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2006年11月22日

ヨーロッパを見る視覚

阿部謹也『ヨーロッパを見る視覚』(岩波書店、1996)

すこぶる付きでおもしろい。

日本には“society”の訳語として「社会」が割り当てられているけど、もともと日本には「世間」という言葉があった。ヨーロッパの学問を採り入れるにあたって、あえて訳語に世間という言葉をあてずに、「社会」という言葉を作ったのは、「世間」はsocietyとは違うニュアンスをもっていることを、先人たちは鋭く見抜いていたからだという。

世間という言葉は、1970年生まれのぼくの周囲では急速に使われなくなって来ているように思う。1935年生まれの著者は、こう書く。

家庭の団欒の中で父親が息子に「この社会で生きていくにはね」といった言い方は、よほどのインテリでない限りしない。「おまえ、そんなことでは世間では通らないよ」といった言い方は日常的にすると思いますが、その際の世間と社会は根本的に違うということは、自覚していっているわけではないけれども、世間という言葉を使う人は百パーセント知っていると思います。

これを読んで、ぼくはあれっと思った。確かに親の世代は「セケン、セケン」と言ったように思うけど、いまや社会という言葉だって、別にインテリ家庭じゃなくともふつうに使う。

社会という言葉の語感が、ずいぶん変わってきているのじゃないだろうか。言葉の変化は現実を映すもので、この本で著者が世間というものが急速に崩壊してきているように、ぼくは感じている。セケンというのは生々しい人間のつながりのこと。親族をはじめ、地域、会社、学校などの集団そのもの。人間関係でつながった集団。いっぽう社会は、ルールベースの集団。契約や法、公的な概念で人間集団を外部から規定するドライな空間。パブリックなもの。東アジアでは、いまでも社会よりも世間という存在のほうが強い。

ヨーロッパでは12世紀ごろに恋愛や個人が生まれたという。11世紀以前のヨーロッパは、現在の日本や東アジアと変わらない世間とも言うべき社会構造をもっていた。たとえば、バイキングの活動を記録した12、3世紀の書物、「アイスランドサガ」を読むと、集団間の復讐劇が延々と綴られているのに、個人名はぜんぜん出てこないという。個人は集団に埋没していて、名前など、別になんでもいいという時代だったことの証。あの個人主義の欧州人も、かつては個など主張しなかった。

世間を特徴づけるのは、長幼の序があるということと、贈与互酬関係で人間関係の調整が行われていることだそうだ。で、そうした贈与慣行を断ち切り、世間的呪縛から解き放たれ、ヨーロッパは近代社会への道を歩みはじめた。なぜヨーロッパでだけ、そういうことが起こったのか。

著者は、キリスト教の彼岸信仰と、教会の告解制度の成立を指摘する。

それまで現世での人的つながり維持の重要な方法として近しい人同士の間で贈与が行なわれてきたものを、人々はしなくなる。代わりに、天国への憧れから人々は熱心に教会へ寄進しはじめる。贈与によって結ばれた、曖昧で非合理的な関係から、教会という存在を介して客観的で公的な関係に変化していく。なるほど、絢爛たるゴシック様式の教会がぼこぼこ建てられた時代ってのは、つまり贈与慣行が崩壊しはじめた時代だったのだ。

教会、あるいはキリスト教が人々に求めたのはお金だけじゃない。「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに治部の命まで捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない」とルカには書かれているという。いつも思うけど、ひどい話だ。マタイ伝には、「地上に平和をもたらすために、わたしが来たと思うな。(中略)わたしが来たのは、人をその父と、娘をその母と、読めをそのしゅうとめと仲たがいさせるためである」とある。本当にひどい話だと思う。個人主義といいながら、個は神によってしか基盤を与えられていないわけか。ニーチェが批判するわけだ。

フーコーがヨーロッパの原点にあると説いたのが、1215年のラテラノ公会議で決定した、成人男女のすべてが年に1度、告白をしなければならないとした告白の義務化。自分の罪を意識し、自分自身について語ることで、個人や人格といったものが形成されていく。世界の外側に仮想した神という存在でもって絶対座標を設置し、そのどこかに自分を位置させる。それが中世以降のヨーロッパ。日本では、世間の目による相対座標で自分の位置を確定するしかない。どこの大学を出たとか、どこのカイシャで働いているといった肩書きをはじめとする、関係性の束のなかでしかオノレを定位できない。

日本だけじゃないけど、インターネットのブログ文化が人間に及ぼす長期的な社会的、文化的影響というのは、ラテラノ公会議に匹敵するようなものになるんじゃないかと、そんなことを思った。

本論と関係ないけど、本のなかでおもしろいと思った指摘を2つ。

キリスト教が南米や東アジアでは普及して、日本でだけまったく普及しない理由は、よく分からないけど、著者はヨーロッパ人に聞かれると、「キリスト教はかつて自分たちの文明よりも高い文明に教義を広げたことはない」と答えるらしい。実際、ヨーロッパから来た宣教師たちの学力が低過ぎて、日本の僧侶に太刀打できない、ということを宣教師たちは言っているという。

もうひとつ、身分制度がないことになっている日本なのに、いまでもIDやライセンスカード、旅券のことを「身分証明書」と呼んでいる。今日も「身分を証明するものをお持ちですか」と言われたけど、考えてみたら、証明するのは個人のアイデンティティーであって、身分なんかじゃない。

投稿者 ken : 2006年11月22日 23:29

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