« 2006年10月 | メイン | 2006年12月 »

2006年11月27日

カメラ雑誌購読中

カメラ雑誌やカメラ関連本を、どかどかと買い込んでニヤニヤしている。「そうなんだよ、今はそれを知りたかったよ、いい特集してるなぁ」とか言いながら雑誌を読むなんて、十数年前にパソコン雑誌を棚買いしていたとき以来だ。

50mm/F1.4の単焦点レンズが楽しい。やっぱり断然明るくて、日が暮れてからでもISO800なら手持ちでがんがん撮れる。固定焦点だと自分が前後に動いて被写体との距離を調整しなければいけないけど、やってみると、そんなに違和感を感じない。非ズームって、もっと不自由なものかと思った。要するに焦点距離が決まれば構図も決まるってだけのことか。構図の自由度は下がるけど、いろいろ撮る気になれば撮れるような気がしてきた。まあ、トリミングでどうとでも……(ダメじゃん)。

いい感じでボケて、ほっぺの柔らかい感じが出た

投稿者 ken : 23:10 | コメント (3)

2006年11月26日

トリックスター

4492653856トリックスター 「村上ファンド」4444億円の闇

『週刊東洋経済』村上ファンド特別取材班
東洋経済新報社


早い時期から村上ファンドを追い続けた週刊東洋経済の記者たちが一連の騒動をまとめた本。素晴らしい取材力と構成力。村上氏の子ども時代や学生時代についても、よく調べている。学生時代の村上氏の言動から、彼が生来の山師だったことがよく分かる。

昭栄や東京スタイルといった村上世彰のデビュー戦はもちろん、世間の耳目を集めたニッポン放送や阪神電鉄の株大量取得まで含め、村上マジックの本質はどれも同じだという。

  1. PBR1倍割れや不動産・キャッシュなどを多く持つ資産リッチ企業の株を取得
  2. マスコミを利用し資産価値が株価に反映していない割安銘柄だと騒ぎ立てる
  3. 株価上昇後に一気に売り抜ける

「もの言う投資家」というのは、単に騒いで金儲けするだけの目立ちたがりやでしかなかったということ。無為無策で放漫経営を続ける企業の株を買い占め、資産を有効活用させるために提言するということ自体は、社会にとっておおいにプラスだし、そのことで財をなすのは正しいことだと思う。この意味で村上世彰は正論しか言っていない。

でも実際に村上容疑者がやっていることを見れば、この正論は、それこそ金儲けのための方便でしかなかったことがよく分かる。株式売買や会見での発言といった客観的データで追って行く著者たちの立論に触れてみれば、村上ファンドの違法性はグレーゾーンなんてもんじゃなく、真っ黒に思えて来る。

米国のように包括規定を適用するかどうかという問題は、村上ファンドの違法性がどうこうとか、そういうレベルの話ではなくて、もっとずっと大きな社会・経済のシステム設計にかかわる話で、そういう意味で、これは日本の証券市場のターニングポイントになるような事件なんだろうなぁ。

投稿者 ken : 11:47 | コメント (0)

2006年11月25日

AF Nikkor 50mmのF1.8とF1.4のレンズの違い

買ってしまった単焦点レンズ。しかも、ほとんどスペックの違わない2個を同時購入。どちらか一方は、試し撮りをしたら、売っ払うつもり。

ぼくと同じように「Ai AF Nikkor 50mm F1.4D」と「Ai AF Nikkor 50mm F1.8D」とで、どちらを買うべきか迷っていて検索してくる人もいるかもしれないので、比較した結果をメモ。

左がF1.4D、右がF1.8D

そもそも話からはじめると、F1.4の威力は暗いところでも撮れることと、被写界深度が浅いこと。被写界深度が浅いというのはピントの合う範囲が狭いということで、撮影する主題以外の前後のごちゃごちゃがボケて、うまく画面を整理しやすい。

これはたぶん人間の主観的視界に近い。というのも、人間の目は視界の狭い範囲しか本当の意味では見えていないので、たとえば視界の中央以外で文字を読むことはできない。人間は見たい対象を視界の中央にもってきて、そこに注視する。周囲は見えているけど、見ようとしないかぎり、ぼんやりとした印象しか脳に伝わっていない。だから、広い範囲でピントが合ってしまうコンパクトデジカメでは、何となく不自然な、立体感のないノペーッとした印象を受ける。

コンパクトデジカメ(CANON IXY 900)で撮った例。背後にまでピントが合ってしまう。レンズが暗いこともあって、ISO感度が高め。結果、ノイズの乗った写真にしかならない
F1.4のレンズで撮った例。背景がキレイにボケている
顔(目)にピントを合わせると前や後ろがキレイにボケる。これがF1.4のレンズの威力。コンパクトデジカメの味気ない写真とは、だいぶ違う。暗い部屋でもフラッシュは不要
美しいボケが得られる代わりに、あまりにピントの合う範囲が狭いので、こういうモノを撮るときはF1.4でも絞りを絞って撮影しないとボケボケで変な写真になる

で、F1.4とF1.8の違い。

価格は2万7000円と1万7000円で、F1.8のほうが1万円ほど安い。バカ高いレンズのことをおもえば、どっちも格安なので、誤差みたいなものだと思う。というか、これを誤差と思えないなら、こんなレンズは買わなくていいような気がする。

重さ。F1.4のほうが230g、F1.8が155g。単体で手にもっても、ボディに装着しても、それなりに違いがあるけど、これもまあ大口径レンズを使ってるぼくからすれば誤差みたいなものかなと思った。使ってみるまでは軽いほうがいいだろうと思ったけど、たいして違わない。

F値の違い。F3.5とかF2.8に比べると、どっちにしても極端に明るいのでF値の違いは、ほとんどぼくには違いが分からない。F1.4のほうが、ややシャッター速度が稼げるかな、という程度。

F1.4。ぬいぐるみの手もボケている
F1.8では手のあたりまで焦点が合っている
F1.4で文字を撮った例
ややアングルが違うけど、F1.8の例。確かに焦点の合う範囲がやや広い

レンズの評価基準として解像感というのも非常に重要らしいけど、うーん、今のぼくの腕や利用の仕方で、それはどうも分かりそうにない。初心者が気にするようなことじゃないと思う。周辺歪曲やビネティング、色収差あたりも、まあ分かるような違いがあるように思えない。違いが分かるような構図や被写体があるのかもしれないけど、わざわざ分かろうと思わない限り分からない違いを血眼になって探すようなレンズおたくにはなりたくない。

もっと気になる違いはレンズのデザインと重さ。

F1.4は発売が1995年で、F1.8のほうは2002年。発売年に7年の差があるからか、どうもF1.4のほうのデザインは垢抜けない。F1.4のボディは金属製でF1.8はプラ製だから、F1.8のほうが安っぽいという人が多いようだけど、ぼくの印象は正反対。F1.4のほうの文字のプリントは、昭和50年代のデザインかよというほど古い感じがして安っぽく見える。F1.8のほうは、特別にカッコいいと思わないけど、グレーの文字のプリントがふつうに今っぽい。

最前面のレンズがぎりぎりまでせりだしていて大きいぶん、F1.4のほうが「レンズっぽい」。たぶん、レンズが引っ込んでいるほうが太陽光が入り込んだりしなくて光学的にはいいんだろうけど、デザイン上は、レンズが威張っているほうがいいように思える。

F1.4をD80に装着。「50mm」という白い文字がイマイチ古い感じ
F1.8をD80に装着。グレーっぽいプリント文字のほうが好み。レンズが引っ込みすぎという気もする
正面から比較。レンズの径はF1.4のほうがだいぶ大きい
斜めから比較。このツルンと光ったF1.4の感じがレンズっぽいと思うのはシロウトだからだろうか

とまあ、F値も重さもデザインも誤差みたいなもの。だったら、大は小を兼ねる式発想で、より明るいF1.4を選ばない理由はない。ただ、最初からF1.8だけ買っていたら、それはそれで幸せだっただろうなと思ったりもする。さすがに、ほぼ同等なレンズを2個もっておくほど富豪でもレンズマニアでもないので、F1.8のほうはヤフオク行き決定。

投稿者 ken : 11:51 | コメント (1)

2006年11月23日

読めない本

読んでいてツマラナイ本は、眠たくなるというばかりじゃなくて、本を読もうという日々の気力を奪う。電車待ちのときに、「どうせ15分ぐらいだから」と、かばんから取り出すのが面倒だなと思うような本は捨ててしまったほうがいいんじゃないだろうか。

ふだん、4〜10冊の本を並行して読んでいるけど、そのうち3冊ぐらいがツマラナイと、読書が楽しいものだったということすら忘れはじめる。もったいない。

「現代中国が一気にわかる」「会社法改正ポイントまるわかり」「知っているようで知らない日銀」という類の本は、ぼくにとって気力を奪う典型だと最近つくづく思い知った。パラパラと本屋で眺めると、確かによくポイントがまとまっていて「これを2時間で読めば、ざっくり分かって賢くなりそう」と思うんだけど、実際には最初の数ページで嫌になってしまうことがほとんど。教科書的なものが嫌いというのではなくて、たぶん、何の意外性も知的刺激もない単調さが耐えがたい。

ロースクールに通う友達に、法律関係の入門には伊藤真がいいよと進められて読んでみたけど、たとえば憲法の概説書なんかは、あまりにくだらなくて脱力した。伊藤真は司法試験を目指す人たちには絶大な人気があるらしく、確かにコンパクトに要点をまとめてくれているのは便利なのかもしれないけど、しょせんは実務家を目指す人のための参考書。憲法の骨子を最短時間で把握して試験に備えるにはいいんだろうけど、憲法を所与としている時点で、ぼくのような天邪鬼には、この上なくツマラナイ。たとえば、憲法学者の奥平先生と宮台真司の対談に比べると、知的コーフン度合において、絵本と経典ぐらいの差があるように思える。

ということを考えると、チャート式で平易に書かれた概説書より、多少無理してでも、その分野でもっとも議論されている最先端のことを取り扱う本を選んだほうが、ずっと読み終える確率が高い。たとえ網羅的でなくとも、そのほうが、ずっとその分野の理解にも役立ちそうだ。

うちのムスメは早熟なので分厚い本もスイスイ

投稿者 ken : 21:10 | コメント (0)

ミカン

J.ハーバーマス、三島憲一訳『近代――未完のプロジェクト』(岩波書店、2000)

文庫本はいいなぁ。お尻のポケットに入る。でも、入れているとボロボロになる。市民的不服従について述べた章だけ少し読む気になった以外は、どうにもこうにも。

投稿者 ken : 11:45 | コメント (0)

2006年11月22日

オランダモデル

4532148219オランダモデル―制度疲労なき成熟社会

長坂 寿久
日本経済新聞社


イギリスやオランダ、そしてアメリカといった西欧先進国は、いずれも前世紀末に経済が停滞し、そこから抜け出すという体験をしている。英米は「小さな政府」や「規制緩和」をスローガンにして構造改革を押し進め、経済的復興には一定の成果を収めたが、所得格差の拡大や失業率の増加といったマイナス面があった。

いっぽうオランダは、欧州のOECD加盟国が2ケタの高い失業率にあえぐなか、90年前半は6%前後の低い失業率を維持。インフレ率も低く、福祉関連の増大した支出による財政逼迫も目に見えて改善されていく。 80年代に「オランダ病」とまで言われた合併症は、魔法の治療薬で一気に快癒する。

そんな90年代のオランダの構造改革の成功を解説する好著。

魔法の治療薬は、1982年に政労使の3グループ間で取り交わされた「ワッセナーの合意」というもので、政労使の3者がそれぞれ苦い薬を一緒に飲みましょうという合意だった。

労働組合は賃金上昇抑制に同意する。経営者は労働時間短縮を進めるいっぽうで、パートタイム雇用の創出をはじめとする雇用促進に邁進する。政府は財政支出の抑制と、企業の国際競争力を高めるための環境作りをするというものだった。

雇用形態による待遇差別を撤廃しようという社会的合意を、他国のことながらとても羨ましく思う。正社員だとか契約社員だとか、バイトという雇用形態の違いによる賃金格差をできるかぎりなくして、それぞれの労働者が家庭と仕事のバランスを主体的に決める。オランダでは、欧州他国同様に共働きが多いものの、それはけして1+1という共稼ぎではなく、たいていは1+0.5だったり、0.7+0.7だったりするという。家族に時間を割くという選択をする人が多い。フルタイムとパートタイムの間に、実労働時間による賃金以外の差がないとしたら、確かに全員がフルタイムを望むとは思えない。

日本の多くの企業では、それなりにいい給料をもらおうと思うと、正社員として、常に頭ひとつ抜き出るぐらいがんばらないといけなかったりする。裁量労働だとかホワイトカラーエグゼンプションだとか言って長時間労働を事実上強要される。本当は給料も労働時間も7割にしたいと思っている人が多いと思うけど、そういう選択肢は日本企業には存在しない。周囲に認められるぐらい働いて10割もらうか、手を抜いて居場所を失うかのどちらかで、中間というのは、あまりない。中間っぽいところで、うまーく息を殺しているタイプの人もいるにはいるけど、それは構造上それが可能だからやっているというより、うまく機能していないシステムの隅に巣食うニッチ住人という感じ。

日本の状況はともあれ、このワッセナーの合意で重要なのは、利害が対立しがちな三者が、コンスタントな対話を通して最善の解を求めていくというコンセンサス醸成のプロセスで、そもそもそうした合意が可能となる背景には、オランダ社会の基底にある社会的DNAが関係しているのではないか、と著者は指摘する。

社会的DNAというのは、1つは「ポルダー」の歴史によって培われた話し合いの文化があること。13世紀ごろから干拓によって国土を作っていく過程で、治水管理の必要性から民主的な合議体制が発達したという。互いに自分の土地の水路の水位を管理し、データをもとに話し合うという風土が、都市国家的存在だった時代から存在している。

治水というのは予測できない自然現象を相手にする。氾濫するときには氾濫するのだから、いかにコントロールするかが重要。オランダに赴任した著者は、かの国の人達が「コントロール」という言葉をよく口にするのに気づいたという。コントロールという発想は、犯罪への対処なんかでも同じ。犯罪というのは処罰や取り締りを厳しくすればなくなってハッピーというような単純なものでもないので、昨今の日本や米国のように、漠然とした社会不安を言い募るメディアに煽られて、ことあるごとに厳罰化や取り締まり強化を叫ぶ不合理な人間は少ないらしい。麻薬や売春は、取り締まってなくなるようなものではなく、社会というものの裏面みたいなもの。治水と同じで抑え込もうったって抑え込めないという事実を、彼らは受け入れる。だから、彼らはコントロールをむねとする。アムステルダムで麻薬や売春を合法としているのは、違法とすることによってオモテ社会の目の届かないアンダーグラウンドにそれらが潜り込むことを防止するため。かつて日本でも裏社会と官憲は、どちらかが他方を徹底排除しようという関係ではなく、おめこぼしや小さな賄賂をやりあってきたという。それは小さな悪に対しては必要悪として目をつむることによって大きな悪をコントロール下に置く知恵でもあった。

著者が指摘するもう1つのオランダ社会のDNAは、多様なグループが共存してきたという歴史。オランダは60年代までは、プロテスタント、カトリック、社会民主義、自由主義など宗派や政治信条別に、まったく別の社会グループを構成していたという。それぞれのグループは学校や病院、メディア、カフェといった社会の私的、公的施設・サービスにいたるまで異なっており、各グループを「柱」とみなした「柱状社会」という言いかたが可能だ、と指摘する。現在ではさすがにこうした柱状社会は表向きはなくなってきているものの、政労使の話し合いがもたれ、有意義な合意に達し、それが実現された背景には、グループ間の対話プロトコルのような目に見えない社会的リソースの存在があったのではないかという。

投稿者 ken : 23:47 | コメント (0)

ヨーロッパを見る視覚

阿部謹也『ヨーロッパを見る視覚』(岩波書店、1996)

すこぶる付きでおもしろい。

日本には“society”の訳語として「社会」が割り当てられているけど、もともと日本には「世間」という言葉があった。ヨーロッパの学問を採り入れるにあたって、あえて訳語に世間という言葉をあてずに、「社会」という言葉を作ったのは、「世間」はsocietyとは違うニュアンスをもっていることを、先人たちは鋭く見抜いていたからだという。

世間という言葉は、1970年生まれのぼくの周囲では急速に使われなくなって来ているように思う。1935年生まれの著者は、こう書く。

家庭の団欒の中で父親が息子に「この社会で生きていくにはね」といった言い方は、よほどのインテリでない限りしない。「おまえ、そんなことでは世間では通らないよ」といった言い方は日常的にすると思いますが、その際の世間と社会は根本的に違うということは、自覚していっているわけではないけれども、世間という言葉を使う人は百パーセント知っていると思います。

これを読んで、ぼくはあれっと思った。確かに親の世代は「セケン、セケン」と言ったように思うけど、いまや社会という言葉だって、別にインテリ家庭じゃなくともふつうに使う。

社会という言葉の語感が、ずいぶん変わってきているのじゃないだろうか。言葉の変化は現実を映すもので、この本で著者が世間というものが急速に崩壊してきているように、ぼくは感じている。セケンというのは生々しい人間のつながりのこと。親族をはじめ、地域、会社、学校などの集団そのもの。人間関係でつながった集団。いっぽう社会は、ルールベースの集団。契約や法、公的な概念で人間集団を外部から規定するドライな空間。パブリックなもの。東アジアでは、いまでも社会よりも世間という存在のほうが強い。

ヨーロッパでは12世紀ごろに恋愛や個人が生まれたという。11世紀以前のヨーロッパは、現在の日本や東アジアと変わらない世間とも言うべき社会構造をもっていた。たとえば、バイキングの活動を記録した12、3世紀の書物、「アイスランドサガ」を読むと、集団間の復讐劇が延々と綴られているのに、個人名はぜんぜん出てこないという。個人は集団に埋没していて、名前など、別になんでもいいという時代だったことの証。あの個人主義の欧州人も、かつては個など主張しなかった。

世間を特徴づけるのは、長幼の序があるということと、贈与互酬関係で人間関係の調整が行われていることだそうだ。で、そうした贈与慣行を断ち切り、世間的呪縛から解き放たれ、ヨーロッパは近代社会への道を歩みはじめた。なぜヨーロッパでだけ、そういうことが起こったのか。

著者は、キリスト教の彼岸信仰と、教会の告解制度の成立を指摘する。

それまで現世での人的つながり維持の重要な方法として近しい人同士の間で贈与が行なわれてきたものを、人々はしなくなる。代わりに、天国への憧れから人々は熱心に教会へ寄進しはじめる。贈与によって結ばれた、曖昧で非合理的な関係から、教会という存在を介して客観的で公的な関係に変化していく。なるほど、絢爛たるゴシック様式の教会がぼこぼこ建てられた時代ってのは、つまり贈与慣行が崩壊しはじめた時代だったのだ。

教会、あるいはキリスト教が人々に求めたのはお金だけじゃない。「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに治部の命まで捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない」とルカには書かれているという。いつも思うけど、ひどい話だ。マタイ伝には、「地上に平和をもたらすために、わたしが来たと思うな。(中略)わたしが来たのは、人をその父と、娘をその母と、読めをそのしゅうとめと仲たがいさせるためである」とある。本当にひどい話だと思う。個人主義といいながら、個は神によってしか基盤を与えられていないわけか。ニーチェが批判するわけだ。

フーコーがヨーロッパの原点にあると説いたのが、1215年のラテラノ公会議で決定した、成人男女のすべてが年に1度、告白をしなければならないとした告白の義務化。自分の罪を意識し、自分自身について語ることで、個人や人格といったものが形成されていく。世界の外側に仮想した神という存在でもって絶対座標を設置し、そのどこかに自分を位置させる。それが中世以降のヨーロッパ。日本では、世間の目による相対座標で自分の位置を確定するしかない。どこの大学を出たとか、どこのカイシャで働いているといった肩書きをはじめとする、関係性の束のなかでしかオノレを定位できない。

日本だけじゃないけど、インターネットのブログ文化が人間に及ぼす長期的な社会的、文化的影響というのは、ラテラノ公会議に匹敵するようなものになるんじゃないかと、そんなことを思った。

本論と関係ないけど、本のなかでおもしろいと思った指摘を2つ。

キリスト教が南米や東アジアでは普及して、日本でだけまったく普及しない理由は、よく分からないけど、著者はヨーロッパ人に聞かれると、「キリスト教はかつて自分たちの文明よりも高い文明に教義を広げたことはない」と答えるらしい。実際、ヨーロッパから来た宣教師たちの学力が低過ぎて、日本の僧侶に太刀打できない、ということを宣教師たちは言っているという。

もうひとつ、身分制度がないことになっている日本なのに、いまでもIDやライセンスカード、旅券のことを「身分証明書」と呼んでいる。今日も「身分を証明するものをお持ちですか」と言われたけど、考えてみたら、証明するのは個人のアイデンティティーであって、身分なんかじゃない。

投稿者 ken : 23:29 | コメント (0)

2006年11月20日

鏡のなかの自分

鏡のなかのパパやママに大喜び。と、思ったら、自分の姿にも大はしゃぎ。いつごろになると、それが自分だと分かるんだろうか。分かっていない状態というのも可愛い。

最近は鏡がお気に入り

投稿者 ken : 23:57 | コメント (0)

2006年11月19日

東京ドームの遊園地

東京ドームの遊園地。ジェットコースターがなかなか。

高い
でかい
ビルを突き抜けて
やや、HDRっぽい写真

投稿者 ken : 22:01 | コメント (0)

2006年11月18日

劇的に有効なアドバイス

F1.4以上の明るい単焦点レンズを使ってみたいと思って、数本のレンズをリストアップ。30mm、50mm、85mmと、いくつか候補を絞る。まずは30mmか50mmだろうけど、30mm近辺の選択肢は、価格を考えると事実上SIGMAの30mmしかない。これは、すごくいいレンズだという評判は聞くけど、やや高いし、デカいし、何というかセクシーさに欠ける。単焦点レンズみたいなものって、モノとして気に入って(悦に入って)ナンボみたいなところもあるので、所有欲をそそられない。同じ「高い、デカい」でも、カールツァイスのPlanarT* 1.4/50 ZFとかは、色気ムンムン。素人目にも、見た目が全然ちがう。実はNikkorでも、画質はほとんど違わないというので、3万円と5万円の価格差は、ブランド力と、質感やツクリへのこだわりといった部分。趣味のカメラなんだから、どうせなら持ち歩きたくなるPlanarを買えよって話だ。

この質感の違い! Nikkor(右)のピントリングのゴムのボコボコとか、ある意味ありえない……

ただ、PlanerT*はNikon D80で使うとAEが効かないという。ピントどころか露出も自分で合わせないといけない。これはNikkor F1.2Sみたいなレンズでも同様で、D80はハイアマチュア向けのD200と、そのへんが違う。後から知って悲しく思ったけど、まあ、D200みたいなゴッツいカメラを持ち歩くほどの気力はないし、そこらへんはバランスというものだろうか。

現行NikkorのAF 50mmではF1.4とF1.8の2つがある。安い店なら実売価格で2万7000円と1万7000円。F1.4のほうがいいに決まっているというものでもなくて、重さ、使い勝手、画質のシャープさを考慮して、むしろF1.8を選ぶ人も多いという。明るさで無理していないぶん、F1.8のほうが素直だという。軽いので散歩用レンズとして重宝するという意見には説得力がある。230gと155gでは、だいぶ違う。

ネット上のアドバイスを見ると、どっちを買うかは「何をどう撮りたいかによる」という当り前のものばかり。と思ったら、劇的なアドバイスに出会ってしまった。「安いレンズなんだし、両方買って試してみて、気に入ったほうだけ残して他方は売ればいい」。頭イイ! そうだ、ぼくらにはヤフオクがあるんだった!

というわけで、富士カメラというところのオンラインショップで2本まとめて注文してしまった。じっくり撮り比べもできるし、F1.4とF1.8がどう違うかを自分で確かめられるのだから、2000円前後になると思われる差損も、いい投資かもしれない。

カタログを見たりしているうちに、あのレンズもほしい、このレンズもほしいとなってしまって、レンズだけで何十万円も投資してしまう状態を「レンズ沼にはまる」というらしい。かなり危険だ。

投稿者 ken : 23:34 | コメント (0)

2006年11月17日

カレンダー計算

サバン症候群患者が見せる天才的な特殊能力の例として、すぐに思い浮かぶのはカレンダー計算。確かに、「西暦2万4096年11月17日は何曜日?」という質問に、10秒ほどで正解を出せるというのは、ちょっとしたものだ。「いったいどうなってるんだ?」と思わせるのに十分なインパクトがある。

ただ、これはむしろマジックに近いものだったらしい。その計算手法を知れば、ちょっと算数のできる子どもなら、誰でもできるような計算でしかなかったことを、Mind Performance Hacksという本で知った。タネを知らないから驚くだけで、タネ明かしをすれば、「なーんだ」という類。

1年は365日(350+14+1)なので、曜日というのは1年で1つ進む。2006年11月17日が金曜日なら、ちょうど1年後の2007年11月17日は土曜日。逆に1年前の2005年11月17日なら木曜日となる。ただし、うるう日があるとずれる。2008年は2月29日があるので、11月17日の曜日は2007→2008年で2つ進む。この法則は「(YY + (YY div 4)) mod 7」という計算で表わせる。YY div 4は「年の下二桁を4で割った商」、mod 7は7で割った余り。

曜日は1年で1つ進む。では1ヶ月ではどうかというと、28日しかない2月は特殊で0。31日の月には3つ進む。30日の月は2つ。1月を起点として、何月はいくつ進むかというのを、あらかじめ暗記しておく。7つ進んだら、それは元に戻って0という意味だから表に出てくるのは0〜6の数字で、要するに0〜6で表わされる12個の数字を覚えるだけ。

100年ごと、400年ごとのうるう年の例外があるので、世紀ごとに調整パラメーターをあらかじめ計算しておき、これも表として覚える。これは、その場で計算したとしても、たいしたことはない。

ユリウス暦とグレゴリオ暦の移行時の問題もあるけど、それにしても単に1492年を境にパラメーターをプラスかマイナスするだけ。

というように、曜日を言い当てるだけのカレンダー計算は、実は単純な四則演算、それも1桁か2桁のものでできるような簡単なものでしかなかった。慣れれば10秒でできて当然だ。カレンダー計算に比べると、巨大な数字の3乗根を瞬時に答えてしまうような計算のほうが、ずっと驚きだ。

投稿者 ken : 22:35 | コメント (1)

2006年11月11日

HDR

オンライン写真コミュニティーのflickrを見ていて、CGのように見える実写写真が多くあるのを不思議に思っていたけど、それはHDR(High Dynamic Range)と呼ばれる、計算機処理されたデジタル写真の新表現だったらしい。現在8ビットとかせいぜい12ビット程度で処理・記録されるデジタル画像を、各色32ビットで処理する。同じ写真を露出を変えて何枚か撮影し、それをPC上で処理することで、32ビット×3色の空間上で表現されたHDR画像を作り、それを再びPCで表示できる8ビットに落としこむ。すると、今までに見たこともないような、不思議な、美しい写真になる。

嘘っぽいと言えば嘘っぽいけど、もともと写真表現は嘘でしかない。技術とともに表現手法は変わって来たのだろうから、こういうのは全然ありだと思う。

これ、カメラ本体でやるべきじゃないだろうか。と、書いていて思ったけど、ペンタックスがK10Dでしきりに「画質革命」と言っている12ビット処理って、プチHDR処理ってことなんだろうか……、あいや違うか。ブラケティングするわけじゃなし。

HDR、楽しそう。作ってみたい。


CinePaintというソフトで、さっそく作ってみた。カメラの使いかたがよくわかってなくて、F2.8開放で撮ってしまったので、手前のおもちゃがボケている……。という失敗はおくとしても、ぜんぜんHDRっぽくなってないのは何故だ。光の加減と被写体が悪いか。

シャッター速度を変えて撮影
元の写真群と比較すると、確かに色が豊かに表現されている気もしなくはないけど
モノクロにして切りぬいてみた

投稿者 ken : 21:27 | コメント (2)

2006年11月10日

バッタリ

東京で暮らしていると知人にバッタリ会うということは少ないけど、今日はなぜか2人の知人にバッタリ。日比谷公園で義理の姉に、六本木ヒルズのスタバで元同期の小川に会った。小川は前の会社が倒産したそうで、そのとき4ヶ月間も給料が出ない状況になるなど「貴重な体験」をしたらしい。

投稿者 ken : 23:12 | コメント (0)

2006年11月08日

夜の東京

ヒルズの上。意外にコンパクトカメラでも良く撮れるなぁ。

六本木ヒルズから。月は合成。でかすぎた

投稿者 ken : 23:23 | コメント (3)

2006年11月07日

IXY DIGITAL 900 ISとLUMIX DMC-FX07の比較

またカメラを買ってしまった。今度は一眼レフじゃなくて、コンパクトデジカメ。用途が違うのでどっちも必要なのだ。ケータイのカメラじゃあまりに寂しいし、一眼レフじゃ大げさだというシーンはたくさんある。特にメモ代りの撮影で使うにはケータイのカメラは、かなりストレスが溜る。Webページやメールをプリントアウトする代わりに、ぼくは液晶画面をバシバシ撮るし、読んだ本のなかで傍線を引いた箇所もバシバシ撮る。そういう用途にはケータイはまったく向かない。

パナソニックのLUMIX DMC-FX07にするか、キヤノンのIXY DIGITAL 900 ISにするかでずいぶん迷ったけど、結局「同クラスなのにブランド名だけでIXYのほうが1万円高い。操作性はむしろLUMIXが上」というネットの評判を信じてLUMIXを2万8400円で購入。ところが使ってみると、画像送りが極端に遅くてビックリ。IXYはさくさく画像が切り替わるのに、FX-07は、モサッモサッとしか切り替わらない。いまどきプレビュー用のサムネール画像を作ったり、JPEGの展開回路を工夫して表示を高速化するのは当然だと思っていたので、がっくり。画素数を落としても変わらないので、購入翌日にはヤフオクに出品。

256MBのSDカードをセットにしたら2万7600円で落札された。購入価格が2万8400円だから、やっぱりヤフオクは売り手市場だなと改めて思った。256MBのSDなんて、今やゴミみたいなもんなのに……。

気をよくしてIXY 900を再購入。秋葉で数店舗を巡ったけど、3万9000円前後の安い店は、ほとんど在庫切れ(秋葉というより正確には末広町近辺。最近は末広町の倉庫系オンラインショップがアツい)。店員に聞いたら、やっぱり、よく売れてるらしい。やや高いなと思ったけど、4万800円の店で購入。「お客さん、運がいいですよ。たったいま、数台入ったところですけどね、全然ないんですよ」と言われた。確かに30分前に同じ店に来たときには「SOLD OUT」の表示だった。

IXY 900とFX07は、よく比較されている。でも、比較以前の問題でIXYの勝ちだ。それが使ってみた感想。1万円の差があるのは、ブランドやデザインだけの問題じゃなかった。画質のことについては、ぼくはコンパクトなんだから、どうでもいいと思ってる。ノイジーながら、そこそこの高感度が使えることと28mmの広角があれば、あとはどうでもいい。

やっぱり撮影画像のビュー機能については圧倒的にIXYのほうが速い。メニュー構成も含めて操作性はIXYのほうが格段に上だし、画像編集系の機能にもIXYは、おもしろいものが多い。たとえばワンポイントカラーという機能。プレビュー画面の中で指定した範囲の色を拾ってきて、その色以外の部分をモノクロにして撮影する機能。

ワンポイントカラーのサンプル。1色だけ彩色した写真が簡単に撮れる

320×240ドット、60fpsで撮れるMotionJPEG動画というのも、ジャグリングの動画を撮影するぼくにはポイントが高い。スローで再生すると気味が悪いほど滑らかに動画が動く。もちろんVGAサイズの動画も撮れる。ただ、動画ではデジタルズームしか効かなかったりするのに使ってみて気づいた。これまで使っていた動画デジカメ、サンヨーのXacti C4では当然のようにできたけど、これは、動画をウリにする動画デジカメの面目躍如といったところか。しかしまあ、いくらMPEG-4が圧縮率が高いといっても、2GBの高速なSDカードが4980円で買える今、MotionJPEGのほうがむしろベターだ。圧縮率は低いけど、MotionJPEGは高画質だし、編集ソフトでMotionJPEGに対応してないものは、たぶんない。全フレームを馬鹿正直に撮ってるんだから、扱いやすいってことなんだろう。それにMPEG-4にしたければ、PC上でやれば簡単にできる。2GBのカードを使えば、640×480ドット、30fpsで16分半、320×240ドット、30fpsで44分半も撮れる。Xactiで256MBのカードを使っていたときと同じぐらいで、これは使いきらないなって感じ。

DMC-FX07にはUSB端子がなく、必ずカード経由でPCに画像をもっていく必要がある。ボディを小さくするためとはいえ、そりゃないだろうって思った。そんなことも調べずに買ったのも悪いけど、最近「まあヤフオクがあるから、万一何かあったら売ればいっか」で買ってしまいがち。

IXY 900にはUSB端子がついているけど、これはこれで微妙に曲者だった……。てっきりマスストレージクラス対応と思ったのに、PTP/IPというプロトコルを使っているらしい。IPベースだったり、サムネイルだけもってきたりもできる高機能なものらしいけど、うーん、微妙に面倒。ISOで標準化されてるし、XPには標準でドライバーが入ってるし、Windows用にはTWAINドライバーなんかもあるみたいだけど、Linuxなぼくは、結局gphoto2というソフトでアクセスすることになる。これだと、PCの写真保存フォルダとシンクロさせるスクリプトを書き換える必要がある。めんどくさい(書きながら思ったけど、これはLinuxの問題か)。

昔のIXYに比べるとボディーは安っぽくなった。最近、加工技術が進歩したからか、なんでもかんでもプラスティックで成形してしまうらしい。金属を使うよりはるかに軽くなるし、実は強度とか傷に対する耐性もむしろ金属より高くなるんじゃないかと思うけど、安っぽく感じられてしかたがない。これは慣れなんだろうなぁ。あと3年もしたら、「昔のデバイスって金属で重かったよね」と言いながら、レトロな機器を眺めたりすることになるんだろうなぁ。

しかしデザインは、まあ好きだし、なんか買って良かったなと思えるおもちゃだ。LUMIXを買ったときには「これで良かったんだろうか」、「ホントにこれが必要だったんだろうか」と思ったけど、IXYで、そんな煩悩はなくなった。

マクロは一眼レフよりも、コンパクトカメラのほうが、むしろいい
買って良かったなぁ

投稿者 ken : 23:00 | コメント (2)

2006年11月02日

リサとガスパール

リサとガスパールというキャラクターのぬいぐるみ。元はフランスの絵本。

じっー
じーっ

投稿者 ken : 23:32 | コメント (1)