the other side of my days
ご意見,ご感想,ごいちゃもんなどございましたら
NISHIMURA Ken <nis@bigfoot.com>まで。


1999/11/01(Mon) 逆行
1999/11/02(Tue) 文化の日
1999/11/05(Fri) 後悔
1999/11/07(Sun) 原稿はね
1999/11/08(Mon) 英語始めるかもしれません
1999/11/09(Tue) 人生は明るいぞ
1999/11/11(Thu) 5年に1度の
1999/11/15(Mon) 実家
1999/11/16(Tue) 役人の悪文を見て思う
1999/11/17(Wed) へこんだり
1999/11/19(Fri) 最近眠くなるのが早くて
1999/11/20(Sat) 無限に計算はできないから
1999/11/22(Mon) 懐かしのキャンパス
1999/11/23(Tue) 原油価格高騰
1999/11/24(Wed) 雨
1999/11/25(Thu) 電子書籍端末で「あしたのジョー」
1999/11/26(Fri) 本のタイトル決める方法
1999/11/27(Sat) 大阪人
1999/11/28(Sun) Pileups
1999/11/29(Mon) 42冊の三島由紀夫


1999/11/01(Mon)

逆行

天空上をほかの星と違った動きをする惑星のように,朝,駅へ向かって流れる人の群の中を,さまよい歩く。

1999/11/02(Tue)

文化の日

出版事業は文化の一端を担っているのです。なんてことが言われることもある。つまり明日文化の日で,それは出版社の人間は働けよという意味なのでしょう(涙)

これだけは手を出すまいと思っていた,am/pmのレンジでチン系の総菜に手を出し始めた。からあげ,スペアリブ。スペアリブは意外にうまい。でも,身体に悪そうだ。

数年前に書いた自分の文章をみて,ちょっとびっくりした。荒削りで,はちゃめちゃなんだけど,面白い。「ああ,こいつ馬鹿だぜ。ちょっと,おかしーぜ」とか,自分で吹き出すほど。リズムもいいし,なんたって勢いがある。いつの間に僕は穏当な文章しか書かなくなったのだろう。そう思って,ここらで一発はぢけなおしてみるかと思う今日この頃。

1999/11/05(Fri)

後悔

毎月1回は,こんな仕事を選ぶんじゃなかったと思う。1回といっても,1時間とか1日とかじゃなくて,数十時間,そう思い続けるわけです。下手したら百数十時間ぐらいは「あぁ,なんでこんな……」と思って仕事をしている時間があるのです。
うーん。うまく原稿がまとまらんのだよ。書きすぎてページから,あふれまくり。

1999/11/07(Sun)

原稿はね

一応ひとおり書き終わって,朝帰宅。夕方には会社に戻って,月曜日の朝に全部終わるかな。ようやく。

1999/11/08(Mon)

英語始めるかもしれません

ふと舞い込んだメールを見て,日記に英語を加えてみる気になった。はっきし言って,英語で日記をつけようなんざぁ,無謀なんだけど,いろいろ考えると,少しくらい頑張ってみてもいいのかも,と思ったのでした。たぶん英語の方は一言か二言だけになるけど……。

というわけで,仕事が終わりました。長かった……。眠い。何と10月末から合計5日も連続で休日出勤してることに気づいた。
ゲラ待ちしている間に『ナスダックの野望』(仁科剛平),『πの秘密』(デビッド・ブラットナー),読了。πが計算されてきた歴史とか,びっくり話とか。楽しいやね。100万桁の数字が全部印刷されてるんだよね,各ページに。数字の並びが,余白スペースを埋めてて,それがいい感じのデザインになってるんだよね。これが編集者の仕事かって思った。でも,ちゃんと校正してるのかな。100万桁目の数字って知ってる? いや,4000億桁目の数字が,すでに計算されてたってしってた? 123456789って並びが最初に出てくるのって,5億2333万1502桁目って知ってた? 驚き? 10の51乗桁以上は計算できないって話を読んでふと思い出した。無限に続いていて完全にランダムに見えるπの数字の並びの中に源氏物語は出てこないんだよね,きっと。ということを以前考えたことがあって……。まいーや,眠いから寝よう。

1999/11/09(Tue)

人生は明るいぞ

12時間以上寝てしまった。すごいさわやかな朝。晴れてるよ。今日はやんなきゃいけないことは,何もないぞ。仕事休もう。なんだか世界が変わってしまったように感じるぐらい,幸福な朝だ。馬鹿やんか。

1999/11/11(Thu)

5年に1度の

ゆうべは飲み過ぎたらしい。5年に1度の二日酔い。昼過ぎまで胸やけが残ってた。それなのに,夜はまた飲んでしまう。いや,もう朝だ。9時に始まった打ち合わせが,3時過ぎに終わったんだもん。

1999/11/15(Mon)

実家

週末は実家の熱海に。

1999/11/16(Tue)

役人の悪文を見て思う

年末調整の申請用紙をみて,ふと思った。「保険」って,生命保険とか火災保険だけで,ぼくのバイクの保険は控除対象にならないの? まあ,ふつうに考えたら駄目だよなとは思いつつ,裏面にある説明を読んでみた。これが,びっくり。昨今まれにみる悪文。日本語はここまで意味不明に書けるのだという例文のようなもんだな。以下,引用。テンマル(、。)をカンママル(,。)にした以外は句読点など原文のまま。
損害保険料控除の対象となる損害保険料とは,あなた又はあたなと生計を一にする親族の家屋で常時その居住の用に供しているものや,これらの人の生活に通常必要な家財を保険又は共済の目的とする損害保険契約,火災共済契約などの損害保険契約等又はこれらの人の身体の障害に基因して,あるいはこれらの人の身体の障害若しくは疾病により入院して医療費(医療費控除の対象となるものに限ります。)を支払ったことに基因して保険金や共済金がしはらわれる損害保険契約等に基づき,あなたが本年中に支払った保険料や掛金をいいますから,損害保険会社等が発行した証明書類などによって,控除の対象となるものかどうかを確認してください。
もし,これを読んだお役所関係の方,とくに国税庁か国税局か税務署関係の方がいたら,意味を教えてください。教えてもらった上で,編集者のはしくれとして赤を入れてお返しいたします。といっても,斜めに1本,線をひっぱって「意味不明」と書いて突き返すだけですけど……。ちょっと厳しい編集部だったら,「うんこ」とか「ばか」とか,そういう赤が入るね,間違いなく。
あ,ちなみに「赤を入れる」というのは,校正するときとか文章に修正を加えるときに使う業界用語で,ホントは「朱を入れる」と書いたほうがいいのかな。余白に文字直しや指示を赤ペンで書き込むことから,こう呼ばれています。校正刷りのことを「ゲラ」と呼ぶんで「ゲラにアカを入れる」などと言います。なんだか,知らない人が聞いたらお寿司屋さんの板前さんのセリフみたいかもしれません。それはともかく……。
実際,この申請用紙の文章は救いようがない。これ1センテンスなんだよ。信じられん。この文は要するに「控除の対象となる損害保険料というのは,基本的これこれの種類の保険のかけ金のことなんだけど,まあ保険会社の書類で確認してね」と言ってるんだね。それしか言ってない。それだけのことなのに,読む気をゼロにさせる冗長さ。書く人は1人だけ,読む人は何万,何十万,あるいは何百万もいるんだから,理解しようという努力を何百万人がするより,理解しやすいようにと,1人が一生懸命努力すべきだと思う。そういう意識がない人間は,たとえ法律の条文なんかであっても文章を書く資格はないと思う。ぼくは,この申請用紙の不可解な文章のために,少なくとも1分以上は仕事を中断した。そうでなくても「メンドクセー」と思っているのに,裏面を見た瞬間にくらくら来た。くらくら来た勢いと,言葉を扱ってるという編集者の職業意識から,こんな文章をWeb日記に書くハメにも陥ってる。どうしてくれるんだ,国税庁。
ところで,具体的に赤を入れるというのが,どういうことか知らない人が多いと思うので,ちょっとさわりだけ上の文章にたいしてやってみるとですね。ぼくならまず,冒頭に「センテンス死ぬほど長い。要領よく」とデカデカと書く。このとき,感情を込めて書き散らすような筆跡で赤を入れるのがポイント。がつーんと。
それから1文目に横線を1本入れてうち消して「具体例をいくつか挙げる。箇条書きに」と書く。具体性がない原稿は手抜きがバレバレ。曖昧な表現で解釈に多様性を残し,逃げ道を作るようなことをしても読者は見抜きます。いや,少なくとも編集者は見抜いてつっこみます。「ちゃんと書け」とね。なんかトラブったとき,文句言われたときに言い逃れすることしか考えてない連中の文章ってのは,ホントにイライラするものだよ。
漢字の使い方もひどい。ひらがなと漢字の割合って,時代や好みで変わってくるけど,これはそれ以前の問題だな。「又は」は「または」に開く。いまどき「または」って漢字で書くやついるか? 「基因」にも赤を入れて「起因」にする。岩波国語辞典には「起因」はあっても「基因」はのってなかったよ。「若しくは」も「もしくは」に開く。「基づき」も「もとづき」に。「掛金」は「掛け金」か「かけ金」だね。どうしてこういう日本語を平気で世の中にばらまけるのか。
もしこれが駆け出しライターの文章だったら本人のためにも「売文業に向いてない」ことを悟らせるような赤入れをする。具体的には,赤入れが終わった時点で余白がびっちり真っ赤な文字で埋まっていて,元の文章を書いた人が,もう見るのもうんざりって気分になるぐらい真っ赤にする。元の文章から1,2文字を残して,その他いっさいが残らないぐらいの変更を加える。
でも上の文章は,もし書いた人というのがいるとしたら,才能はある。悪文ではあるけど論理的なエラーはないからね。これだけ長いセンテンスで論理が破綻しないのは,すごい才能っていえる(ありえないけど一気呵成に書いたとしたらね)。長い文ってのは,ふつう文章を書き慣れない人が書くもので,そういうのはだいたい骨格が折れてしまってるんだよね。途中で副詞の呼応が忘れられたり,論理構造がねじけてしまったりしてしまう。たとえば「少しも〜〜ない」という構文って,後ろに否定が来るというのは誰でも知ってるし,知らなくても,そういう言葉を使ってる。それが「少しも」と書いた後に長々と書き連ねている間に「少しも」を忘れて「少しも〜〜だが,〜ともいうことができ,また,〜〜であるのだ」とかで終わっちゃうパターン。それと,文章が長くなるのはダングリングといって,追加的にセンテンスに節や語句をぶら下げていった結果,本人ですら整合性がとれなくなるというパターンが多い。あれも言わなきゃ,これも言わなきゃと,つぎはぎだらけの文章になってしまうパターン。どうも,上の文章は構造的に言ってもダングリングの最悪形態といえそうだ。
ホントはぼくは悪文を見ても吐き気を催したりしないのです。むしろ最近は平気で悪文を見過ごす癖がついた気さえします(自分の文章を含めて)。この申請書の文章を見て,ぼくはかなりイライラしたんだけど,その原因は悪文そのものではなくて,この悪文が生まれた背景が何となく分かる気がしたからなのです。
漢字の使いすぎが気になるって指摘したけど,この文章,漢字だらけの割に,1カ所「しはらう」がひらがなになっているのが目を引く。しかも,直前には「支払う」と漢字で書かれている。ずいぶん一貫性に欠けるじゃないですか。これは,この控除される保険についての解説文が,1人で書かれてるわけじゃないってことを示している。 つまり,誰かがたたき台を書いて,誰かが赤を入れた。いやむしろ,この文章って,すでに使い回されてきた過去の文章に,何人かが,あーだこーだ言いながら赤を入れていって,手術した結果出てきたものじゃないかと思う。だからこの文って,つぎはぎだらけのフランケンシュタインみたいな印象があるんだね。
つまり,こういうこと。馬鹿みたいにさ,たくさんの人間がよってたかって,守りに入った文章をつつきまわしている姿が見えるよ。能なし役人だよ。しかつめらしい古くさい言葉を使い続けていることから,プライドが高そうなことは分かる。微妙にくだけた表現が混ざっていることから,サービス精神というものが,どこからともなく彼らにおしつけられはじめているのじゃないかということも分かる。でも,決定的に駄目駄目なのだ。
税金を払っている国民,忙しい中,申請書のフォーマットにしたがって書類を作ろうとしているサラリーマンの理解を少しでも助けるような文章を書こうと,本気で思ってたら,あんな文章は出てこない。ともかく,面倒なことに巻き込まれたくない。面倒な問い合わせに答えたくない。責任はおいたくない。ただただ,それだけ。
本当にぼくをいらつかせるのは,そんな役人たちの態度でも,彼らの作った悪文でもない。必然的に悪文を産み落とさざるを得ない,そのシステムだ。

1999/11/17(Wed)

へこんだり

仕事でちょっとポカしたらしい気配……。あれにもこれにも追われてる気がするのに,その上にポコーンとくらってしまって,へこみ気味。朝,あんなに気分が良かったのに。いや天気が良かっただけか。夜になって咳が出てきた。やだな,風邪かな。

1999/11/19(Fri)

最近眠くなるのが早くて

なぜか年末調整申請書について書いたぼくの日記にたいして, 感想メールがいくつか来た。うーん。さらに,あれこれ思うことがあるけど,眠いので,そのことはそのうち。
ひとつだけ補足すると「基因」という表記は岩波国語辞書に載ってないんですが,ATOKやIME2000では変換できます。手元に広辞苑はないけど,たぶん載ってる。「帰因」というのも載ってるかも。でもですね,朝日新聞社,共同通信社の記者ハンドブックを見ると「基因→起因」という統一規則が載ってるわけです。そんなの編集者なら,見なくても分かり切った規則なんです。だって,起因以外のキインって,最近見たことありますか? つまり岩波国語という割と小さな国語辞典ですけど,それに載ってないことをもって,間違ってるということを指摘する気はぼくにはさらさらなくて,ちょっとましな世間的な言語感覚をもっていれば「基因」は「起因」に書き換えるぐらいはするだろうってことなんですね。ちょっと微妙な例だけど「充分→十分」とかと同じ。もっと例をあげると「機智→機知」だろうし,「昂揚→高揚」「涸渇→枯渇」なわけです。こういう表記を見て,こりゃ古いぜと思ったり,そうじゃなくてもどっちだろうなぁと立ち止まって考えたり,辞書や記者ハンドブックを開いたりしないとしたら,少なくとも校正や編集者の仕事はできません。そういう意味で「基因」はやっぱり,マジかよって感じなのです。いや,こだわりがあるっていうなら,いいんですけどね。じつは「高揚」は,ぼくは「昂揚」のほうがシックリ来るし。でも,赤は入れるよ。

1999/11/20(Sat)

無限に計算はできないから

「人類は永遠にπを10の51乗桁目まで計算できないだろう」という話があるって『πの秘密』にチョロっと書かれてたんだけど,それがどういう理由でそうなのかは書かれていなかった。でも,それはたぶん,こういう理由じゃないかと思って自分では納得したのでした。
10の51乗桁という数字は,それはものすごい大きさなわけです。『πの秘密』という本は200ページちょっとの本なんですけど,そのページ全部にぎりぎり虫眼鏡なしで読めるぐらいの大きさで数字がビッチリ並んでいるんです。本文の書かれていない余白や,デザインスペースに。それでやっと100万桁(10の6乗桁)全部を印刷できてるんですね。
で,そうやってページに数字が並んでいる姿を想像します。そういう本が100万冊売れたとしましょう。100万冊といえば,戦後トップ10に入るベストセラーになるから,まあ,ほとんどの人の家の本棚に飾られているレベルだと思って間違いありません。そうすると,100万×100万で,日本国内に1兆桁の数字がばらまかれることになります。
そうやってばらまかれた膨大な数の数字(1兆個)の10倍の数の数字を想像します。世界各国でベストセラーってわけです。もう世界中πの数字だらけ。で,その状態の1億倍の数の数字を想像します(できるわけがないけど)。その100億倍のさらにそのまた1000億倍。さらにそれに1兆をかけて続いて10兆をかけて,最後に100兆をかけたぐらいの個数の数字が並んでいる姿,それが10の51乗桁という数字。要するに人間に考えられる数字の大きさなんてとっくに超えてるわけです。で,そのくらいの大きさになると,人間の想像力を超えるのは当たり前として,この世界の限界も超えてしまうんです。
たとえば数字1つの幅を1ミリとして紙に印刷すると,10の51乗桁という数字の列が,どのくらいの長さになるかっていうと……。
その前に1ミリ幅の数字の列が地球を1周するというのから計算すると,それは4000億桁になるんですね。いまのπ計算の世界記録が800億桁とかだから,人類が計算した分だけでは,まだ地球を半分も回れないわけです。
いっきに桁をあげるために,今度は地球から太陽まで1ミリ間隔で数字を並べていくことを考えると,だいたい400兆桁。そりゃまあすごいことでしょうけど,それでも10の15乗桁。太陽と地球を往復するたびに1ミリの幅で数字の列が,2列,3列と複数列になるようにして数字の川を作っていくと,幅1kmの川になった時点で,400兆×100万桁。もう桁の数え方がよく分からないぐらいだけど,それでも階乗で表現すると,まだ10の21乗桁。
10の51乗って数を10の21乗と比べると,51と21の関係から,もうちょっとって気がするかもしれませんけど,もちろん全然違います。
銀河系の直径が10万光年。宇宙の果てまで,多目に見積って150億光年。仮に宇宙のはじっこからはじっこまで1ミリ間隔で数字を敷き詰めると(宇宙の果てに壁みたいなものがあるわけじゃないけど),1光年は約10兆kmで1光年あたり10の19乗個の数字が置けるから,だいたい10の30乗個。宇宙のはじからはじまで数字を書いていっても,まだ10の51乗桁には全然足りないわけです。
スペースがないのなら,今度は詰め込むことを考えて,数字を小さくしていくとどうなるか。1ミリ幅の数字を千分の1ミリとか1万分の1ミリとかにしていく。ところが小さくしていくといっても限界があって,ミクロ加工技術がどこまで進んでいったとしても,とりあえず水素原子の大きさが最初の壁になるだろうから,せいぜい1000万分の1ミリ程度。すると,水素原子サイズの幅で宇宙のはじからはじまで数字を書いたとしても,10の38乗個しかかけない。
数字の列を「線」じゃなくて「円柱」にして3次元的に詰め込めば,まあ10の51乗桁も入るでしょう。でも,問題は書き込むスペースだけじゃないんです。数字はインクで書くのか何で書くのか分かりませんが,まあとにかく書き留めるには「物質」が必要です。宇宙全体には10の80乗個ほどの原子があるんじゃないかという試算があるんですが,もしそうだとすると,10の51乗桁のπを「見える」数字に書くにはどれくらいの「物質」が必要になるか? たとえば1個の数字を表現するのに原子を10の29乗個程度(車1台分ぐらい)使うとしたら,それだけで全宇宙の物質を使い尽くしてしまうことになります。
コンピュータのメモリ中や脳内にだけ数字を蓄えるとしても,やっぱり「物質」は必要で,それなりのスペースが必要になるから10の51乗桁のπは記録できない。
たとえ物質が無限に存在するとしても,計算するための時間も十分にありません。計算するというのは,人間の頭の中だろうとコンピュータの中だろうと,それは電子の流れで,ともかく物質の状態制御・変化なわけです。電子以外の素粒子を使う可能性を含めても,当然そこには速度の限界があるわけです。1桁計算するのに,これ以上速く計算できないという限界がある。そして宇宙の時間は無限ではない。だから,無限の桁数を計算することはできないというわけです。たとえば,現在の物理学(テクノロジーじゃなくて)で扱える最小の時間単位であるプランク時間(10のマイナス34乗秒だったかな)で1桁計算できるとして,宇宙が生まれてからずっと計算してきたとしても,宇宙の年齢が10^17乗秒ぐらいだから,,,。あ,10の51乗桁だ。
3次元回路で計算を並列化すれば,もっと速く計算できるに違いないけど,そうすると,今度は消費エネルギーをまかなえなくなるに違いない。
いずれにしても「人類は永遠に10の51乗桁目は計算できない」といっているのは「無限に計算ができるわけじゃない」ということを言っているだけなんです。時間もエネルギーも物質も有限なのだから,当たり前といえば当たり前です。
不思議なことだけど,観念的にπは無限に続く数字の列であっても,実際に立ち現われるときには,それは無限ではありえない。πの小数点以下,ちょうど10の51桁乗目の数字は演繹的な直感から誰でも0から9までの数字のどれかだと思っているし,それは計算できないんだと教えられても,確かに「0から9の何かである」と考えると思うんだよね。ホントにそうだろうか?
ぼくらの宇宙の中では10の51乗桁目は「原理的に計算できない」のだから(途中を飛ばして51乗桁目をズバリ計算できる方法が発見される可能性はあるけど,51乗桁までの数字の総和の1の位の数字という表現に置き換えれば,やっぱり無理でしょう),それが10進数でどの数字であるのか,という問いは,そもそも意味をなさない。卵を生まない象を目の前にして,「象が卵を生んだらどのくらいの大きさか」と問うようなもの。
……とかね。無意味なことを考えてしまった。ホントは最近「選択公理」ってものが気になってるんです。無限の手続きを必要とする数学上の公理のことで「万能の神」の存在を仮定しているっていうんだけど……。「無限」のことについて,わかりやすく書かれたいい本がないかなぁと思ったりするのでした。

1999/11/22(Mon)

懐かしのキャンパス

深夜,帰宅するとなんだか部屋の雰囲気が違う。何だろう。留守電なし。暖房もちゃんと切ってでかけてある。誰かが忍び込んだってわけでもない(けど,相変わらずすさまじく散らかった部屋)。まあ,細かいことは気にしなくていいかと思って,ふとPCにふれようとしてやっと分かった。PCのCPUファンが回っていなくて,静かだったんだ。
365日24時間,PCの電源は入れっぱなしだし,そのうち半分ぐらいはケースが空いているから(基盤がむき出しってことです),ぼくの部屋は結構うるさい。でも,それも毎日聞いていると,それなりに慣れてしまう。逆に突然部屋が静かになると,これも結構不気味なもの。
今日,埼玉あたりで自衛隊の訓練機が落ちて,高圧線をぶったぎったみたい。関東のかなり広い範囲で昼ごろ停電したらしく,うちのある世田谷も被害に遭った。うーん,安定して動くと言われている,さすがのLinuxも停電じゃあどうしようもない。うちのLinux,もう1カ月以上もノンストップで動き続けていたんだけど。

午前中,ちょっとワケありで懐かしの大学キャンパスへ。会社からバイクで15分ぐらいだから,本当に目と鼻の先ってぐらいのものだけど,さすがに長らく行ってなかった。もしかすると,卒業以来,足を踏み入れるのは初めてかもしれない。もう5年近く経ってるんだなぁと思いながら,狭いキャンパスを歩いていると,昼休みの時間になって学生たちがあふれ出してきた。
まったく都合のいい想像だけど,ぼくは,ぼくが知るかつてのキャンパスとあまり変わらない姿がそこにあるだろうと思っていた。あまり変わらない学生たちの姿,そして今でも違和感なくそこに自分が入っていけるのじゃないかと,漠然と想像していた。
うん,違うんだね。変わったね。当たり前だけど学生たちの着ているものとか髪型なんかは変わった。しゃべっている内容とか,けだるそうな態度とか,そういったことはあんまり変わらないし,いかにも無為に時間を過ごしているような感じの学生が多いことも,ぼくらのころと変わらない。ただ,そういうのを見るときのぼくのほうが変わってしまったような気がする。とにかくみんな子供に見えるんだ。彼らが。そして,自分がずいぶん年をとったような気がして,ちょっと気後れしてしまったよ。もしかして,ぼくは浮いてるんじゃないかって。
生協とか学食(カフェテリアというんだけど)は変わってなかったな。ひさしぶりにカフェテリアのトンカツを食べてみた。懐かしい。学生たちの大量の注文をバンバンさばく,カツコーナーのおばちゃん2人組みも健在だった。相変わらずリズムよく身体をふってトンカツに包丁を入れてたよ。そんなカフェテリアで昼ご飯を食べてると,いまにも誰かに会いそうな気がしてくる。「あ,けんちゃん。次の講義出る?」「お,久しぶり。最近サークルで見ないね」「午後の熱力は休講だって! 麻雀行こうぜ」「今度,合コンやるんだけど,人数あわせで出てよ」「ニシケン,コータ見なかった?」……,そんなのとか。もはや誰も知り合いなんていないはずなんだけど(そうでもないか)。
「卒業生なんですが,成績証明書をもらうにはどうすればいいんでしょう」「学籍番号は?」「えーと,ちょっと覚えてません……」「91年入学の物理学科ですか。それならG,1,M……」「あっ,G1M035-0です。思い出しました」「あははは(笑)。10分で発行できますから,おかけになってお待ちください」。受け取った成績証明書を見てみると,ぼくの大学のときの成績は不思議とそれほど悪くない。科目ごとにムラはあるものの,自分の記憶にあるより成績が良かったことに,ちょっと驚いた。
学校での用を済ませて,すぐに出社するつもりだったんだけど,何となく足が向いて,大学の卒業研究のときに,お世話になったO先生を訪ねてしまった。デキの悪い学生だったし(というより顔を見せない学生だった),「数学は紙と頭を使うものだ」っていう先生の言葉も聞かずにコンピュータに計算をやらせてお茶を濁したようなぼくだから,なんだかまだ「君はしょうがねぇな」と言われそうな気がして,ちょっとドキドキ。ぼくは面接を受ける学生のように緊張して,先生のいる小部屋の扉をノックした。
すかさず「ごぶさたしております,西村です」と名乗る。名前を覚えてもらえてなかったら悲しいし,相手に思い出す苦労をかけることもない。こういうときはいつもさっさと名乗ることにしている。相手にどんな表情をさせる暇も与えないぐらい素早く,思い出してもらう材料を持ち出す。まあ,今回は杞憂だったみたいで,先生のほうはずいぶんいろいろと覚えていてくれたみたい。
「どうした? 何か相談事か?」と,先生は忙しそうに書類からちょっと目を離してこちらを見る。「いえ,近くまで来たものですから,ちょっとご挨拶に……」と,ぼく。「そうか,それなら,そっちの席で」といいながら先生は立ち上がり,席を勧めてくれた。本当にちょっと挨拶だけと思っていたから,恐縮してしまってすぐに立ち去ろうかと思ったけど,それもまたなんだか申し訳ない。結局,忙しい先生を捕まえる形でぼくは先生と話していた。
仕事のこととか,PC業界,出版業界のこと,パソコンのことを,先生に質問されて答えたりしていくうちに,「曲がりなりにもプロなんですよ」と,ちょっとだけ偉そうな顔をして答えたりしているぼく。だんだん調子に乗って,こんなことを言ってしまったのだ。
「取材に行った先で,たとえば光ファイバの要素技術といって数式を見せられても,さすがに平気なんですよ,やっぱり物理学科だったからってあるのかもしれません」。「あぁ,光ファイバはあれだろう。非線形のシュレディンガー方程式で,uの二乗の形じゃないか?」。「え? あ,あーっ,,,ええ,えぇ。たぶん,そんなだったと思います。いま光通信の世界ではソリトンを応用しようとしているみたいですね……(汗)」。
卒論のときにぼくが計算した方程式について,解析的な研究(紙と鉛筆の研究)で新しい進展があったということを聞いた。どうやら,ぼくが計算に使った方法論は,その方程式にはあまり適していなかったかもしれないということも聞いた。卒業研究発表の数日前,数十時間かけて計算した結果を3次元のグラフに描いていくうちに,ぼくが最後に感じた結果,「この解は激しく振動してるのかもしれない」ということについて,あらためて先生に聞いてみたら,「我々の予想ではそうならないんだよ」と軽く否定されてしまった。ははは。
ぼくの計算の跡を継いで,今年計算を続けている学生がいるという。それがなんと,ぼくと同じ学年だったH君だったと聞いてびっくり。H君は,卒業研究のはじまる4年生のとき,だんだん学校に来なくなって自主退学していたんだけど,その彼が会社を辞めて復学したという。たぶん奴はいま28歳とか,そんな年齢だから,「やっぱり卒業ぐらいはしておきたい」と考えたんだろうけど,ちょっとした決心だ。

1999/11/23(Tue)

原油価格高騰

うお。原油価格が高騰してるよ。「先物やりませんか,石油買いませんか」と,ぼくに営業マンが売り込みに来たときには1バレルあたり8ドルぐらいで「10ドルまでは絶対に戻りますよ。これだけ資料を集めてありますので,ご覧ください」とかいってたのに……。すでに27ドルだよ!! 約3倍だ。むきー。3倍といっても,ハイリスク・ハイリターンなことをやれば資金は3倍どころじゃないんだよ。差額だけを買うことにすれば,あっという間に元金は10倍や20倍ぐらいになっちゃうんだよね。といっても,買っておけば良かったなどとは思わないんだけどね。結果論を持ち出した時点で,ギャンブルは負けなんです。

1999/11/24(Wed)

東京は雨。午後は品川に取材。終電。なんだかすごく疲れた気がする。9時からはじめた座談会が3時間以上もかかってしまった。結局みんなパソコンの話をするのが好きなんだよな。もちろん今日のお題はWindows 2000。

1999/11/25(Thu)

電子書籍端末で「あしたのジョー」

電子書籍コンソーシアムの実験端末で「あしたのジョー」の第1巻を読んでみた。まあ,ともかくいろいろ言われている端末ではあるけれど,マンガを読むには悪くない。バッテリが20分ちょっとしか持たないこととか,若干重いこと,ページを繰るのが遅いこと,メディア(Clik!)の容量が40MBと小さいことあたりをのぞけば,まあ,悪くない。ということはつまり,いいのは液晶だけってことなんですが……。175dpiの解像度をほこる液晶はダテじゃない。そこらの液晶とは比べモノにならない「ガラスに印刷されたような」,美しさ。しかし,コントラストが今ひとつ。
端末はいいとして,驚いたのは「あしたのジョー」の内容。やたらケンカシーンばかりで殴る蹴る,口汚くののしるの連続。いまとなっては差別用語,暴力シーンの嵐に思える。といっても,あしたのジョーって,初めて読んだんだけど。まあ,時代の流れか。

1999/11/26(Fri)

本のタイトル決める方法

ぼくが担当していた雑誌の連載が単行本になる。単行本にするにあたっては,書籍の編集担当者がついている。担当者はいるのだけど,本のタイトルを決めるにあたっては,連載担当のぼくは「適当にお願いします」などと偉そうにいえる立場にはない。
雑誌のなかでの連載タイトルと,書籍につけるものとでは,違ったものになるのがふつうだけど,この単行本のタイトル決めが恐ろしく難航。もうどのくらいの数のタイトルが候補にあがって,どのくらいの時間,ブレストしたか分からないぐらい。今日は,筆者先生も交えての打ち合わせ。どうやら決まったかな。年が明けてすぐの発売らしい。

1999/11/27(Sat)

大阪人

大阪人つーのは,日常会話でもボケとツッコミをやってるのじゃないかと思われてるみたいだけど,実際そーなんです。久しぶりに大阪に帰ると驚くことがある。数年前,たまたま目にした小学生の下校シーン。女の子が3人,横に並んで歩いてる。
 A:うちの近所に写真屋できてん。1枚10円やねんで。
 B:そんなん高いわ! うちの近所のなんて安いとこ,いっぱいあるで。
   1枚9円やろ,8円やろ,ナーナ円,ローク円,ゴー円,……。
 A,C:どこまで行くねん! (両サイドから手でツッコミ入れつつ)
 C:うちの近所のかて負けてへんで。まず1枚10円やろ,それから
   20円,30円……。
 A,B:高こなっとるがなー! (やっぱり手でツッコミ入れつつ)
 
絶妙のツッコミのタイミング。ボケるほうも,それを期待して自然とボケてるわけなのです。大阪の小学生は,なかなか表現もオモロイ。ケンカしてにらみ合う小学生のセリフで,こんなのがある。
「明日の空気,吸いたくないんか?」
おいおい,子供のセリフちゃうで。ヤーサンやないんやから。

1999/11/28(Sun)

Pileups

月末で仕事が詰まってきた。

1999/11/29(Mon)

42冊の三島由紀夫

「あの人,サンテグジュペリに似てるよね」と言ってあきれられたことがある。フツー,誰それに似てるねっていうときには,『星の王子さま』の作者なんていう,ちょっとすぐに思い出せないような人を引き合いに出さない。
それと同じようなことかもしれないけど,友達の女の子が「三島由紀夫みたいにりりしい顔の男の人が……」というようなことを前触れもなく言ったのに驚いた。だって,三島由紀夫なんて顔分かるの? そう思ってたずねてみたら,さらにビックリ。「えー?教科書とかに載っていなかった? りりしい顔と割腹自殺等のエピソードが」とかいう回答。
えーっ……。三島って教科書な人なの? 学校教育に登場するような「歴史的文学者」としての認識は,ぼくにはないぞ。さすがにぼくと同時代人とは思わないけど,年代的には野坂昭如なんかと同じだし,生きてたら70歳ぐらいだから,まだ教科書に載るには早いんじゃない? 少なくとも,ぼくの教科書には載ってなかったぞ,たぶん。ぼくとその彼女は3つしか歳が違わないはずなんだけどなぁ。あ,三島の自決はぼくが生まれて2カ月後です。
ぼくが初めて三島の写真を見たのは教科書じゃなくて写真集だった。どうしてそんなものを見たのか(買ったんだけど)というと,それはぼくが大のつく三島ファンだったからなのです。いま改めて本棚を見てみたら,ほとんど単行本ばかりだけど,三島由紀夫本人の手になる本だけで42冊もあった(といっても,三島について書かれた本は実は少なくてたぶん,1,2冊しかない)。
で,何年ぶりかで手に取ってみた。「三島由紀夫みたいな……」といった女の子は,三島の作品を読んだことがないと言って,何かおすすめがあれば貸してくれといっていたので,ぼくはすかさず『美徳のよろめき』を開いてみた。恋愛心理小説の傑作。ぼくの目をラディゲやコレット,ラファイエット夫人といった,一連のフランス心理小説へと開かせてくれたという意味でも忘れられない作品。なぜか主人公の節子の印象は,高校3年生のときの同級生の女の子の面影と一緒に,いまでもぼくの心に残っている。
最初の1ページを読んでみて,すぐに思った。古い……。いまにして思えば,ぼくはよくもこんな古い文体で書かれた本ばかり飽きもせずに読んでいたもんだと思った。難しい漢語や,死語といってもいい日本語も多い。それでも,やっぱりぼくは三島由紀夫のつむぎだす典雅な日本語に,いまでも心酔してしまうのだけど。何よりも,人間の心の動きを,これほど見事に言葉に定着できるということに,ぼくは驚嘆したものだった。
もちろん三島の小説は,いまみると内容や設定も古くて,たとえば「姦通」っていまや死語だし,意味が分かっても,ぼくらにはピンとこない言葉に違いない。いまや「不倫」も辞書的意味と違って「フリン」だからね。
もうちょっと,いまどきの女の子が読んでも面白いと思えそうなものがなかったかなと思って,今度は『午後の曳航』を手に取る。字が小さい……。1ページあたりの文字数がやたらと多い。
何が一番好きかと聞かれたら,『豊饒の海』と答えると思う。絶筆の大作で,絢爛たる文体とめくるめく輪廻転生のストーリー,緻密に計算されたプロットに,三島由紀夫という人の天才があますところなく発揮されていると思う。ほとんどの作品は,いつか読み返そうと思っているけど,特にこの『豊饒の海』だけは,近いうちに……,そう思い続けて,もう7,8年経った気がする。
ぼくは三島由紀夫の作品を読み返すことがあるのだろうか。そんな日が来るのだろうか。ねえ,ぼくらの生活に小説を読む時間的余裕があると思う?

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NISHIMURA Ken <nis@bigfoot.com>