1999/01/14(Thu)
スクーターで転倒
スクーターでコケた。夕方,ベルトコンベアに乗った大量生産の切り餅のごとくに,南新宿の歩道を歩く人々の群の中に,かなりだらしない姿でスクーターから転がり落ちた。車道と歩道は,ほんの少しの段差だから,乗り越えられると思った。タイヤの空気圧の問題か,読みの甘さか分からないけど,越えられると思った3センチほどの段差にタイヤは弾かれた。乗り上げる方向に対して,30度以下の角度で進入したのがまずかった。
タイヤを弾かれたスクーターのボディは道路側へ。すっかり歩道に乗り上がるつもりだったから,身体は歩道側へ。バランスを崩してから起きあがるまでの間,自分が呆けたように老人のように感じられた。あまり「あっ」とは思わなかったし,転がり始めた瞬間にも焦らなかった。ただ,「あれれ?」という間抜けな思考があっただけ。身体が人混みに投げ出されて,転がったとき,天地が分からなくなった。
過去に1回,飲み過ぎてヘベレケのとき,ごろんと転がったことがある。走行中じゃなくて,スクーターを止めようとした瞬間のことだけど。スクーターと一緒に転がりながら,転がっていく自分の身体のことが他人事のように感じられたし,どういう転び方はになるかは,僕が決めるコトじゃないと,無抵抗,無反応だったりした。それは大いに酔っているからだと,起きあがってから考えて,ちょっと反省したものだった。
それが,今日は一滴も飲んでいないのに,やっぱり身体を転がるに任せてしまった。ダメだと思った瞬間,素直にあきらめた。あきらめたのではなくて,反応できなかったような気もする。人間が走るより,ちょっと速いぐらいの速度だったとはいえ,結構な力で飛ばされたのは事実。それにしても為すすべもなかった自分が情けない。飛んだり跳ねたりまわったりというマット運動が,ものすごく得意で運動神経には自信があったのに。証明するチャンスが年々減っているけど,バクテンは体操部の奴に負けないぐらいうまかった。
認めたくはないけど,明らかに反射神経もバランス感覚も鈍っている。5年前,23のとき,自転車で車に跳ねられたときのことを思い出した。ぶつかった自転車のハンドルでBMWのボディが大きくへこむほどの勢いで衝突して,見事にはじき飛ばされたけど,両膝,両手のひらに擦り傷が残っただけで,大きな怪我はなかった。対向車が来てなかったのも幸いしたけど,生涯で最長の,たぶん5メートルか6メートルの飛び込み前転を冷静にやってのけた。
そんな冷静なバランス感覚はもうないのか,今日は転がりながら,上も下も分からなくなってしまった。それで頭を歩道のアスファルトにゴツンとぶつけてしまった。ヘルメットをしてなかったらと思うと,結構恐い。ヘルメットがたてた大きな音に,「大丈夫ですか」と駆け寄るヒトがいた。奇妙なことに恥ずかしくなかった。5年前の事故では,周囲にいたヒトが凍り付いたように立ち止まって,僕が立ち上がるのを見守っていると考えると恥ずかしくて仕方なかったけど,今日は,ただヘルメットの傷が気になるだけだった。僕もいい加減,ヤキが回ったのだと,つくづく思った。
1999/01/19(Tue)
そのワインは480円だと思います
何となく値札がある奴ではなく,値札が落ちてしまったワインを2本選んでレジに向かった。若いアルバイトの店員は,「あれ,このワインはいくら……」と言うので,「480円だと思いますよ」と答えた。即座に僕のコトバを信じてレジを打つアルバイト君を見ながら,僕はつくづく現代日本という国の特殊性を思わずにいられなかった。買い間違いの切符をいくら説得しても換金してくれなかったパリのメトロの駅員とは正反対である。いや,待てよ。パリでは,僕は異邦人だ。ちょっと事情が違うかも知れない。
しかし,この均一性と平等,安全。1億総中流。どこの国の首都でもいい,客が言った値段をそのまま信じる街がほかにあるだろうか?
昼間,日本Oracleの記者発表会。佐野社長のテンションの高さに,溜飲の下がる思いがする。「いよいよM社は不要。さよならだ」とLinuxへのコミットを明確に打ち出した。すごい時代になったものだ。午後は,電子出版協会主催の電子出版セミナー。
ある新聞記事で,女子高生のコトバが取り上げられていた。で,思った。日本人は日本語の変化に寛容であるのに,なぜか姓に対しては寛容じゃない。
柄谷行人を読み始めた。読みかけの養老猛司の「唯脳論」の文庫本をなくしてしまった。
真理とは,それなしでは特定種の生物が生きることができないような種類の誤謬である。『権力への意志』,ニーチェ。
1999/01/20(Wed)
無断欠勤
20歳になる自分の子供が,突然僕の前に現われる夢を見た。金髪,ロンゲ,素直だけど頭が悪そう。僕にはあまり似てない。初対面の父親である僕とは照れから目をあわそうとしない。僕は成人したばかりの自分の息子に向かってメシでも食おうと誘う。
28歳の僕に,過去,どんな間違いがあったところで20歳の息子がいるわけもないのだけれど,起きてからもしばらくは,何だか妙な気分だった。自分の息子というのは,一体どういう感じがするのだろうか。
スクーターでコケたとき,どうやら,どこか痛めたらしい。腰痛か筋肉痛かと思ったが,触ったときの痛みからすると,肋骨にひびでも入ってるのかもしれない。ふとした瞬間に刺されたような激痛が左腎臓の上から左肺のあたり走る。
こんなところに書くと,いろいろと問題がありそうな気がする。今日,東京は3月下旬並みの暖かさとかで,非常に良い陽気だったけど,どうしても会社に行く気になれず,ウチで仕事をしていた。
物理的には会社でできる仕事と自宅でできる仕事に,それほど大きな違いはない。インターネットにつながってさえいれば,ファイル,資料,メールとも,会社にいるのとまったく変わらずアクセス可能だし,変におしゃべりしたりしない分,はかどることもある。だから,朝起きてメールを読み,ニュースを読み,メールで筆者から原稿が届いていたりすると,そのまま仕事モードに突入したりすることが良くある。
今日は,筆者からとても面白い原稿が届いて,それに関係した調べモノ(もちろんインターネットで)をしているうちに,結構いい時間になってしまった。いつだって締め切りカツカツの仕事をしているから,気持ちは焦っているのだけど,ある時間を過ぎると会社に行きたくなくなることがある。
普通の会社なら,あるいはマットーな社会人なら,いつもより30分遅れることを電話連絡かメールで伝えるところなのだろうけど,そこはそれ,日々取材だ打ち合わせだと出回っている編集者兼記者ライターとしては,2,3時間は誤差のウチ。で,ホワイトボードに行き先や所在を書かない人が多いものだから,つい,今日の僕のようなことになってしまう。
といっても,無断欠勤するような不届きモノは,今の編集部に僕ぐらいしかいないかもしれない。以前は,もう1人いたような気もするけど。でも,僕は仕事はそれなりにしているつもりだし,バリューは生み出しているつもり。肩の荷が重くなって,とんでもない現実逃避をやらかしたりするけど……,まあ言い訳はこのくらい。
今日の僕は仕事もそこそこに,経堂へ出かけ,ふらりと古本屋に入った。仕事のことでは大いに焦ってるし,何だか,もごもごする気持ちで一杯だったので,心がからっぽになれるストーリーが欲しかった。
神田とか早稲田の古書街は別だけど,だいたい普通の街にある場末の古本屋には,くだらない本しか置いてない。さらっと読める爽やかなストーリーが欲しいだけだから,別に何でもいいと思っていたのだけど,サッパリいい本が見あたらない。
で,書棚を眺めながらまず手に取ったのは日本語の歴史的変遷を綴った真面目な本。とても面白そうだけど,今の僕が求めている本じゃない。
で,ハッとマンガの棚を見てみた。そうしたら一応名前だけは知っている漫画家の本が一杯並んでる。「今の時代に,マンガを読まない奴は馬鹿だ」と言ってのけた評論家がいたけど,僕は,割とマンガは読まないほう。最近,喫茶店とか友達の家,会社に置いてあるのは割と読むけど。
で,たまにはと思って,5冊ほど買った。2冊は上下巻の奴だけど,全部読み切りの本。マンガって安い。古本だけど,結構凝った装丁の奴ばかりで5冊で2500円ほど。紫門ふみの『Age, 35』という上下巻の奴は1冊980円(古本で500円くらいかな?)。ページ数,紙質から見ると1900円ぐらいしてもおかしくないという気もするけど,まあ,僕が手に取るような本とは部数が格段に違うから,値段が違うのは当たり前か。
内田春菊,高橋留美子,桜沢エリカ,紫門ふみ,というのを選択したけど,この人たちが,どういう位置づけにあるのか良く知らない。2時間ちょっと,読みふけったのわけだけど,まあ紫門ふみのは面白かったかな。プロットにわざとらしさはあるけど,たぶん良く取材もしてるし,テーマ性もある。
内田春菊の『鬱でも愛して』はサイテー。漫画家は自分の本の装丁もできるのかという発見以外,読んでソンしたという感想だけ。高橋留美子の『Pの悲劇』は,『メゾン一刻』とか『ルーミックワールド』とか昔読んだマンガで,「間」の良さで,高橋留美子が好きだったから手に取ってみたけど,陳腐なストーリーばっかし。桜沢エリカの『恋の掟』は,いまの僕の気分にはあっていたという意味では良かったけど,ストーリーには何の深みもない。
この日記の曜日は間違っている。どこでどうなったのか,何故かずれている。そんなに難しい計算をしているわけでもないのに。そのうち全部いっぺんに直ることでしょう。
1999/01/23(Sat)
またスクーターを盗まれた
徹夜明け。会社を出て,朝のすがすがしい空気を吸い込んで,息が止まった。スクーターがない。自分が,確かに昨日,そこにスクーターを止めたということに確信を持つのに,それなりに時間がかかったが,徐々にスクーターを止めたときの自分の姿が鮮明に思い出されるにしがって,憂鬱な気分になっていくのだった。これは盗難だ。
もう2度目である。同じ場所で2回,スクーターを盗まれたことになる。1回目は鍵をかけ忘れた(というより,鍵を抜き忘れた)から,盗まれても当然という気がするけど,今回はちゃんとハンドルロックもしていた。
会社の周りにある公園や路地をぐるぐる探し回ったが,あるわけがない。どうやってエンジンをかけるのかしらないけど(直結って,今でもできるのかしら),やっぱり誰かが乗っていったとしか考えられない。2台目の,いまのスクーターは乗り始めて1年2カ月。3000kmぐらい走った。車両が15万円として,1kmあたり50円,ガス代を入れて60円くらい。反則金の総額が5万円くらいだから,それを加えると1kmあたり80円弱の計算か,などとむなしく考える。高い買い物だったのか,それなりに投資を回収できたのか……。前回は,盗難保険があったので助かったけど,今回は,もう保険はおりない。
近くの警察で,遺失届を出す。ただ生真面目なだけの,トロそうな巡査にいらつく。イライラしながら,心がすさんでるなあと自分で思う。信じられない几帳面さで,書類の空欄を埋めていく若い巡査を見ながら,普段の自分の生活との大きなギャップを感じる。いちいち同じ質問を2回も繰り返して,メモを取りながら書類を作るなんて,何と悠長なことをやっているのかと思う。ペナペナの紙が法廷で公的な証拠となるという。ハンコ。ハンコ。くだらない。手書きなんて書き殴り以外にやることはないし,やったとしても縦書きや漢数字なんて普段まったく書かない。自分の電話番号さえ,「〇三−五四七七……」なんて縦書きで書いた日には,思い出せもしない。車体の色はシルバーとアイボリーだと答えたら,「灰」に○を付けられた。こんなので発見できるのか?
1999/01/25(Mon)
ハイホン
土曜日にスクーターを盗まれて,警察に遺失届を出したものの,自分のナンバープレートがわからずに,書類は完成していなかった。保険に入ってないので,バイク屋に問いあわせても,ナンバーの登録は残っていなかった。
月曜日になって,区役所が業務を始めるのを待って,ナンバーを調べた。ちょっと驚いたのは,区役所の人も,警察の人も,「−」をハイホンと発音すること。警察の人には,わざわざ「マイナス」と言ったのに,「ハイホンですね?」と聞き返されてしまった。
たぶんコンピュータ業界で,一番多いのは「ハイフン」。僕はその発音に毒されているから,それ以外の音には,違和感を覚える。
朝,友人からの電話で目がさめる。会社からだというその電話は,かける相手を間違えている。会社に導入したインターネットが,うまくつながらないという。なんで,僕がインターネット接続の面倒をみなきゃならないんだ。まあ,いいけど。OCNというから,てっきりOCNエコノミーかと思ったら,ダイヤルアップだった。ダイヤルアップルータかと思ったら,TAだった。しかもNTTの。
布団の中,半分夢の中でWindowsのダイアログを思い出しながら,遠隔操作する。Winipcfgを実行するように言うと,「http://winipcfgが見つかりませんだって」という。そうじゃない。ブラウザに実行ファイル名を入れてどうするんだ。ISPのサポート業務って,大変なんだろうなぁと思う。
1999/01/26(Tue)
相対主義!?
「鼻の粘膜が人体の中で一番個人差が小さいことに着目し,1本の鼻毛を1ニュートンの力で引っ張るときに感じる痛みを1hanageと定義できる。学会で単位として承認された」とする,新聞記事風のそのジョークを,「もしかして本当かも知れない」と信じた人が多い。いくら新聞記事風の体裁で,大学教授や学会の名前が書かれているからといって,こんな内容を誰が信じるっていうのだ。冗談じゃない。
僕は読み始めて3行でジョークと気づいたし,そういう意味では笑えた。でも,このメールを信じた人が多いことを知って,僕は愕然とする。笑えない。矢追純一の番組を見て,「UFOはいるかもしれない」と考えるくらいの科学的基礎体力の欠如だ。人間が「痛み」を感じるメカニズムについて考えたことがないとしか思えない。「痛み」を数値化するなど生理学的なメカニズムから言って,あまりにも無謀な話だし,それ以上に,「他人が感じる痛みを,自分が感じる痛みと同じだと考える理由はない」という,“認識する主観”という哲学的な問題がある。僕が感じている痛みを,僕はコトバや表情で他人に伝えることはできる。しかし,「僕が感じている痛み」そのものは,僕以外の誰も,永遠に認識することができない。
僕が「信じた奴が信じられない」と発言したとき,ある人が「でも,そういう可能性があるかもしれないと考えることが相対主義じゃないか」と反論した。荒唐無稽と相対主義は違う。異なる価値観やモノの見方を互いに認めあうのが相対主義である。
確かに幾何学の出発点であるとされた平行線公理を捨てることによって,非ユークリッド幾何学という新しいパラダイムが拓けたように,ブレークスルーは,いつだって登場時点では荒唐無稽に見える。しかし,鼻毛単位は話は全然そういう次元の問題じゃない。議論が,ずさん,曖昧という次元にも達していない。科学は空想や妄想ではいから,誰もが認められる内容でなければならない。したがって,平行線公理を捨てるという発想は結構だが,いきなり他の公理を全部無視するような提言をしたところで,そんな提言は何の意味も持たない。ちゃんと他の公理を知ってから,モノを言って欲しいと思うのである。
1999/01/27(Wed)
多重人格ではない
「このWEB日記について」という文章の中でアイデンティティの拡散というようなことを書いた。しかし,僕は確かに混乱はしているが,たとえばアイデンティティ・クライシスとよばれるような不安定な状況にあるわけではないし,モラトリアム的な心理状態にあるわけでもない,と思っている。
ネットワーク上では,拡散したはずのアイデンティティが,否応なくホームページという1点に向かって収斂していく。ネットワークの登場によって,個人のありようが変わってきていると思う。僕の仕事は宮仕えというコトバではくくれない流動性を持ちつつある。いまは意識が変わりつつあるだけだけれど,向こう2,3年のことを思うと,この傾向は物理的な変容をもたらすはずだ。「公」と「私」の境界を明確に持つことも,ネットワーク上では何だか奇妙に感じられるのだ。
僕が感じている奇妙な感覚は,もしかすると僕の仕事関係のホームページから,この日記に飛んできた人なら,同じように感じるかも知れない。仕事上の僕しか知らない人は,生っぽい僕のコトバに戸惑うに違いない。
いや,こういうことを書こうと思った訳じゃないのに……。まあ,いいか。
極端な相対主義や価値観の違いを無闇に認め合うという姿勢は,一見先進的なリベラリズムに見えるが,その実,他人に迷惑をかけないかぎりなにをしても良い,何を言っても良いのだという,単なる放縦としての自由しかもたらさない。これは危険だと思う。
何かが絶対的に正しいと信じる頑迷さが危険であるのと同様に,相対主義を拡大解釈してあらゆる価値観を容認しようという(多くの場合,それは態度だけだ)のは危険だと思う。