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2007年02月17日
生もコピーも
来週の2月24日土曜日は代々木公園とマラバリスタに行く予定です。なんか全然寒くなりませんね。来週もこんな感じみたいですね。
ドラリオンが来てますね。うちはまだ子どもが7ヶ月と小さいこともあって、観に行くのは無理かなと思っています。3、4才ぐらいなら目を輝かせて見るんでしょうけどね。いや、6、7才かな?
子どもが小さいからという事情とは別に、それほど見たいと思わないのでした。加藤さんの評を読んで、なおさらまあいっかと思いました。ぼくって実演志向が薄いんですよね。生で見るのとDVDで見るのが違うのは当然ですが、ドラリオンを生で見ることの価値を、それほど感じません。独身時代なら別ですが、今のぼくにとって半日を潰すほどの価値はないかなぁと。
ぼくはドラリオンのDVDを持っていて、ビクトル・キーやブラディックはDVDでもYouTubeでも何度も見ました。それでもう満足で、別に生で見たいとまで思いません。生で見たいのはガットーとボバぐらいです。と書くと、そもそも評価軸がおかしいと言われそうですが……。
生とDVDなどの映像では、それぞれメリット・デメリットがあります。
DVDなら繰り返し見れます。好きなときに見れます。途中でストップして細切れにでも見れます。スローでも見れます。肉眼よりもハッキリと、いいアングルで見れることも多いです。
生であれば、会場の雰囲気や熱気をダイレクトに感じることができます。ガットーのように狭いところでやるタイプのショーであれば、技を実際のスケールで見ることとができて、よく分かるでしょうし、迫力も違うでしょう。
DVDは偽物だから「鑑賞」に耐えないという意見もあるかもしれません。本物とコピーの議論で、いつも思い出すのは文学作品の翻訳についての議論です(ドラマや映画でもいいですが)。
文学は芸術の一種と目されているわけですが、われわれは翻訳で満足しているわけですよね。翻訳というのはコピーどころじゃないですよ、誤訳すらあって、粗悪なコピーと言っていいケースも多い。オリジナルの雰囲気を伝えるのに翻訳者は苦労するんでしょうが、そんなの土台無理です。それでもわれわれは、海外文学を日本語を通じて堪能するわけですよね。ドストエフスキーやシェークスピアのように、セリフ中心で言語にあまり依存していない作品ばかりでなく、ジェームズ・ジョイスやルイス・キャロルのような、言葉遊びが作品そのものとも言えるものすら日本語で読んでしまいます。あるいは詩なんてどうでしょうか、ほとんど訳者という別の詩人の作品を読んでいるといっていいような状態です。
ぼくは若いころアルチュール・ランボーという詩人のファンだったんですが、ぼくがランボーに馴染んだのは堀口大学という、これまた大詩人の翻訳を通してでした。ランボーの作品のなかでも特に「黎明(aube)」という詩が好きでした。堀口訳で親しんだぼくにとって、この詩の書きだしは「僕は夏の黎明を抱きしめた」という一文です。ところがあるとき文芸評論家の小林秀雄の翻訳を見たら、「俺は夏の夜明けを抱いた」とあるんですよ。
びっくりして、小林秀雄はひどい訳をするもんだと思ったんですが、そうじゃないんです。大学に入ってフランス語を少し知ってから原文を見てみると「J'ai embrasse l'aube d'ete.」(アクサン省略)とあったんですね。英語で言えば「I have embraced the summer dawn.」で、「私は夏の夜明けを抱擁した」と訳してもいいような文です。コテコテの大阪弁なら「わいは、夏の夜明けを抱いたんや」とでもするべきしょうし、ぼくの本当の意味での母語である河内弁なら「おれな、夏の夜明けを抱いてん」になります。
英語でもフランス語でも一人称は1つしかなく、そもそもそういう意味では、もともと日本語に翻訳など不可能なわけです。どう訳してもニュアンスは完全に失われてしまう、というか強烈なニュアンスが付加されてしまう。
というように、文学作品を本当の意味で味わうためには原文を読む以外ないわけですが、わざわざ全部の言語をマスターしていたら、普通の人間には一生かかっても世界文学など読めません。だから翻訳の限界は知っていても、割り切って楽しむわけです。それはそれで構わないし、何も読まないよりはずっといいでしょう。
絵画も同じだと思います。画集を見るのも十分に鑑賞と言えて、本物でないと意味がないなどというわけがありません。むしろ逆に、本物のほうが悪いケースすらあると思います。例えば、日本にやってきた著明な美術作品を見るために、何時間も並んだ上、ほんの十秒ほど遠巻きにガラスケースに収まった本物を見ることに、なんの意味があるのか。もはやこうなると阿弥陀信仰みたいなもので、ご本尊さまありがたやといった世界です。
割と最近、インドの仏教石窟の写真集を見ました。アジャンタとエローラという断崖の岩石をくりぬいて作った仏教とヒンズー教のお寺の遺跡です。これは実際に現地に行って眺めるのと写真集ではえらい違いがありそうです。行ってみたい……、とは思いますが、インドな上に人里離れた山奥なわけです。写真集で十分とするほかありません。
ずいぶん脇道にそれまくりですが、「別に生じゃなくてもいいんじゃないの」という話でした。「作品」と呼ぶべきもので、本物で鑑賞したものなんてぼくは0.01%以下じゃないかと思います。音楽なんて0.001%にも満たないかも。
投稿者 ken : 2007年02月17日 22:41