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2008年01月23日

エスペラント---異端の言語

「エスペラント---異端の言語」(田中克彦、2007)

あまりにおもしろくて珍しく読み返してしまった。

エスペラント自体は、さすがにどうでもいいけど、エスペラントというフィルターを通して見えてくるものがたくさんあるという意味で興味は尽きない。まず1つは、エスペラントという人工言語は文法や語彙という純粋に言語学的な事象を見るための基準器となること。現実に存在する自然言語には、さまざまなバリエーションや振れ幅があり、矛盾や欠点にもみちみちている。最初から言語学的な合理性だけを追求して人工的に作られたエスペラントは、固有の自然言語の「不自然さ」をすべてあぶり出す。いかにフランス人がフランス語の完璧さを喧伝したところで、不規則変化など負の遺産でしかなく、本来誇るべきほどのものではない。

エスペラントを通して見えてくるもう1つの大きな絵は、民族とは何か、国民国家とは何かという問題。この本には、そうした問題を考える上で知っておくべき論点と、さまざまな歴史的な経緯が盛り込まれている。これはエスペラントがどうこうというだけじゃなて、70歳を過ぎた田中氏の言語学研究の成果が随所に織り込まれていることによるのだろうと思う。

例えば、自然言語の語彙の形態に関する恣意性を指摘するところで、こんな例を引いている。パプアニューギニアで話されるクレオールでは女のことを「meri」という。それは上陸してきた白人の多くが妻のことを「メリー」と呼んでいたからで、固有名詞が普通名詞になるという、いかにも言語の起源で起こりそうな現象があるそうだ。そんな恣意性の高い語彙なんかに何の意味もない。

一方エスペラントはといえば、基本語彙こそヨーロッパの言語を中心に寄せ集めてきているという感じはあるけど、語彙体系の構成法はきわめて一貫性があって合理的。例えば、名詞の男性型は「-o」で終わり、女性型は「-ino」で終わるという感じ。「patro(父)、patrino(母)」、「frato(兄弟)、fratino(姉妹)」、「onklo (おじ)、onklino(おば)」といった具合だ。男性型から女性型を派生させるかのような構成法に対しては批判もあって、エスペラントを改訂して「裏切り者」と呼ばれたIDOという人工言語では「patro(父)」という語彙に対して「matro(母)」を当てているという。このあたり、社会言語学的な論点も多い。

もう1つ、名詞の構成法の示すと病院を意味する「malsanolejo」(まるさのれーよ)という単語がある。この語幹は「sano」(健康)で、これは「sanus」(健康)というラテン語由来のもので、英語でsanityに連なるもの。で、このsanoに対して反意語を示す「mal」という接頭辞をつけることで「malsano」(病気)という語が生まれ、場所を示す接尾辞の「lejo」をつけて「病院」という意味になる。すごいのは、sanoをsanaと語尾を変えるだけで形容詞になってしまうこと。なぜならエスペラントでは-oは名詞、-aは形容詞と決まっていて、例外が1つもないからだという。何たる一貫性だ。複数形はjをつける、というのにも例外はない。もちろん、すべて表音文字だから綴りが分かって読めないということもない。

lejoをつけると場所を示す。そうか考えてみたら、日本語で「病院」「学校」「会社」など場所を示す語彙に対して、すべて異なる「院」「校」「社」などを用いているほうが混乱してるようにも思えてくる。アメリカ英語で起こっている変化は、従来のラテン語やギリシア語を組み合わせたような造語を、平易で日常的な語彙の組み合わせで置き換えるようなことだと思うけど、あれと同じことを日本語でもやっていいんじゃないかと思う。

このほかエスペラントの特徴として驚くのは名詞の最後にnをつけるだけで目的語となること。これは日本語の助詞「を」の発想だ。この文法規則があるおかげで、目的語の位置の自由度が上がると著者はいう。ほんまかいな。

エスペラントの合理性と経済性はすさまじい。「冷たい」というような基礎語彙ですら、「malsarvo」(熱く-ない)というような作り方をする。malという接頭辞は、英語のmalicious、malady、malfunctionようにネガティブなニュアンスがない。エスペラントのmalは単に中立的な反意語を示す。これに対しては非効率だという批判もあったりして、別言後が作られたりする。それで延々と「俺様言語」の歴史が続く。過去100年ちょっとの間に知られているけで数百の人工言語があるという。

エスペラントでは、動詞の時制についても、すべてこの調子で語尾に特定の音を付け足すようにして合理的に構成されている。格を含めた人称代名詞のマトリックスに至っては、その対称性のあまりの高さに愕然とするほどだ。いかに自然言語がめちゃくちゃかというのを思い知らされる。大学時代にフランス語の授業で延々と人称代名詞と基本動詞をセットにした暗記をやらされたのを思い出して、「やっぱりあれはフランス語が悪かったんだ」と思って溜飲を下げることにした。

というようにエスペラント語の文法は非常に簡単で、英語やフランス語、ラテン語などの基本語彙が何となく分かるぼくは、10ページほどのエスペラント語の解説を読んだだけで、エスペラント語で書かれた文章が何となく読めてしまうというほどだった。

エスペラントに光を当てるうえで著者のこれまでの研究が大きく影響してるのではないかと思った別の例に、エスペラント語の膠着的性質について指摘する箇所がある。

ぼくはまったく誤解していたけど、エスペラントというのは語彙こそヨーロッパの言語の寄せ集めという印象が強いけど、屈折語、孤立語、膠着語という分類でいえば、かなり膠着語に近い性質を備えている。

19世紀の言語学者、なかんずく西欧の学者らは屈折語こそが、最高の発達段階を示した言語だと考えていたという。日本語や韓国語、ツングース語、ハンガリー語などの膠着語は低い発達段階にあり、中国語のような孤立語は、さらに原始的とみなしていた。そうしたヨーロッパの言語学者のエスノセントリックなものの見方を、著者は「生物進化論とヘーゲル哲学をつき混ぜてできた思想」と切り捨てる。なぜなら、歴史をさかのぼってみると、古くなればなるほど複雑な屈折にみちみちたものとなり、逆に時代が新しくなるほど屈折が弱まるのが一般傾向であるからだ。

英語とドイツ語を比べると、英語は屈折が弱まっている。これはノルマン・コンクエストの影響で、英語は、フランス語との接触で、語彙的にも文法的にも非常に大きく変化した経緯がある。

英語はフランス語との接触によって文法が単純化した。多くの言語は他言語との接触によって、もとの言語より単純な構造に変化するもので、その逆というのは起こらないらしい。こういうのはピジンやクレオールの研究成果によるところが大きいそうだ。非常に興味深い。セーシェルやメラネシアの島で話されるクレオールを研究してみると、ラテン語を単純化したフランス語がたどったのと同じプロセスが見て取れるという。

例外だらけで構造の不安定なラテン語を維持できなくなって世俗語に分化していったのがヨーロッパの各言語。そう考えると、もっと言語の混交が早くに起こって単純化された言語が広まっていたら、ヨーロッパの血塗られた歴史は大きく変わっていたんじゃないかとすら思えてくる。「国語とは陸海軍をそなえた方言」という言葉が示すとおり、民族を分断し、国民国家を成立させているのは言語にほかならない。

オットー・イェスペルセンというデンマークの言語学者は英語が中国語に近づいているということを「Monosyllabism in English」という有名な論文で指摘しているという。段々に屈折した尻尾の変化部分が落ちて音節が短くなり、英語には格変化がなくなった。こうした変化について、以前に読んだエドワード・サピアも同じようなことを言っていたように思う。サピアは英語が徐々に「分析的」になっていると例を挙げて書いていた。例えば「's」をつけて所有や帰属を示すというやり方は、よりシンタックスに依存した「of」に取って代わられつつある。

言語進化の話で、さらに驚いたのは、孤立語である中国語は徐々に接尾辞などを多くとる膠着的な性質を強めており、結局のところ、世界の言語は膠着語に向かっているという話だ。中国語は分からないけど「的」をつけて形容詞や所有格を作るというようなことだろうか。そういえば、この「的」というのは英語やフランス語の「-tic」という語尾から来ているそうだ。

日本語話者の矜持におもねるようなこの結論は、単にモンゴル語を中心にウラル・アルタイ語属に関する研究をしてきた田中氏の強いバイアスが入ってないのか。都合のよい学説だけ集めてきてないのか、非常に気になるところだ。

しかし、膠着語が「安定した構造で変化が少ない」というのは、確かに事実であるような気がする。古文の授業で、ほんの少し助詞や特殊な活用を勉強するだけで1000年以上も前の本が読めるのは、日本語の安定性を端的に示す例だという。

ザメンホフは、こうしたことを知っていたからエスペラントを膠着語的に作ったのだという。そして、そうした性質があったからこそ、エスペラント語はアジアでもかなり広い層に支持されたという経緯があるという。宮沢賢治も山田耕作も、北一輝も、柳田国男も、エスペラントに傾倒したらしい。

ともあれ、ヨーロッパ言語が今後進化して変化していくべき究極の形を、エスペラントというのは一気に実現してしまったのだ、と評価する言語学者もいるという。

「われわれの国語はこんなに複雑で表現力が豊かだ」という国語自慢に対して田中氏は冷淡だ。だいたいにおいて、Aという言語が、ほかの言語に比べてどうのこうのという議論は言語学的根拠をもたない。

暇がある上層階級は知的優位を強調するために、複雑な言語を複雑なまま使うことを美徳とする。一方、日々忙しい一般人は例外規則を覚える学習時間など避けないから、より速いペースで合理化、単純化を推し進める。この間読んだ日本語の歴史の本には、こんな例があった。日本では室町時代から江戸時代にかけて起こった二段活用の一段化という単純化は、武士よりも庶民の間で速く起こったということが、近松の浄瑠璃の台詞をみると分かるという。

ら抜き言葉も同様だ。合理的根拠もなしに、いつまでも「らあり」にこだわっているのは、たいがいは暇をもてあました文人タイプの人間だ。こうした知的ペダンティズムの背後には、単なる言語学的知識の欠如ばかりでなく、もう少し別の力学が働いているのだろうと思う。

ある時期、2つの用法や文法が併存するということがある。たいてい「言葉の乱れ」と呼ばれてしまう新しいほうの形は、いずれ普遍化していくもの、と思っていた。ところが驚くことに、アルメニア語は「こだわり派」と「単純派」で2つの言語に分岐してしまったと、旧ソ連の言語学者マルが指摘してるらしい。そんなことが起こりえるのか……。

英語と米語も、ややそうした分裂状態にあるように思う。綴りでも言い回しでも文法でも、イギリス人は古い形がいいと思っている。アメリカ人は背負った歴史がないぶん、変化を気にしない。だから、かなり単純化が進んでいる。

最後にもう1つ、非常に気になった論点を。日本語という言葉は、漢語で水浸しになってしまって、もともとあった大和ことばの多くは失われてしまった。それを柳田国男は「荒涼たる日本語の風景」と呼んだという。

そんなことを言ったら、いま再び英語の洪水の中でツユだくになって大和ことばと漢語と英語がマーブル模様に入り交じってしまった現代日本語なんて、いったいどうなるんだ。

と、いうことはともかく、漢字や漢字文化を「負の遺産」として排除すべきと考えた日本人や中国人の話が気になる。1974年に中国を訪問した西園寺公一は、過去の日本の蛮行をわびた。そのとき、トウショウヘイは自分たちも日本に迷惑をかけたといい、その1つが「孔子の道」を伝えたことで、もう1つが漢字の弊を与えたことと言ったそうだ。

日本で仮名文字運動が広がった時期、中国でも漢字廃止の運動があったという。日本のそれは背後にナショナリズムの高まりがありそうだけど、中国のほうは何だろうか。中国共産党が簡体字を制定したのは1960年代。漢字の表音文字化を企てる背景には共産主義思想があったともどこかで聞いたけど、どうなんだろうか。この辺、非常におもしろいテーマだ。

投稿者 ken : 2008年01月23日 23:25

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