« 1枚のRAWからHDR | メイン | ディストーション »
2007年04月30日
ジプシーとは誰か
水谷驍、『ジプシー――歴史・社会・文化』(平凡社、2006.06)
非常におもしろい。
起源も歴史も謎に包まれているジプシーとは誰のことで、どういう人々なのか、ということを解き明かす試み。インド起源という仮説が有力だったりするものの、この本の結論は、
彼らは、歴史や文化、さらには出自を共通にする「ひとつの民族」というよりも、各国の歴史のなかで形成されて、その過程でいくつかの特徴を共有するにいたった多様な人間集団と考えたほうが適切なのではないか。
というもので、その形成プロセスとは、以下のようなものだったのではないかと著者は指摘する。まず背景として、
中世封建制が解体されて近代社会が発展していく過程で資本主義的生産関係を基礎とした国民国家が形成されるが、それは同時にひとつの価値観のものとに包摂された「国民」の形成過程でもあった。その価値観の基本となったのが、キリスト教、定住生活、そして勤勉な賃労働である。
という近代国家の形成があった。その過程で「国民」として包摂されずに近代社会からはみ出し、漏れ落ちていく人々がいた。
近代資本主義社会はつねにある種の「隙間」があって、主流社会によって烙印押捺されて排除・排斥されたこうした人間集団にも居場所があった。このような隙間にあって地域社会に不可欠なさまざまな「サービス」を提供することによって、そこに生活基盤を得て再生産されていったのである。主流社会の側も、隙間を埋めるという経済的な機能を果たすかぎりにおいて、このような人間集団の存在をつねに許容してきた。こうして、今日見られる「ジプシー」と呼ばれる人間集団が近代ヨーロッパ社会に広く形成され、再生産されてきた。
サービスというのは占いだったり、お祭りのときの歌や踊りだったり、あるいは専門性の高い工芸品の職人だったり、鍛冶屋だったり。必要不可欠だけれども、常に必要とされるものではないようなサービスの提供者として、ジプシーたちは新たな顧客を求めて旅をしていた側面もあるという。
15世紀ごろから近代にかけてヨーロッパで起こったのと似たようなプロセス、つまり主流社会からこぼれ落ちて流浪の民が発生するというプロセスは、明治期に日本でも起こったのではないか著者は言う。日本にはクグツやサンカと呼ばれる人々がいた。
サンカと呼ばれる人々は、幕藩体制から明治へと移行していく時期、つまり日本における封建制から資本主義体制への移行の過程で広く発生した貧民・流民層が時の政治権力によって「サンカ」さらには「山窩」とレッテルを貼られて排除、排斥され、その結果として主流社会とのあいだで特異な関係を形成するにいたった人間集団である。
ジプシーをインド起源とするなら、サンカはジプシーではないけれども、「ジプシー近世流民説」に立てば、その日本版がサンカではないかという指摘。日本資本主義も、ヨーロッパ資本主義と同じようにジプシーを作り出したのではないか、という。日本では江戸末期に興隆する貨幣経済の波にのまれ、土地を捨てて逃げ出した「走り百姓」と呼ばれる人々が多く出たという。
ジプシーとサンカの類似性は、主流社会から排除されたという点だけではなくて、ロマン主義小説家に取り上げられた点でも似ているという。例えば、イギリスの作家、ジョージ・ボロー。
ボローの作品は現代機械文明の人為制に「野生」や「自然」を対置する十九世紀ロマン主義の風潮とぴったり一致した。十九世紀以降の詩人や作家の多くが、軽蔑と嫌悪の対象ではなく、愛着と憧憬の的としてジプシーを描き出し、これに永遠の生命を与えた。それはジプシーの実像を語ると言うよりも、この時代を特徴付けた都市化と工業化の現代社会にたいするこれら作家たちの幻滅を、失われた古きよき時代にたいするノスタルジアを表現したものだったのである。
日本では1903年生まれの元新聞記者、三角寛がサンカを題材に小説を多く物し、人気を博したらしい。サンカの実態が知られていないことでかえってロマンチシズムの入り込む余地があったという。誰にも支配されず、誰の干渉も受けずに生きる自由人と書けば聞こえはいい。
三角寛は小説だけでなく、実地にサンカの集団に入り込み、「サンカ社会の研究」という論文も書いたという。出版当時は科学的な研究として受け取られたものの、現在では彼の研究のほとんどが捏造であることが判明しているという。
皮肉なもので、間違いだらけの「科学的研究」についても日本のサンカとヨーロッパのジプシーは似ている。日本の三角寛に相当するのは、ゲッティンゲン大学の若き歴史学徒、ハインリッヒ・グレルマン。グレルマンは、それまで300年近くも謎に包まれていたジプシーと呼ばれる人々についての初めて「科学的」な研究論文、「ジプシー――ヨーロッパにおけるこの民族の生活と経済、習慣と運命、ならびにその起源に関する一試論」というものを1783年に発表した。
グレルマンの仕事は主観的で恣意的な議論ばかりで、結局のところ、それまでヨーロッパで流布していたジプシー像の集大成にすぎず、実証的な研究と呼べるものではなかったらしい。であるにも関わらず、その後、グレルマンの文献が繰り返し参照されることになる(ヨーロッパ人の文献主義ってやつは)。
そもそもヨーロッパではなぜ突然15世紀になってジプシーと呼ばれる人々が登場したのか。肌が浅黒く、「エジプト人」と呼ばれたことが、そもそもの始まりで(ジプシーはエジプト人がなまったもの)、そういう意味では最初からずっとジプシーたちは誤解されてきたということだ。現在では例えば、
ジプシーの伝統や習慣と一般化されれてきたものが、一部の集団のそれにすぎなかった。インド起源とされてきた習慣や伝統がじつはバルカンその他の地域に起源があったことなどが明らかにされてきた。
という。単一の民族でもなければ、伝統や習慣すら共有していない。そもそも流浪の民というイメージが強いのに、実際のジプシーの放浪民の比率は約20%。そんな基本的な事実ですら主流社会の思い込みである可能性が大きいという。ジプシーと呼ばれる人々の人種的な構成がミックスであるのは、例えば、
雑多な貧民層・流民層は外国出身だけでなく、有利となればことさらに外国人風を装ったものもいたに違いない。
というような事情があるからではないかという。ジプシーには肌が黒いのも白いのもいた。
比較的共通性があるのは言語で、ジプシーの多くは、サンスクリット語起源のロマニ語の各種方言を使うという。そこからインド起源説が唱えられていて、有力な仮説として現在も一定の説得力をもっているという。ほとんど言語学的な証拠だけであるものの、だいたいジプシーの起源と足跡についての、現在もっとも妥当な説明は、こんな感じらしい。
まず、1000年前後にインド北部から戦争などの理由で数万単位での人の移動が起こった。その人々はバルカン半島までたどり着く。14世紀になるとオスマン勢力がバルカン半島に侵攻し、徴税のためにジプシーの遊動を嫌った。それで、オスマン支配下でジプシーたちの定住が進む。これが現在、西ヨーロッパよりバルカン半島にジプシーが多いという事実を説明する。19世紀半ばになると、ルーマニアでジプシー奴隷制が廃止され、再びジプシーは新天地を求めてヨーロッパ北西部や東部、スカンジナビア半島、さらに南北アメリカ大陸に移動する(カルデラリの大侵攻)。こうしてヨーロッパ全体で600~900万人、アメリカに100万人という現在のジプシーの世界的な分布ができあがる。
日本ではサンカが差別的扱いを受けてきたというけれど、ヨーロッパでジプシーたちが受けた迫害に比べると、まだしも人間的だなと思った。ヨーロッパでのジプシーたちの迫害のされようというのは、ナチス・ドイツによるユダヤ人の扱いのような感がある。キリスト教の聖書のすばらしい教えにより、殺戮が正当化されたりする。ジプシーたちは捕獲され、追いやられ、殺されてきた。『黒いスイス』という本によれば、20世紀になってからもスイスではロマ族と呼ばれるジプシーの子ども達を施設に隔離するために国家ぐるみで誘拐を繰り返していたというし、ホントにひどいもんだ。
全世界に1000万人いるとなれば、ちょっとした国家規模の人口ということになる。ヨーロッパで言えばギリシア、チェコ、ハンガリーあたりの人口と同じぐらいだとか。ところが、ジプシーには共有する歴史や伝統もなければ、言語すら異なるという事情があって、ユダヤ人などと違ってジプシーを代弁する代表者というものが、長らく存在しなかった。そのために、ジプシーの人権は長らく顧みられることなく、司法による過去の迫害認定もつい最近になって、ようやく行われたのだという。
ジプシーの本を読んだついでに「ジプシー・キング」について調べてしまった。彼らってホントにジプシーだったのね……。
投稿者 ken : 2007年04月30日 23:48
コメント
面白かったです(^-^)/
参考になりました☆
投稿者 ま : 2007年07月15日 07:34