です(DS)」「ため(TM)」「した(ST)」などの頻出パターンを2打鍵にしている。拗音や促音も,かなりよく工夫されている。
これをDvorakで応用して,自分でローマ字かな変換テーブルを新しく定義すれば,きっと幸せになれるに違いない。といっても,母音と子音の分離による左右交互打鍵みたいなAZIKの利点は,すでにDvorakで実現されていることも多そうだから,Qwerty+AZIKより劇的な効果はないかもしれない。まあ,いまのQwerty+ヘボン式より断然いいことは間違いなさそうだけど。
どうもDvorakで日本語を使うネックは「K」にありそうだ。だからDvorak配列では左下にあるKを,右上に持っていくというマイナーチェンジするという方法はありうる。増田式の増田さんは,そんなことを書いていた。でも,さすがに変則Dvorakは悲しいので,ローマ字のときだけ,KとCを入れ換えるという方法はどうだろう。問題は脳味噌が混乱しないかだけど,もともと混乱してるんだから,少し余計に混乱したところで問題はないだろう。頭の中ではカ行をCで打つと覚えてしまえばいいだけのことだから,音のイメージにも近い。

いろいろ見てると,つまり,世の中でもっとも普及している「Qwerty+ヘボン式」が,まったく何の工夫もない,「主流である」「覚えないといけないのはQwerty配列だけ」というだけがメリットの,最悪に近い入力方式であることはハッキリ分かるわけです。英語圏の人がQwetyからDvorakに乗り換えるように,日本人だって何か工夫された方式に乗り換えたほうがいいに違いない。
ちょっとWebを調べただけで,ものすごいたくさん情報があることが分かった。面白い入力方式とそれに関する考察や論文もたくさんある。これはやり方次第で良い企画記事が作れそうな気がする。いろいろ取材してみたいなぁ。

2000/05/30(Tue)

新聞配達

帰宅時,2日連続で新聞配達員とすれちがった。すっかり夜型生活だ。月末。

ところで突然ですが,この日記ページ,画像が増えて「重たい」という人もいるかもしれません。そういう人は,http://www.hi-ho.ne.jp/julian/tos/latest.htmlで,最新の日記だけ見てもらえるといいかもしれません。で,それを見れば分かりますが,じつは日記猿人に参加しています。もう2カ月ぐらい前から。まあ,参加したことで何か変わったわけではないけど。

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NISHIMURA Ken <nis@bigfoot.com>