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2008年03月28日
ミカン、こんばんは
眉間を指さして「みーけーんっ」と教えると、ムスメはうれしそうに自分の眉間を指さして「ミカン! ミカン!」と連呼する。
小鼻を指さして「こーばぁなっ」というと、ムスメは小鼻を指で押さえ、軽く会釈をしながら「こんばんはっ、こんばんはっ」と挨拶する。親に似ず、礼儀正しい。
語彙が増えたというより、もうたいていの言葉は耳にしたそばから自分で発するという状態になってきた。外で覚えてきた言葉を使って驚かされることもある。
所有を示す助詞「の」を使い始めたのは早かった。「ちゃーちゃんの」「ぱぱの」「ままの」などと所有の概念にうるさい。いつもぼくが座っている椅子に妻が座ると「パパの! パパの!」と、まるで権利の番人のように小うるさく執拗に指摘してくる。これはウチだけではないらしい。ある時期の幼児は、みなうるさいらしい。近代社会を支える私的所有権という概念は自明ではないという議論があるけど、あれは嘘じゃないだろうか。
「の」の次に出てきた助詞は「に」だ。といっても、成人が使う「に」の多様な用法が分かっているわけではなく用法は1つだけ。「パパに」とか「先生に」という用法で、どうやら所有の移転を表現しているものらしい。何らかのモノを誰かに手渡せということを言っている。その意味では「の」の延長にある。しかし、所有権が一時的な帰属でしかなく移動することがあるということを理解し始めているということだから、概念操作のレベルで進化が感じられる。
ぐんぐん頭のサイズが大きくなっている。結局、脳みそのサイズが大きくなることが言葉を覚えるということなんじゃないかとすら錯覚する。母語に関して言えば、言葉は覚えるものではなく、脳のモジュールの発達段階に応じて、それに対応した概念とか文法構造が発現してくるだけで、脳内には生得的な言語習得器がある。そういうチョムスキー的な言語観は、やっぱり説得力がある。
昔、国立国語研究所でfMRIの実験に参加したことがある。不穏な動作音のする筒の中にヘッドマウントディスプレイを付け、横たわったまま入っていく。MRIが生み出す磁場はすさまじく、金属でできた消化器を近づけると、猛スピードで吹っ飛ぶ凶器となってしまう。そんな強烈な磁気に包まれていても、当然人間に自覚はない。自覚がないことでかえって不安になりながら、パワーポイントで作成した動詞の活用表を見せられる。被験者のぼくはは、それを指示に従って黙読する。
言語を処理している脳の活動をリアルタイムでモニターするというような実験だった。カ変やサ変のような不規則動詞と、規則動詞の活用は、脳内の異なる部位で処理してるのだろうかとか、そういうことを調べているという話だった。詳しくは知らないけど、文法処理だけではなく、脳内の認知的処理が高度にモジュラーな構造で行われていることは間違いないように思う。
所有に関する「の」と「に」が脳内の近い場所で処理されているとしても驚かない。ムスメの言葉の進化を観察しながら、そんなことを考えた。子供の成長を見るのは楽しい。
2008年03月25日
肘内症
ムスメの腕が抜けた。「肘内症(ちゅうないしょう)」というもので、よくあるらしい。手首と肘をつなぐ2本の骨のうち1本が肘とつながるあたりで、すぽんと抜けてズレてしまうというようなものらしい。靱帯の発達段階にある3、4歳ぐらいまでは、ちょっと手を引っ張ったりするだけで抜けてしまうことがある。
1度目は状況がよく分からず、泣き叫ぶムスメを見て慌てた。肩の脱臼なのか、ひょっとして骨折なのかと心配した。2度目も泣き叫ぶムスメの声を電話越しに聞きながらいたたまれなくなった。
いろいろ話を聞くと手こそ動かさないものの泣かない子もいるらしいから、泣き叫ぶほどの痛みが継続するものではない気がする。だからうちの子は、ちょっと大げさじゃないかと思うんだけど、それでもまあ泣き叫ばれると、自分まで辛くなるのが親心。
1度目のとき、近所のかかりつけの小児科に電話したら、その病院の向かいの整形外科を紹介された。すぐにタクシーで乗り付けた。出てきた先生は、かかりつけの小児科の先生同様に70代半ばかという年寄りで、一瞬「しまった」と思った。でも、実はこれが正解だったことが後で判明する。
ぶらんと垂れ下がったムスメの腕を見た瞬間に、ニコニコしたまま説明を始める先生は何もしない。のんびりと人間の腕の構造の話をはじめたりする。ぼくはせめて袖ぐらいはまくったほうがいいだろうと思って手を出そうとすると、もう診断は終わっていた。整形外科医にしてみれば、腕が抜けたときの状況説明と患者の年齢、腕の垂れ下がりのアングルを見ただけで肘内症というのは自明だったらしい。隣にいた小うるさい看護婦ですら、「ちゅーないしょーですよね、先生、ね、ちゅーないしょーでいいんですよね」というぐらい、誰が見ても分かるようなものらしい。
骨折などと違ってレントゲンに写るようなものではないらしいけど、骨折でないことを確認する意味でレントゲン撮影。レントゲン室から出てきたムスメは相変わらず泣き叫ぶ。痛いのか怖いのか不安なのか、パニック状態らしい。

レントゲンには映らない
相変わらずニコニコとしたまま先生はいう。「いいですね」。とっさに意味が分からなくて「どういう意味ですか?」と聞いたら、「このぐらいのことはあったほうがいいですよ、親になるってそういうことですよ」というようなことを先生は言った。肘内症は後遺症の心配がなく、年齢とともに起こらなくなる症状だから、そういうことも言える。
ニコニコしたまま年老いた先生はムスメの手を握った。「やーっ」と叫んでムスメは腕を引いた。引いた腕は胸の位置にまで戻っていて、一瞬で「はまった」らしいことが分かった。合気道の達人が指一本で人を吹っ飛ばすマンガチックな早業のような感じで、あまりに簡単に治療が終わったので拍子抜けした。年老いてもこういう能力は衰えないんだなと思った。レントゲン撮影をしている間にケータイでググりまくって、大体のところは理解していたけど、それにしてもあっさり治る。
みるみる間にムスメは落ち着きを取り戻し、何事もなかったかのようにご機嫌になった。我が身に降りかかった朝の不幸とか、両親の心配なんてことは、まったく自分には無関係だというぐらい、ムスメにとって肘内症は過去のできごとになったらしかった。
2008年03月02日
大連出張
出張から戻ると、ぱっと顔を明るくしてムスメが駆け寄ってきた。
2泊3日で大連ソフトウェアパークを見てきた。実際に見ることができたのは、そのパークのなかのごく一部だけだし、街のほうも少ししか見れなったけど、非常に刺激を受けた。
大連は「ここをシリコンバレーにするのだ」という政策上のポリシーと経済的援助も手伝って、いまやアジアの一大オフショア拠点となっている。街には建設中の高層ビルが多くあって活気が感じられた。
同行した大企業のお偉いさんたちとITの話をたくさんできたのも収穫。
大連は、最初にロシア人がやってきて港湾都市としての基礎を作った110年前からずっと、東西南北から人々がやってくる土地だった。天然の良港があったこと、背後に広い平野があったこと、アジアのおへそのような「真ん中」にあるという地の利があったことから、帝国列強がこの地を奪い合ったのも分かる。
成田からは3時間弱、偏西風に吹かれる帰途は2時間半という近さだ。時差も1時間だけ。いまやネットもケータイもつながり、街には日本語を話す中国人がたくさんいて、とても外国にいるように思えない。
40年にわたった日本植民地時代に建てられた多くの建造物が街の中心部に点在していて目を引く。「五族協和」という理念を掲げて国家建設を目指した当時の人々の狂気にも近いパッションが、重厚な面構えの建造物に今もまだ宿っているように感じられる。
欧米の猿真似に過ぎない独善的帝国主義といえばそれまでだけど、何とも不思議な気分になるのは、当時目指した人工国家とは、こういうものだったのではないかと思えるようなマルチリンガル、マルチナショナルな人々の融和が、小さいスケールではあるもののIT拠点としての大連に現前してしまったように思えること。
満州の当時と現在の大連には、皮肉な共通もある。ある製造業系のグローバル企業の人が、各国の拠点を回った経験から、こんなことを言った。「アジア人は素直ですよ。組織作りをして日本人が上層部に立っても、それで不平は言わない。これがヨーロッパだと、何のかんのと文句を言う」。搾取とまでは言わないけど、大連の地では国籍や話す言葉によってある程度ランクが決まってしまう面がある。
そうした「民族」による分断が、五族協和を口にしながら官庁の要職を日本人官僚だけで独占してしまった満州のダブルスタンダードな統治戦略に重なって見える。
2000年ごろアメリカにいたとき、オフショアリングが話題だった。連日のようにテレビで議論をしているのを、ぼくは文字通り対岸の火事のように眺めていた。インド人をはじめとする途上国の労働者に自分たちの仕事が取られてしまうという危機感を、多くのアメリカ人ホワイトカラーが感じていた。しかし、それと同じことが、日本の凡百のJavaプログラマにも現実に起こりつつあるのではないか、という印象を受けた。大連では、3分の1程度の給料でトップレベルの優秀な人材を確保できる。この人たちは上昇志向が強く、英語や日本語といった語学にも熱心に取り組んでいる。震撼すべきは日本の有象無象のSEたちじゃないか。ITにおいてローカルなカルチャーやアーキテクチャに依存する部分が、どんどん減ってきて、ソフトウェアのデリバリー方法も大きく変わってきた今、日本のIT産業が言語の壁で守られているなんてことはない。パッケージソフトで起こったことは、受託開発でも起こる。
出張中、ぼくの中国語がいくらか通じた。中国語の勉強を再開して1ヶ月ちょっと。今のところ、きわめて細々と続いてる。どこかの時点で楽しくなりそうな気もする。

植民地時代に日本が建てた体育館。今は五輪のマークがついて、やっぱり体育館として使われている

市街地の中心部にある公園には、何ともセンスの悪いサッカーボールが……。夜にはディズニーの電飾パレードのように輝く

植民地時代に日本が建てた銀行(?)。今はホテルになっているらしい