« 2006年09月 | メイン | 2006年11月 »

2006年10月29日

近所の散歩

近所を散歩。今日も写真あれこれ。

「幽霊坂」。うちの近所には暗闇坂だの幽霊坂だの暗い小路が多い。
隣の4丁目は寺だらけ
赤ちゃん地蔵!?
公園には井戸が。今でも出そうな雰囲気
ベビーカーでご機嫌
目をアップにすると撮影者の姿が写り込んでいた
高台には古墳跡があった。白々しい埴輪のレプリカ。散歩しないと、こういうの見落としてるなぁ
柿がなっていた。空の青とオレンジをコントラスト良く撮りたかったけど、どうも白っぽい写真になってしまう。夕方じゃしょうがないか
記念撮影

投稿者 ken : 18:31 | コメント (0)

2006年10月27日

食べたもの

今日食べたり飲んだりしたもの。いろいろ写真。見ながら反省。

そばセット。パースききすぎ
二八そば。被写界深度浅すぎ。
おさしみ。もうちょい絞らないと
日本酒。手ぶれ
かに。トリミングしてかにの赤を強調いたほうがいい
サーモン? ピンが後ろ
ごまだんご。もう2段ぐらい絞ったほうが
ワイン。グラフのフチの向こう側より手前側にピンがあるほうがよさげ。右に0.5度ぐらい傾いてる
ナッツ。色がヘン

投稿者 ken : 23:46 | コメント (0)

2006年10月26日

カメラ購入

買ってしまった、Nikon D80。ヨドバシカメラで11万9800円(ポイントで1万980円引き)だったものが、新宿マップカメラでは10万3800円。マップカメラのほうが5000円も安かった。ヨドバシ高いぞ。ハードディスクやメモリーは高くて有名だし、もはやヨドバシまったく信用ならず。

レンズはVR搭載の18-200が、えらい人気だそうで深刻な供給不足。向こう4ヶ月ぐらい入荷の予定がないんだとか。そのレンズが便利そうだったからニコンを選んだような感じもあるので、ちょっとがっかり。でもまあレンズは、おいおい買い足せればいい。とりあえずはタムロンの安くて評判のいい17-50mm/F2.8を購入。うーん、明るいし、ファインダーが大きくて見やすい。

ぐふふ、カメラ買ったぞ
顔をいろいろ。ボケ味なかなか!
夜の街をいろいろ。明るいレンズ、高感度イイ!
にわかニコン信者

投稿者 ken : 23:33 | コメント (3)

2006年10月25日

カメラ熱

デジタル一眼レフがほしくて、ものすごい勢いでカメラとレンズの情報をかき集めている。大人になるまでカメラには露ほども興味がなかったし、仕事でそれなりに写真を撮るようになってからも、必要だからシャッターを切ってるだけで、好きでも嫌いでもなかった。知識も最低限。「カメラってよく分かんないんですよね」というのが口ぐせで、編集長に「カメラの理屈なんてコンピューター機器に比べたら簡単なもんだよ。ちょっと勉強すれば分かるよ」と10年ぐらい言われ続けた。

むかし、バイクやカメラには手を出さないでおこうと思った。もともと興味がなかったというのもあるし、すでに相当なパソコンオタクだったので、これ以上オタク臭を身にまとうのはよくないだろうということで、あまり詳しく知ろうとも思わなかった。

カメラ雑誌やネットを読み漁って、だいたいカメラ業界の不思議な言い回しが分かって来た。「f1.4のトロけるような甘さはあるが、周辺光量不足が気になる。f2ぐらいまで絞れば使えるし、もっと絞れば、さすがニコンとうなるようなシャープな解像感を楽しめる」とかいうレンズ紹介の記事を読んで、萌えるようになってしまった。どうでもいいけど、カメラ系の人達って、結論がでっこないことで延々と同じ話をしてられる人なんだな。まあそれはどんな趣味でも同じことで、ニコン派とキヤノン派の確執というはMacユーザーとWindowsユーザーのそれに近いなと思った。

キヤノンやカールツァイスの、やたらと高いレンズがうちにはごろごろしていて、キヤノンマウントなら、夫婦でレンズを共有できるのに、ここはあえてニコンで。手ぶれ補正のあるVR高倍率ズームと、明るい大口径ズーム、中望遠あたりのマクロ、それに30mm、50mmあたりでF1.4の明るいレンズがあれば十分か。あ、やっぱり超広角も赤ちゃんを撮るには楽しそうだから、VR付きの10-20mmぐらいのレンズも。20cmぐらいまで寄れるやつで超音波モーターで。純正でそろえたらレンズだけで40〜50万円になりそうだ。

ともあれ、夫婦で共通の趣味をもつのはいいことだ。

ニコンは今どき搭載しててよさそうな手ぶれ補正機能をカメラ本体に内蔵していない。だからレンズ側に手ぶれ補正機構のあるやつがほしくなるわけだけど、そうするとレンズ2、3本で本体の価格超えてしまう。という話をしたら、「私のレンズは1本で15万よ」と妻が言った。夫婦で共通の趣味をもつのはいいことだ。

つくづくジャグリングというのは金のかからない趣味だと思う。若い人が多いのも道理。カメラ売り場に行くと20代ですらいなくて、40〜50代が中心という感じだしなぁ。カメラは金がかかる。ある程度年齢があがって使えるお金の単位が変わって来ると、なんというかジャグリングのような趣味では満たされなくなるという側面もあったりして。

趣味ってお金の使い道を考えるためのものという見かたもありえて、ブランドのカタログを見ながら、うなったり、ぽわーんとしたりするのが楽しかったりするもの。ビジネスマンがゴルフクラブを買ってにんまりするのとか、会社経営者がヨットを眺めてにんまりするのとか、単位が違うだけで、高校生がジャグリングショップのカタログを見て、ジャグリングクラブのブランドや色で頭を悩ませるのと、まったく構図が同じだ。

消費活動には、自己措定というか、アイデンティティを自分で再定義するための小道具という側面がある。天気のよい休日を使ってまで愛車の洗車をする人の気が知れないけど、所有による自己措定の儀式としみれば、なるほど、まあ理解できる。ペンタックスが斬新な機能を搭載してきたというのは分かるし、コストパフォーマンスがいいのも分かるけど、ペンタックスに欠けているのは、所有欲を満たすブランド力。とかいって、銀塩時代には長らくペンタックスを気に入って使っていたけど、まあそのときはペンタックスが、カメラ好きの間でどういうブランドであるか知らなかった。

そういえば、駅のプラットフォームでデジカメを落としたら、シャッターが切れなくなった。半押しでAFも動いているし、動画も撮れるので、電子的なエラーというよりシャッター部のメカニカルな故障という気がする。

困った。コンパクトデジカメも買わないと。困った。LUMIXなのか、IXYなのか。

投稿者 ken : 11:00 | コメント (0)

2006年10月14日

名古屋への旅

熱海の実家へ。新幹線を乗り間違えて新横浜から一気に名古屋に。のぞみって、こだまの兄弟かと思った。父親が航空会社勤務だったもので、新幹線ってほとんど乗ったことがない。

名古屋駅で食べたきしめんがまずかった。駅前には高砂殿と河合塾本校が。12時品川発12時44分熱海着の予定が、名古屋で折り返して熱海に着いたのは4時6分。誤乗扱いで追加料金はなし。

名古屋!?

投稿者 ken : 23:39 | コメント (5)

2006年10月05日

くだらない記憶

最後の晩餐は傷みが激しいうえに、後年の修復作業で本来の絵と異なる絵柄が書き加えられていたり、キリストの表情が変えられていたりするという。

経年変化での損傷が激しいのは、ダビンチが、当時壁画でよく使われていたフレスコではなくテンペラという技法を使って描いたから。

フレスコはイタリア語でフレッシュの意味。下地の漆喰が塗りたてのところに描くので乾いたときの定着がいい。そのかわり、乾き切る前に描かなくてはならず、遅筆のダビンチは、これを嫌った。ダビンチは何度も何度も描き直したり、描き加えたりするタイプの画家だった。

最近の修復作業のおかげで、最後の晩餐のメニューが魚であったことや、キリストの口がかすかに開いていて何かをしゃべっていることなんかが分かったという。

……というどうでもいい雑学ネタに触れたとき、10代だったら、「テンペラ」「フレスコ」という技法名とともに勝手に覚えてしまっていたのだろうけど、最近は注意力が散漫だからか、本筋と関係のないことは素通りしてしまう。技法名は文字面の印象だけを見て覚えようという気には、あまりならない。

むかし、こういう雑学ネタは何も意識しなくても勝手に覚えてしまっていた。そんな風に感じていたけど、もう少しよくよく思い出してみると、どうもそれは「かつては記憶力がよかった」という先入観から来る錯覚に思えて来る。10代のころは、こういうネタをため込んで人に話すことに、けっこう労力を注いでいたように思う。よく考えると雑学ノートすらつけていた。雑多な領域の専門用語を覚え込むことが快感だった。10代というのは背伸びとかハッタリが好きなもの。

そんなことを思い出していたら、くだらなくて役に立たないことでも全部残らず一切合財覚える努力をしてみようという気になってきた。記憶というのはネットワークだから、覚え過ぎて困るということはなく、むしろ覚えまくったほうが記憶力はよくなるはず。

イエス・キリストが天ぷらの入った実験用のフラスコを不思議そうに見ているビジュアルをイメージするだけでいい。最後の晩餐はフレスコ(フラスコ)ではなくテンペラ(天ぷら)。freshとtemporaryという知識とも、なんとなく整合性があって覚えやすい。

投稿者 ken : 23:53 | コメント (2)

2006年10月03日

Undercover Economist

undercover economistThe Undercover Economist

Tim Harford
Oxford University Press


探偵気取りの経済学者が、実生活のミクロな経済からグローバリゼーションのマクロな経済まで、経済学のイロハ的なことをエッセイ風にまとめた本。Steven D. LevittのFreakonomicsっぽい雰囲気を醸し出しているんだけど、いまいち。扱っているネタは、スタバのコーヒー価格付けの謎から始まって、ロンドンの交通渋滞緩和政策の話しだとか、自由貿易の効用、途上国が貧乏なホントの理由だとか、けっこう幅広いんだけど、いかんせんFreakonomicsのようにビックリするような結論がない。

いくつかおもしろいなと思ったことで、覚えていることを箇条書きでメモ。

投稿者 ken : 23:01 | コメント (0)

2006年10月02日

自分という感じ

コミュニケーションの本能というのはすごい。赤ん坊も2ヶ月を超えて来ると、大人の肉声を聞いて、それにたいして口でモゴモゴ言いはじめる。モゴモゴ言いながら、こちらの反応を待って様子をうかがう。育児書によると、ここでちゃんと反応してやることがやっぱり大事らしい。こうしたことを繰り返して行くうちに、会話はキャッチボールなんだと理解する。

おしゃべりの雰囲気が出てきた

赤ん坊とコミュニケーションしていていると不思議な気分になる。

成人のコミュニケーションは、事実や抽象的思考を表わす意味内容を、言語に載せてキャッチボールしていると見るのが日常感覚だけど、これはちょっと素朴な見かた。実際には意味を投げあっているというよりも、相互に相手の心にたいして作用しあっているだけで、相手の心の状態や、その変化の状態は、原理的には自分には分からない。なぜなら、それを知るにはなんらかのコミュニケーション手段に頼らざるを得ず、そのコミュニケーション手段の絶対性を知るには、さらにその検証が必要で……と無限後退が起こってしまうから。

そもそも相手にも自分と同じような心や意識があるということですら、その確実性は永遠に証明できない。日々のコミュニケーションや、MRIや解剖学の知見から、そう考えるのが妥当だと推論しているに過ぎない。

相手に心が存在し、その相手の心に期待した作用を与えることに部分的にであっても成功したという仮定を連続的に続けることで会話は成り立っている。日常的には疑われることがない、これらの仮定が実際に真である論理的な根拠はない。コミュニケーションが成立しているかどうかは、原理的には証明不可能だ。

赤ん坊と音のキャッチボールをしていて、不思議だなと思った。こちらが音を発すると、それをキャッチして音を返してくる。そこでぼくは、「この赤ん坊の心に作用を及ぼすことができた」と分かる。いや、分かる、というか仮定する。多数の刺激と反応のタイミングから言って、それが偶然ではありえないほど「呼びかけ−応答」のモデルに合致しているから経験的にそう判断しているだけだ。

「いま何時?」と聞いたら相手が時計を見て「2時前」と答える。このぐらいになると、もう心の存在を疑うこと自体ナンセンスに思えて来るし、やっぱりセンテンスというのは意味を運んでいるとしか思えなくなって来る。

だけど、果して成人と赤ん坊のコミュニケーションは、それほど違うのだろうか。音を出して戻って来た音から、あるモデルの存在を仮定しているだけで、その仮定は原理的には正しいかどうか証明しようがない。どっちも仮定のうえに「ある」と思い込んでいるだけの話だ。

この奇妙な感覚は、最近0才児、1才児、4才児と発達段階の違う子たちと音のやりとりをしてみて、なお強まった。確かに年齢相応の違いはあるけど、その違いは連続している。質的な違いと呼べるようなものはあるのか。じゃあ乳幼児のモゴモゴと成人の会話の違いは? 通じてると思ってるのは思い込みで、成人だって本当はモゴモゴしてるだけじゃないのか。

という発想って、素朴コミュニケーション論に対する批判としては意味があるけど、まあ、それ以上のものではない。「意味」と呼ばれているものは、特定の音や表現に付随する作用の集合で、その作用を受けたり観察したりする人々の幻想のなかにしか存在していない。それで別に何の不都合もないし、日常感覚ともそう違わない。

作用は入れ子構造になっていて、その入れ子の次元数が、赤ん坊と成人とでは大きく異なる。赤ん坊は親のなかに心が存在していることを、たぶんまだ理解していない。いや、推論していないというべきか(いや、推論していないことをぼくが推論しているだけ)。自分のなかに、心という外部から名称を与えられたナニカがあるとも知らない。その心を、親が読もうとしていることについては、まだ数年先にならないとわからないんだろうなぁ。

自分という意識、<セルフ>の感じって、どうやって混沌のなかから立ち上がって来るんだろうか。

投稿者 ken : 01:00 | コメント (0)

2006年10月01日

オヅな映画

牛丼復活。今日から5日間だけらしい。雨の中、バイクでわざわざ買いに行って持ち帰り。いつもより100円高い、並380円という価格。そもそも牛丼を食うのは何年ぶりだろうか。かつて会社のすぐ下に吉野家ができて、最初の1ヶ月でイヤというほど食べて、実際イヤになった。それから何年も食べたいとも思わなかったけど、まさか、わざわざ雨の中を買いに行くほど食べたくなる日が来るなんて。人間の嗜好ってやつは、稀少性とか過去の記憶とか、いろいろ絡んでるんだな。ふつうにおいしかったけど。

15号線沿いの吉野家。混雑を予想してか警備員までいたけど、雨だから客足はそれほどよくもなく、悪くもなく。約20席中10席が埋まっていた程度。午後2時半。
大盛り。味気ない写真だ。文字どおり。カメラがほしい。NikonのD80か、PENTAXのK10Dか。あるいはKissとかist DL2とかもありか。

小津安二郎『東京物語』を観た。淡々とした文体の小説に風景写真をつけたような映画だなと思った。カメラはローアングルで固定。遠景をとるときも前景にごちゃごちゃ入れる。パンもズームもなし。なるほどなぁ。原節子ってはじめて見た。美人。今もう、85才ぐらいなのか。それにしても、昭和28年の日本の風景や言葉って、こんなだったのかというほど時代の違い感じる。50年前って戦後なんだよな。


自分で書いたコマンドでも書式を忘れてしまう。自分で使うだけだから、慣習にのっとってなくてもいいやーと、妙な引数を受け取ったのがよくなかった。というわけで、書式ヘルプを出すようにした。テンプレートとしてメモ。

def usage
  puts "USAGE: rename NEWNAME jpg *jpg"
  exit
end
usage unless ARGV.length >= 3

投稿者 ken : 22:24 | コメント (0)