2000/01/04(Tue)
大掃除と本の山
年末にできなかった大掃除をしてみようかと部屋を見渡して絶望的な気分になる。とりあえず床に何層にも折り重なった,本・雑誌のたぐいを寄せ集めてみる。最下部の地層にまで掘り進むころには,本の山が2つほどできていた。読みたくて手元に置いておいたきり忘れていた本がいくつも出てくる。しばし,ページを繰ってみて掃除(の準備)をする手が止まる。
雑誌はなるべく捨てるようにしている。週刊誌はもちろん読まなくてもポイポイ捨てるし,月刊誌だって1,2カ月たてば捨てる。ホントは取っておきたい情報もあるけど,それを言ってると,たぶん今頃雑誌だけで床が抜けている。とくにコンピュータ系の雑誌は,どれも重たいから。逆に,コンピュータ系の雑誌は内容の陳腐化が早くて助かっている面もある。いまでは数ヶ月前の雑誌の情報は,あまり意味がないことが珍しくないから,捨ててしまって一向に困らない。だいたいどの雑誌のいつ頃にどういう情報があったということだけ覚えておけば,後はたいてい会社のライブラリで用は済む。
たとえば「日経サイエンス」とか,比較的お値段の高い雑誌(1冊1400円もするから,下手な単行本より高い)は,しばらく取っておきたくなるけど,やっぱり1,2カ月で捨てる。
ポイポイ捨てるといいつつ,会社では雑誌の扱いはだいぶ違う。数種類の雑誌を4,5カ月分,常に机の周辺に置いておこうとするものだから,床から腰の高さあたりまでになる本の柱が2本ほど,ぼくの席付近には常にある。膝の高さぐらいのサブ・本柱と,柱の体をなしていない本の小山もある。ちなみに,ぼくの机にはちゃんとした本棚もあるんだけど,3つの本棚のうち2つはアクセスが悪いので古い本がただ並んでいるだけだし,もう1つもそれに近い状態に近づきつつある。
本柱には書籍も3割程度含まれていて(コンピュータ関連書籍は結構高いけど,会社のお金でガンガン買ってたりする),それぞれの本のサイズや重さはまちまち。だから,この本柱,けっこう危ういバランスで成り立っている。だるま落としのように,抜きたい本を素早く抜き取る技術を開発するのに,ずいぶん時間がかかった。ぼくの席の後ろを通る人が,身体の一部を本柱に引っかけて大雪崩によくみまわれる。熟練しているとはいえ,ぼく自身も本柱から本を抜き取るとき,他人の助けなしには,本柱の崩壊を止められないこともあって焦ったりもする。本柱のてっぺんには書きかけの書類や懸案事項のメモ,受信ファクス,校正刷りなどが置かれる。これが非常に便利なスペースなんである。なぜなら,雑誌や記事のコピーなど情報を集めると,ただそこに乗せていくだけで,てっぺんに近い順に当面必要な情報が集積されていくからだ。野口悠紀雄氏の超整理法は,ぼくの場合,上へ上へと向かう柱になるのだ。
そんなわけで,本柱は仕事する上で机の上の次に重要な場所になる。ちなみに2本ある柱は一応使い分けがあって,メイン柱とサブ柱では利用頻度が違う。ともかく,そういう重要な柱なものだから,柱の崩壊は,数秒間の思考の空白を作る。「あぁぁ,またやってしまった……。どうやって柱を復元すればいーんだ。もう仕事続行不能! まいっか。ビールでも飲みに行くか……」とか。
何の話かって,本の整理のことです。どうすればいいのか,最近ホントに困っています。元々ぼくは面倒くさがり屋だから,部屋は乱雑をきわめる。物取りが入ったとしても,ここまでは散らかせないだろうというほど「掃除」という言葉に縁がない空間だ。でも,その原因の半分くらいは本と雑誌にある(と,自分では思ってる)。
床に積み重なった地層を掘り進んで,できあがった山を眺めて考え込んでみる。でも,どう考えても,もはや2つある本棚にスペースはない。どちらの本棚も2重に詰め込まれて,奥の列はほとんど見えない。本棚を増設するスペースも,ぼくの部屋にはない。やっぱりもう段ボールしかない,か……。
それぞれの段ボールにどういう本が入っているかのリストだけをメモして,あとはどんどん放り込んでいけば,理屈から言えば,
滅多に手にしない本を入れておくためだけに狭い部屋の貴重なスペースを割くこともない。これは実は,ずっと以前にある人が言ってた方法で,パソコンで段ボール番号を含む書誌情報を管理しておいて,それを検索するという戦略。ちょっと良さそうに思えるけど,いつでもすぐに本を参照できるというのが本棚の利点であって,段ボール戦略では,かなりの面倒を強いられる。きっと段ボールは廊下(いまのぼくの部屋にそう呼べる空間はないけど)とか,収納とか,そういうところに追いやられてしまうから,段ボールに放り込んだが最後,きっとその本たちは開かれることがないだろう。
極論すれば,結局,ぜんぶ捨てたってかまわないのだ。本に愛着はないのかって? いや,ぼくは一部本好きの人と違って,個々の本,個物たるその物質的存在の本に,ほとんど何のアウラの存在も認めない。紙の本は単なる表示デバイスの1種だと思ってるから。書き換え不能なかわりに,コントラストが高く,安く,軽く,折り曲げもできるディスプレイなんである。もともと稀覯本なんて集める趣味はないし,ぼくの本の趣味は,基本的にどんな本屋にもありふれていて手に入る本がメインだから,紙でなければならない理由も,ほとんどない。
本なんて,ぜんぶ捨ててしまえばいいのだ。ホントに読み返したいならもう1回買ったっていい。ある本を読み返す確率を考えれば,明らかに生活空間を圧迫させるほうがコストがかさむ。ぺらっとめくって参照する確率を含めても,読み終わった本を後生大事に取っておくことは,やっぱり無駄なことのように思えてくる。ただ,読み終わった本の「遺影」をデジカメで撮るなり,リストにしておくなりしておけばそれでいいような気もする。できれば電子化してHDDに保存したい。というよりも,HDDに保存できるなら,紙の本なんて,全部読み終わった瞬間に捨てていると思う。
「本」にアクセスできるのが一部の聖職者や金持ちだけだったグーテンベルク以前と違って,本はきわめて安い。情報はどこにでも,くさるほどある。この傾向はインターネットや電子書籍の登場で加速されこそすれ,変わることはないだろう。だから,コンピュータ用語でいえば,問題は「どこまでキャッシュするか」ということだ。
職場のぼくの席の周囲にできた本の柱は,いわばキャッシュなのだ。うちの会社にはコンピュータ関連の雑誌や書籍のライブラリがあるから,ホントは必要ならライブラリに出向いて必要な箇所をコピーするなり読めばいいのだけど,それじゃ効率が悪いからキャッシュしているというわけなのだ。
床に雑然と散らばった本の山を見て,人は「なんて乱雑な」と思うかもしれないけど,ぼくはたまに金魚すくいのように,すいっと適当な本をつまみ出して本を読むようにしているわけで,これはこれでとても理由のあることなのだ(だんだん掃除しないいいわけになってきた)。「足の踏み場がない」と言う人がいるかもしれないけど,ぼくに言わせれば本なんて踏んづけたってどーってことないのだから,足の踏み場だらけなんである。
えーと。なんだかあれこれ書きいてたら,意味不明な文章になってしまった。背後に本の山をひかえて,パソコンに向かってキーボードをたたき始めたら,だんだんこうなってしまったということで,あまり深い意味や思考はありません。ただ,今日も掃除ができなかった……,というだけのことです。
2000/01/07(Fri)
夢物語
午後,電話取材が2件。図らずも取材申し込みの電話が,電話取材という形になってしまった。しかし,あれです。現場の研究開発をやっている人の生の声,しかも熱のある生の声というのは,聞いていてもホントに楽しいものです。
さらに電話での打ち合わせが2件。ライターさんにあててメールを書き始めたら,やたら長くなってしまって面倒くさいから,新年の挨拶もかねて電話にしたら,結局それも超長電話になってしまった。まあ2時間もメールを書くことに没頭できないけど,2時間のお話ならってことか。Webの未来,XMLの未来について,あれこれしゃべっているうちに,だいたい次の連載記事の落としどころが見えてくる。XHTMLというHTMLとXMLのハイブリッドなマークアップ言語があるんだけど,その意義はことのほか大きい,というようなお話です。XHTMLは,技術的にはXMLなんだけど,意味的にはHTMLで,さらに今までHTMLが担ってきた役割を超える役割を,これからあらゆるコンピュータ/ネットワークにかかわる分野で果たそうとしているというお話。ホストマークアップランゲージとゲストマークアップランゲージというキーワードが出てきて,その目新しいタームに編集者的には大いに反応。最後には「夢物語を語るのは嫌いじゃないんだけど」という言葉で「夢を語ってくださいまし。ウチの雑誌はワカモノもたくさん読んでますから」と応じる。「夢」といっても,壮大な未来像に自嘲という予防線を張っているだけで,何年かで実現されるかもしれない,こんどこそ実現されるかもしれないと期待を持っていたりするわけだけど。
今日
読んだ『E-OILの誕生』は過去1年ぐらいで最悪の読後感。自分でもよく最後まで読んだと思うけど,すっごいイライラする本だった。同じようなことばかりくどくどくどくど……。これってちゃんと文章の推敲をする編集者の目を通ったのかなぁ。ほとんど同じ主張やセンテンスが個々に4,5回は繰り返されてるし,まったく全体的なまとまりがない。はっきり言って,10ページでいい。10ページであなたの言いたいことは分かりますって感じ。
信じられないような誤植もある。坊主憎くけりゃ袈裟まで憎いって話で,誤植もめちゃくちゃ気になるのかもしれない。でも,NASDACって何ですか? NASDAQでしょう? 10億トンのトン(t)が空白文字になっているのって,事故ですよねぇ……。あとがきのところでDTPソフトのゴミデータのような文字が印字されてたりするのも不慮の事故ですよねぇ……。
いや,違うな。やっぱり一番ぼくがイライラしているのは「21世紀は20世紀のリストラの世紀になる」だとか,「せんじつめれば環境問題は人間の欲望が原因だ」とか「大切なのは贅沢がかっこわるいという意識を広めることなのだ」とか,そういう環境活動家のクリシェっぽい発言の数々。具体的で論理的な説明より,畳みかけるように主張を押しつけてくる「言わなくても当たり前だろう」口調がイライラするんだな。ちょっと具体例を出したかと思うと,それに対して100の説教をたれる。
この本を書いた人の動機(幼少時に遊んだ琵琶湖の汚染に心を痛めて一念発起, 実業家として成功していた資産を売却して,リサイクル燃料の開発に身を投じたのだそうな)なんかは,別に胡散臭くもないけど,どうも「環境の話」ってのは,どうしたって胡散臭い。
とはいえ,地球温暖化という環境問題をのぞいても,ディーゼルが都民の健康を害しているというのは,ぼくはバイク乗りだから,ものすごく切実に感じている問題ではあるし,日本の運輸行政がディーゼルに偏重してきたってのもそうだと思う。そのディーゼルの軽油を,E-OILが置き換えることができる現実的な解だということも分かった。E-OILが,廃食用油のリサイクルで簡単に合成できるエステルだってのも分かりました。ところで,なんで繰り返しミョウチクリンな反応式が出てくるばかりで,本物の化学式を出さないんだ。「開発物語!」と帯にうたっているわりに開発のいきさつがまったくどこにも書かれてなかったしなぁ……。あぁぁ,だから何なんだよ,くそー。
読後感想を書くという習慣がほとんどないから,たまにそういうことをやろうと思うと,それなりにエネルギーというか,勢いがないといけないわけですが,それがこんなネガティブなものだというのは,ぼくとしては悲しいわけで……。
最近,眠れない。朝方,4時頃にお酒が抜けて,急に気分がシラッとしてしまうとそれから眠れない。で,ゆうべ眠れない床であれこれ考え事していてハッとしたことの1つ。
読めなかったハングル文字の謎が解けた。たぶん理解できなかったのは,書体の違い。たとえば「き」というカナも,左下の丸い肩があるのと切れてるのと2つの書き方があるのと同じように,書体デザインによって,違った形に思えただけのことかもしれない。
2000/01/08(Sat)
ランボー
ビデオ,『太陽と月に背いて』『ラウンダーズ』。
ラウンダーズって,駄目だと思いながらも賭けポーカーから足を洗えない法律学校の学生を描いた映画なんだけど,麻雀を知っている身からすると,どうもカードゲームって底が浅い気がする。表情を読みとるとか,見えているカードをすべて記憶するとか,総合的な判断だとか言っても,偶然や運に支配される要素が大きすぎ。「ポーカーはギャンブルじゃない,毎年世界大会が開かれている高度な技術を要するゲームなんだ」と言っていたけど,うーん。同じことを麻雀打ちは言ってる気がする。
マット・デイモンって,グッドウィルハンティングでもそうだったけど,ちょっと踏み外した天才肌を演じるのうまい。たぶん実物も,それに近いんだろうなぁ。
もう1つ,天才少年の映画。『太陽と月に背いて』は,あの
ランボーとヴェルレーヌの映画。16歳で傑作「酔いどれ船」を27歳のヴェルレーヌに送りつけ,20歳までには「ぼくの文学は終わった」と言って筆を断った早熟の天才詩人,ランボーのお話なのです。たぶん,ぼくが知る限り描かれていることのほとんどは実話とされていること。ヴェルレーヌと同性愛の関係にあったこと,ヴェルレーヌがランボーとの放浪の旅の途中で拳銃でランボーの左手を撃ってしまったこと,それによってヴェルレーヌが投獄されたこと,ランボーが実業家,開拓者としてアフリカにわたり,最後はマルセイユの病院で妹に看取られて若死にしてしまったこと,とか。「ぼくはもう死ぬ。だけど君はこれからも太陽の下を歩けるんだ!」とかなんとか,恨みがましいことを妹に向かって言ったとされるけど,そういうセリフはなかったな。じつは最後のほう,「言うかな,言うかな?」と思って見てたんだけど。すごく惨めなセリフだけに,是非とも言ってほしかったな……。
2人とも確かに雰囲気は出てる。けど,ヴェルレーヌはもっと言動が臆病ってイメージを持ってた。といっても,見たこともない人のことだから,何とでも言えるのだけど。
ディカプリオが演じるランボーは,結構ぼくのイメージに近い。いや言い方をかえるとランボーファンを自称するぼくのイメージを崩すことはなかった。でも,ちょっとハッとしたのは「ランボーって結局ガキだったんじゃないのか?」「底知れない才能を持ってはいたけど,やっぱりガキはガキだったんじゃないのか?」ということ。
映像ってやっぱり生々しいものがあって,想像だけで人物像を神格化するようなことが許されない。ヴェルレーヌや周囲の詩人を平気で「能なし」だとか「君は肉体も醜いが心も醜い」などと言って傷つけるようなことは,単にガキだったからできたことじゃないのかと思った。早熟の少年というのは,たいてい一時的には悪魔じみて見えるものなのだと思う。
思い出したように,ランボーの詩集を本棚から抜く。と,突如映画とは無関係のきわめて俗っぽい好奇心がむくむくとわいてきた。イルミナシオンという詩集の中に「大洪水の直後」という詩があって,その中に「野ウサギが1匹,岩扇と揺れうごく釣鐘草の茂みに来て立ち止まり,蜘蛛の巣ごしに虹に向かって祈りを捧げた」という一節があることを思い出した。「虹」をフランス語で言えば……,そう,L'arc-en-cielのはず。
フランス語版の詩集(つーか,ランボーが書いた言葉そのもの)を見てみたら……,あぁ,確かに「l'arc-en-ciel」となってる。うーん,なんだか妙な感じだ。
また夜更かししてしまった。
2000/01/10(Mon)
部屋探し
昨日に引き続いて精力的に部屋探し。バイクの機動力を生かして,ジュータン爆撃的に通勤経路にある不動産屋をはしごする。連休で休みの不動産屋も多い。
探している部屋の条件は「駅から遠く(バイクだから遠くて安いほうがいい),築10年以上(古いのは気にしない),日当たりが悪くて(どうせ夜のほうが生活時間が長い),エアコンあり,シャワーあり」といったところ。あまり長く住むつもりはないから,CATVとかADSLとかインターネット関係の条件は目をつぶることにした。都内なら,まあ今以上に条件が悪くなるようなところはあるまい。といっても,実は安い部屋だと未だに部屋に来ている電話の口がモジュラージャック(四角い口)じゃなくて,ローゼット方式(丸い口)のところがあって,ぼくが下見した部屋の5部屋のうち3部屋までがローゼット式だったから,そこのところは面倒はイヤなので譲れない。
昨日,3部屋ほど下見した中では環八と甲州街道の交差点にある雑居ビルのようなところに入った格安の部屋が一番気に入った。部屋は環八沿いで,本当にこの幹線道路沿いに建っているビルの1室。2重になっている窓を閉めていても,車の音が聞こえる。家具がない部屋ってのは殺伐として見えるもんだけど,それを差し引いても,どことなく人の生活のにおいがしない。やっぱり環八沿いなんて人の住むところじゃないような気もする。夏には車の熱気による上昇気流で,「環八雲」と呼ばれる人工雲までできてしまうようなゾーンだ。
でもまあ,たまにはこういうのも雰囲気があっていいものかもしれない。下見したのは夕方で,もう暗くなりはじめていた時間。カーテンがないから車のテールランプの赤い灯が,部屋にちらちら差し込んでくる。キレイなもんだ……。車の音,振動なんかは気になる人は気になるのだろうけど,ぼくはちっともかまわない(たぶん)。むしろ音で近所迷惑をかける心配がないというのは,都内の1人暮らしでは貴重かもしれない。
窓を開けたら,トラックの煤塵がもうもうと部屋に立ちこめそうなところだけど,どうせ窓なんて閉めっぱなしでいいんだ。そういうネガティブ要素があるから,ほかの条件がいい割に賃料は6万1000円と安い。「Mビル」という,およそ人が住んでる住所っぽくない建物名も,実は気に入った。
Mビルの件は保留にして,今日は当初のもくろみ通り方南町(ほうなんちょう)を攻める。地価等高線を地図に描いたら,新宿から伸びるJRや私鉄の沿線を尾根にして,たぶん,このあたりは谷になっているだろうという土地。
2部屋ほど下見して,良い部屋を見つけた。7.5畳の今よりちょっとだけ広めの洋室に,なぜか4畳半もあるロフト。こんなに広いロフトは見たことがない。ぼくは荷物持ちじゃない,というか,むしろ荷物なしのほうだし,いまある荷物の8割以上は捨てるつもりでいるから,ホントはそれほど広い空間は必要ないのだけど,生活空間と荷物を切り離せるのは悪くない。このロフトが決定打。たぶん,この部屋に決定。周辺を見てまわった感じ,街も悪くない。というわけで2月からは杉並区の方南に住むことになると思う。
都営丸ノ内線の方南町というのが最寄り駅。駅から徒歩3分。駅周辺の商店街はパチンコ屋ばかりで,もうひとつサエない気もするけど,たぶん住めば都なのだろう。途中で入った中華料理屋の定食はとてもおいしかったし,信じられないほど安かった。
新宿から丸ノ内線で1つ目にある中野坂上という駅から,全部で3駅しかない短い支線が伸びていて,その支線の終点が方南町。道路で言うと,環七と甲州街道の交差点から北に1kmほど上ったところ,環七と方南通りの交差点が,方南町の駅です。そこから徒歩3分。京王線を使ってる人なら,笹塚と中野の中間ぐらいといえば分かるかな。まあ,ともかくバイク乗りのぼくにはこの上なく便利な立地。公共交通機関だと,どこに行くにもまず新宿。その新宿に出るには乗り換えが必要で,距離の割にちょっと不便……,というのがミソ(これが地価等高線で谷になる理由)。新宿までバイクで15分ぐらいでいける。ということは会社まで15分ぐらい,夜なら10分ぐらいってところかな。まあ,地下鉄でも乗り換えの連絡が良ければ新宿まで12,3分のようだけど。
世田谷や杉並は,古くは外敵の来襲を防ぐ目的で作られた城下町で,それが現在一方通行の狭い道や行き止まりが多い理由らしい。車で世田谷の裏道を走ったことがある人なら,カギの字型に入り組んだ道を入った先が行き止まりだったという経験が1度や2度はあるはず。ぼくが見つけた部屋は,そういう行き止まりの1つに,ひっそり建っている一軒家。その1階部分を改造したアパートです。
今日の東京は雨上がりのさわやかな天気。少し湿り気のある空気を吸い込むと気持ちいい。じっと空を見上げる。そうしないほうがいいと知りつつ目を閉じてしまう。たくさんの思い出と,突然消えてしまった「明日」がまぶたに浮かぶ。あわてて目を開ける。ほんの数日前までとは,まるで違った世界がぼくの目に前にある。ほんの数日前まで,こんなことになるなんて思ってなかった。こんなに早く,その日が来るとは思わなかった。悪い夢を見ているようだ。
頭か身体を動かしていないと考えてしまう。考え出すと,涙がとまらない。
新しい街,新しい生活……。人生は同じ1年の数十回の繰り返しじゃない。生活は変わる。引っ越しの転機にあって変えることを望んだのは,ぼくだ。ぼくは人生の選択肢を選ばないわけにはいかない。だから,仕方がないんだ。いずれ,ぼくは1人で行くと決めていたんだから。
ぼくは確かに変わった。うん,ぼくの心はずいぶん変わった。でも,やっぱりぼくの考え方は変わらなかった。それだけのこと。それだけのことなのに……。
「今日」の延長線上にあったはずの「明日」……。あるいはまだ明日なら……。そう思っていた明日,いままでと変わらないはずだった,ぼくらの明日。それを突然終わらせてしまった。誰かの呼び声にビックリしてつまずく人のように,ぼくは未来からの呼び声につまずいたんだと思う。つまずいて初めて,もう時間がないことをはっきりと悟った。だからぼくは言えなくなる前に,言わなければいけないことを言ったんだ。ぼくにとっても,それは突然の決心だった。
もう先延ばしはオシマイだ。そう,ずっと先延ばしにしていたことに決着をつけただけ。ホントに楽しかった先延ばしの時間。でも,もう2人の時間にこれ以上の延長はない。もう少しの先延ばしが,長い先延ばしになりかねない。言った瞬間には後悔していたし,ずっと後悔するかもしれないと思ったけど,だけど,もう先延ばしにしたくはなかった。
失ったことと,失わせたことの両方が,左右から槍のように胸を突き刺す。彼女が明日の先に見ていたもの,あるいは彼女の明日の先に当然あるべきもの,そしてぼくが見ないふりをし続けたもの,その重みがとうとうぼくには耐えられなくなった。これ以上,違和感を感じたままの関係を続けるのも耐えられなかった。このままじゃいけなかったんだ。だからぼくは「未来」が手を延ばしてきてぼくらの明日を奪うのに任せていたんだ。ぼくはやっぱり1人で行く。ぼくにはまだ1人でやらなきゃいけないことがある。どんなふうになるか分からないけど,やりたいことがあるんだ。だから,仕方ないんだ。
突然のこんな話にビックリした人もいるかもしれません。初めて日記に書く彼女の話がこんな形になるなんて……。ぼくにしてみれば,この日記は前口上でも書いているとおり,本当にプライベートなことは書いていなかったし,これからもあまり書くつもりはないんだけど,読んでいるほうにしてみれば,かなり生活が手に取るように分かるように「感じられる」らしい。だからだと思うけど,あるときこの日記を発見したぼくの彼女は「日記に私の陰がどこにもない。まるで私ははじめからあなたの生活にいなかったようで何を信じていいのか分からなくなる」と寂しそうに言った。意図的に書いていないのはその通りだけど,ほかにも書いていないことはいくらでもある。プライベートなメールや電話なんかより,どうしてこっちの日記に書かれた生活が「主」だと思ってしまうのか……。いや,そう思うのはある意味では当たり前かもしれない。
だからもし,いまぼくがこの日記に何も書かなかったら,たぶん,これも見ることになる彼女は「本当に私はこの人の生活の中にいたのだろうか。ホントは私はこの人の横を通りすがっただけなのかもしれない……」と錯覚するかもしれない。それは全然違うよ。そういいたかった。ふつうのカップルみたいにしょっちゅうは会えなかったけど,それでも2年も一緒にいた,大好きな自慢の彼女だった。2人で過ごした楽しい時間と,もしかしたらもっと過ごせたかもしれない楽しい時間を思うと本当につらい。ぼくはすごく後悔することになるのかもしれない。そのくらい彼女はぼくの中にいた。
電話から聞こえる彼女の嗚咽と,それまで聞いたことのなかった彼女の深い想いから出た言葉に,ぼくは魂をぎゅっと握られた思いだった。もっと早く言ってほしかった言葉もあった。だから本当のところ,どこまで近づけたのか分からないけど,ぼくの魂は彼女の魂と確かに響きあっていたと思う。2人が思っている以上に深く響いていたと思う。会えないときにでも,彼女は本当にぼくのそばにいた。静かに寄り添ってくれる彼女,にっこり笑って甘えさせてくれる彼女を,ぼくは愛していたと思う。
いつでも手をつないでくる彼女が好きだった。彼女のはねた髪,丸い顔が好きだった。丸いおでこ,柔らかい頬が好きだった。優しい声が好きだった。陽気な話し方が好きだった。彼女の歌声が好きだった。何度でも耳掃除をしてくれる彼女が,彼女のひざまくらが好きだった。背中を指圧してくれる彼女が好きだった。嫌がるぼくのお尻を指圧してくれる彼女が好きだった。どんな映画でも解説をしてくれる彼女が好きだった。ぼくのために料理してくれる彼女が好きだった。たまに,口をとんがらせて怒る彼女が愛おしかった。ぼくの冷たい言葉に目を潤ませる彼女が心底愛おしかった。ぼくの話を一生懸命聞いてくれる彼女が好きだった。ぼくに一生懸命近づこうとしてくれる彼女が好きだった。少し酔ったときの彼女の屈託のない話し方が好きだった。彼女と笑いあっていられる時間が本当に好きだった。彼女となら,いつまででも笑っていられるのだと,何の理由もなく思うようになっていた。
のろける気はないし,いまさらのろけても意味がない。ただ,本当なんだよということを伝えたかったから,この場で書いただけ。誰に,どう思われてもかまわない。でも,2人だけしか知らない幸せな時間が「ぼくの現実になかった」かもしれないなんて,少しでも彼女に思わせるとしたら,それはぼくには耐えられない。だから,ここに書いてしまっただけ。
もう2度とこのことは書かないし,もしかしたらすぐに消すかもしれません。何の因果か読まされてしまった人にはお詫びします。
2000/01/18(Tue)
多宇宙理論と量子コンピュータ
午後一番で,不動産屋に書類を取りに行く。昼ご飯を食べにジョナサンに入る。メニューを開いてから,ポケットに1000円ちょっとしか残ってないことに気づいた。あわてて「用事を思い出したのでごめんなさい」と出てきてしまった。別に1000円で食べられるものもあったのだけど。
方南町のマクドナルドでチーズバーガーをほおばりながら,読書。去年の暮れに邦訳が出て話題になった,理論物理学者,ドイッチュの本。まだ読みかけだけど,ぼくには強烈なインパクトがありそうだ。量子コンピュータのアイデアの本質を初めて知って,かなりビックリ。πの計算は10の50乗桁以上はできないんじゃないかと
思っていたけど,どうもそうじゃないかもしれない。
量子力学の方程式が記述するのは,直接観測可能な宇宙だけではなくて,互いに干渉しあう複数の平行宇宙からなる多宇宙だという理屈が,量子コンピュータのアイデアのベース。計算に利用可能な資源は,10の500乗のオーダーにもなるのだとか。うーむむむ……。
それにしても,どうして今まで誰も(大学のときの教授でさえも。あるいは教授だからこそ,か?)観測問題に対する答えに,「多宇宙」という説明がありうるのだと教えてくれなかったのだろう。これほどすっきりと観測問題に対して納得できる説明は,ほかに知らない。そうか,宇宙は無限に連なる平行宇宙の束としてとらえた方が,ずっと合理的だったのか。やっぱり神はサイコロを振らないのか。
生命の本質は知識。知識とは多宇宙の中に,平行宇宙を貫く形で結晶のように見える「構造」にほかならない。うわああああ。こりゃすごい発想だ。しかもすごい説得力。ペンローズのツイスター理論みたいな理論的小難しさもなく,非常に面白い。子どものころに考えた,子ども故の哲学的な疑問にも見事に答えてくれる本になりそうだ。次々とビックリするようなアイデアが連発で飛び出してくる。最終的にそれらのアイデアが1つにより合わさって「世界のすべての説明」が可能になるという。確かに,「もしかすると世界は説明可能なのかもしれない」と思わせてくれる。少なくとも書いた本人が「説明できると信じていること」を,ぼくは信じられる。
雑誌で編集を担当していた連載が単行本になった。『ロボットにつけるクスリ−−誤解だらけのコンピュータサイエンス』(星野力著)の見本誌が,今日刷り上がってきた。宣伝モードで
読書棚に追加しておこう。まもなく上梓予定なのです。改めて読み返してみても面白い。表紙の絵もかわいくまとまっている。
夜,久しぶりに会う元同期とビール。あれこれ話す。話しすぎた気もする。考え込む。
2000/01/21(Fri)
文字コードといえば,あの人
午前中は編集長のお供でTRONプロジェクトのS先生を訪ねる。そう,あのS先生です。細かいことを言えばいろいろあるけど,ともかく印象はとっても良い。本当に愛すべき人なんだと思う。良くも悪くもピュアな人なんだ,きっと。その昔,S先生の率いるプロジェクトをツブすべく暗躍した米業界人が,どんなにスキャンダルを探しても金も女も何もやましいところのない,きれいな身体の人だったという噂があるというのもうなずける。
やや議論が雑駁な印象を受けるものの,いまや若者でさえみせないような熱っぽさで,語る語る。批判的な意見を,やんわり遠回しに,ウブな質問を装って聞いてみたけど,きわめて複雑な現実に対して美しすぎるほどシンプルな理念で答えられてしまった。どうにももう議論の次元が違ってる気がするけど,アレはアレでいいのだと,そう思えてきた。
とはいえ,文化の中心を担う「言語」,その書き言葉がデジタルに乗ろうとしている今,そのコード化は社会的コストに直接影響してくるので,理念的な主張が中心の荒っぽい議論は許されないとも思う。
S先生は,JIS第3,第4水準漢字の,もう1人のS先生と猛烈な論争をネット上で繰り広げたことがあるというけど,ぼくが聞いた限りでは,2人の主張は根っこのところ,かなりの部分で一致している。ついでに言えば,ぼくが会った多くのUnicoderとも,理念的なところでは一致している。「自分たちの文化を守らなければならない,地球上の文化の多様性を守らなければならない」,そういうこと。当たり前のこと。結局,現実に対する認識とアプローチの違いなのだ。なのに,「文字の議論」は,つい理念的なことのやり合いになりがちだから,いつも「不毛な話」と思われてしまうのじゃないかと思う。「君は文化を破壊されてもかまわないというのかっ!」とか。誰もそんなことを言ってないのに。
議論の焦点はコスト以外にあり得ない。いや,「コストとのバランス」と言わなければ,鈍感な人たち,技術に無理解な人たちの猛烈な理念的反発にあってしまう。コストなんて一番最後に考えることで,まず文化を守ることが先決だっ! ということを言う人たちがいる。違う。そうじゃない。文化を守る究極目標自体,それもコストなんだから。ただやみくもに文化が文化がと叫ぶ文化ロマンチシズムは,ぼくが見るところ,偽装したテクノロジー恐怖症であったり,自分の無理解を恥じようともしない劣等意識が偽装していることが多い。
「言葉」というもの,母語というものは,誰にとっても,その人のアイデンティティそのものを担っている。だから,言葉の議論というのは,いつでも熱くなってしまう。それは日本だけじゃない。だけど,思うに,技術に疎いまま理念に燃えたメディアの責任は重い。「漢字文化を守れ」とナショナリズムをあおるだけあおって,売れない作家たちと結託して嘘八百をバラまいた。しかし,最近,そうした嘘の拡大再生産が以前に比べて収まってる気がするのはなぜだろう。