2007年06月17日
あれこれ
ちょっと前だけど、mixiの会員が1000万人を超えた。2000年頃に@niftyの会員数が500万を超えたと聞いて、すごい数だなと思ったものだけど、その倍の数を獲得するのにmixiは、わずか3年3カ月。アクティブ会員の比率は微減を続けているらしいけど。
mixiもTwitterも、ついでにIMも、どうも使い続けられる気がしない。コメントやトラックバックのほとんど付かないブログというのが、いちばん気が楽だ。誰が見てるか分からないというのがいい。それまで見ていた人が、あるときを境に見なくなるというのも、書いてる側には分からないほうがいい。人間関係の距離は常に変化しているもので、同じ人同士でもある時は密にコミュニケーションしたかと思えば、数年ぐらい疎遠になったりということを繰り返すもの。
疎遠になることを許さないシステムは窮屈だ。誰かとつるんでいないとやり切れないティーンエージャーじゃあるまいし、同じメンツといつまでもベタベタしてたら嫌になる。
「メールを出す間柄」であっても、「1カ月以内にメールをもらって、すぐに書き送れる相手」、「アドレス帳に登録がある相手」、「古いバックアップからメールボックスを探せばメールアドレスの分かる相手」、「検索すれば出てくるアドレスの相手」、「知り合いに聞けば、たぶんアドレスが分かる相手」というように、心理的な疎遠度が、ちゃんと運用上の「面倒さ」に対応している。
mixiやTwitter、IMといったツールのデザインの背後には、人と人を最短距離でつなぐことがすべてで、そうすることでみんなハッピーになれるという素朴コミュニケーション論があるように思える。
例えば、マイミク、フォロワー、アドレス帳といったコンタクト情報が、コンタクト頻度と連動して徐々にグレーアウトしていくインターフェイスというのはどうだろうか。 1カ月接触がないと1段階レベルが下がり、インターフェイス上見えにくくなる。3カ月経つと、また疎遠度が1段階上がり、数クリック先の画面にのみ表示されるようになる。たとえ、この段階にある2人のうちいずれかが連絡を取っても、すぐにはレベルを戻さないようにする。チャットならやり取りが10往復以上、マイミクのコメントなら相互の日記に対してコメントがある場合のみ、というように仲良しレベルに簡単に戻らないようにハードルを設ける。ここのさじ加減は、きっとコミュニケーションツールの性質そのものに影響する。
よく分からないのは、ぼくがmixies(と、いきなり一緒くたにして複数形に)に対して感じている違和感が、新しいコミュニケーションメディアが出てきたときに人々が感じる違和感の一般的なものであるのかどうか、ということだ。それまで連絡手段として手紙を使っていた人々が、電話を使い始めた初期に感じた違和感は、どんなモノだったんだろうか。ケータイについて「いつも追いかけられるようで嫌だから持たない主義」と言っていた人種が絶滅したのは2005年頃だったように思う。普及から10年かかっている。
鹿児島あたりでは「薩摩揚げ」という食品名はない。天ぷらと呼ぶ。そういう話を聞いたことがあったけど、これは九州全域か、少なくとも宮崎でそうらしい。宮崎のうどん屋で「天ぷらうどん」を頼んだら、薩摩揚げが載ったうどんが出てきて脱力した。
選択肢があるのは不幸なこと。「あちらを選ぶことができたのに」と考えることが、すでにしてしまった選択についての満足度を下げる。引く手あまたの新卒は、入社後にそういう心理に陥りやすい。自分の選択は正しかったのかと思い悩む。むしろ、もう交換は不可能だという条件になると、人々は自分の選択したモノを慈しむ。この意味で、ヤフオクは購買行動の後にやってくるべき高揚感を著しく損ねていると思う。ヤフオクのおかげで、買ったものが気にくわなければ、たいした差額を失わずとも交換可能となってしまった。ぼくはニコンのカメラを買った後、半年間は「やっぱりキヤノンに買い替えようか、いやペンタックスのほうが……」と吹っ切れなかった。最初からオークションでの売却を想定してモノを買うのは、本当は不幸なことなのかもしれない。
いや、しかし、それはデジタルカメラになってから銀塩のときにあったシャッターを押す瞬間の緊張感や、現像のときの楽しみがなくなったと言って嘆く年寄りと同じで、実際には幸せの総量は増えたと考えるべきだろう。買い物の失敗が事実上なくなったメリットは、購買後の迷いが発生するというデメリットに比べてはるかに大きい。
日本列島は粟を撒いたような小国という意味で、おもに中国人が用いる粟散国とか粟散辺地(ぞくさんへんち)という言葉があるけど、プレートテクトニクス的に言ってそれは本当だったことを知った。海洋プレートが大陸プレートにめり込んだとき、海底に堆積していたカスがモコモコと盛り上がってできる「付加体」と呼ばれるものが2億年ほどたまってできたのが日本列島。アワのように生まれ出てきた岩なんだ。まあ、それを言えば地球上のどんな陸地でもアワのように生まれてきたものだろうけど。
「必ず必要」という言い方は、それほど違和感はないし、実際に自分でも使っているように思う。もともと「必要」が「必ず要する」ということだから「必ず」は重複だということになるけど、たぶん良くある類の言葉の変化。しかし、もう少し微妙なものが増えているように思う。「拡大化する」、「有効化する」、「分類分けする」、「機能性がある」……、これらは<必ず必要>と同じものではなくて、二字熟語全体に起こりつつある変化を示しているんじゃないかと思う。町田健は「~性、~化、~的」は、それが不要なときには取り除けと文章読本で書いていた。おっしゃるとおり、表現として冗長だしシマリがない。ものによっては誤用と言えるものもある。しかし、そういうことじゃなくて、熟語の名詞性が急激に強まっているということなんじゃないかと思った。
知人が「ナウいヤングにバカウケ」といった。この表現は二巡して古くなったと思う。1980年代に流行したこの言葉を1990 年代後半あたりに、あえてレトリカルに使うのは意味があった。それはナウかった。2000年になってからは、リバイバルとしてすら古くなった。次にもう1 度ナウが来る日はあるのか。死語はコンドラチェフの波に乗るのか。
議論には厚みと深みの2つがあって、「薄い議論」と「浅い議論」というのがある。薄い議論というのは事実や既存の議論に対する言及がなく重みがないもの。浅い議論というのは、思慮が足りずに短絡的に結論を出している議論。
アットマーク(@)やアステリスク(*)をロゴやネーミングに入れるのって、今さら感が強い。スラッシュも小文字のiも、もう古い。今後、コロン(:)はどうだろうか。「:e!」(コロン・イー!)とか「:DD」(コロン・ディーディー)とか、「:x」(コロン・エックス)とか、かなりギークっぽいネーミングでいいと思うんだけど。特にコロン・エックスはスマイリーにもなっているところが味噌。
外来語として英単語が激増している。外来語には、すっかり定着したものから、定着しているとは言い難いもの、日本人の半分ぐらいしか認識しないもの、英語が得意な人でも知らない可能性のある単語と、かなり幅広いスペクトラムを持つ。業界用語とか専門用語は訳すのが面倒で、そのまま使ってしまうこともある。たまに英単語が先に頭に浮かぶと、それがあまりにも言いたいことにぴったりで、対応する日本語が頭に出てこないために、えいやっで口にしてしまうこともある。そういうルーズでエキセントリックな外来語のユーセッジに対して、知的ファッションだとかペダンティックだとか言いつのって、良くない傾向だと指摘する人が多い。確かにファッションであり、ハッタリであったりもするのだけど、そういう嫌らしい心理というのは、今後1、2世紀かけて起こるであろう英語から日本語への膨大な語彙流入という言語変化の津波でいえば、波頭の白い部分に過ぎないのだと思う。共時的現象と見ても、やっぱり波頭の白い飛沫みたいなもんに思える。津波というのは飲み込まれつつある人の目には見えない。
山手線の中でベルリッツが提供するワンポイント英語レッスンみたいな映像を見た。「in a jam」は「困った状況にある」という意味らしい。そんなもの、ノンネイティブが覚える必要はゼロだと思うし、こんなイディオムを覚えたところで実用英語運用力が上がるわけがないんだけど、どうしてこういうのが喜ばれるんだろうか。自分で使えもしない口語とか、ネイティブ同士でも住む地域が違えば通じそうもない凝ったイディオムとか、やったってしょうがないだろうに。
ある人がプレゼンで、こんなことを言った。「これはね、英語で何と言ったかな、そうそう“ネピュラ”、いや何度聞いても忘れるんですよ、この単語。これ、聞いてすぐに意味が分かる人は英語がネイティブレベルですね」といった。で、それはセイウンという意味だという。青雲には、英語でそんな呼び方があるのか知らなかったなと思った。でも3秒後に気づいた。それは「nebula」(星雲)のことでしょう。この程度の単語を知らないからというよりも、この程度の単語は知ってて当たり前と思っていない事実からして、この人は外国語のセンスがないなと思った。中学生の9割が知ってるような単語ぐらい、知ってていいんじゃないだろうか。
大手メーカーに取材に行って、あれこれ話を聞いていたら担当者が内線で「お水を8つ持ってきてください」という。2人の「オー・エル」が登場してコップとペットボトルを丁寧に置いていった。驚愕。これが「日本」の「大企業」なのか。オーエルって何やってるんだろうか。
NTTドコモのN氏が、「今度は月9レベルを●人集めましたよ」と、気味の悪い笑みを浮かべたとき、ゲツクの人って、例えば誰だろうかと考えて、ただの1人も思いつかなかった。実際、ゲツクの人たちが出ているとおぼしきポスターを見ても、誰1人として顔が分からなかった。2001年にアメリカから戻ったときより、さらに強く自分が異邦人に思えてくる。
毎朝、ムスメを抱っこして登園している。気をつけていても、気づくとスーツやワイシャツ、ネクタイによだれの跡がつく。しかし、若いときのキスマークと同じで、まあ人に指摘されたら、それはそれで苦笑いすればいいかというぐらいの誇らかな気持ちだったりして。
アマゾンプライムに入った。1500円以下でも送料無料。さっそく1冊だけ買ってみた。でも価格は2600円だった。
投稿者 ken : 2007年06月17日 21:46
コメント
こんにちは通りすがりです。
高校まで鹿児島にいましたが、
少なくとも鹿児島で薩摩揚げを天ぷらと表現する人には会ったことがありません。
そういうエリアもあるのかなぁ。
かごしまではつけあげとか呼んだりします。
鹿児島もジャグも懐かしくなるこのごろ。
投稿者 元鹿児島人の元じゃぐらー : 2007年07月11日 21:18