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2006年09月03日
そんな分けかたでもいいんじゃないでしょうか
![]() | 分類という思想 池田 清彦 新潮社 1992/11 |
「分ける」と「分かる」は語源的には同じで、モノごとを理解する根本には分類がある。分類することで対象を整理するというようりも、分類こそが思考だ。
分類は、いかに自明な基準を用いているように見えても、対象物にア・プリオリに内在する特徴をとらえているというものではない。基準は分類する側の主観にしか存在していない。そして、どんな基準を用いても、そこに恣意性は残るし、分類しきれない例外というのも発生する。だから、あまり基準自体を自明の所与としてかたくなに固持してもしょうがない。
と、このへんまでは常識的な話だと思うけど、この著者は、第1章で延々とこのあたりのことを、言語学や経済学っぽい議論を交えてくどくどと論じていて、しょっぱなから閉口する。コトバの桎梏、コトバの魔力……。うーん、何だろうな、コトバに怨みでもあるんだろうか。「コトバは思考をしばり、戦争の原因となり、資本主義の普遍性を保証する」って何のこっちゃ。湾岸戦争や社会主義の行き詰まりを、二分法がどうしただとか、コトバによる呪縛がどうしただとかで説明しようというのは、あまりに突飛。
男女という古来の分類が、DNA研究が進んだために、そう単純に行かなくなったという。それはそうでしょう。染色体から分類できる男女、外性器の特徴から分類できる男女、社会や文化の違いをとらえたジェンダーという男女の分類が、「究極的には独立」だという。究極的にはって、どういう意味かよくわからない。例外的に一致しないケースがあるからといって、それらの事象が互いに独立だなんて言うことに、どれほどの意味があるんだろうか。論理展開が強引すぎる。極論好きの人の議論は、だいたい疑わしい。
アリストテレスの昔から始まって、17世紀以降の植物学、動物学者による分類学の系譜と発展の話はおもしろい。整合性と説得力のある分類構築という作業は試行錯誤の歴史であって、それはいまでもそうなのだという話。
生物の形質は遺伝子情報に書かれているのだから、種の分岐をたどって分類すればいいように思えるけど、実際には交叉という例外もあるし、分岐とは無関係に起こる形態の類似だってあるので、話はそう単純じゃない。というような「分類というのは一意にすっきり行かないんだよ」というのは、きわめて常識的なことで、「分類という思想」という大上段に構えた本で指摘するほどのことでもないと思う。
最後の章のまとめの文章が、わからない。
私が依拠する立場は極めて単純だ。分類はいずれにせよ、人間が行なう営為のひとつである、ということだ。すなわち、すべての分類は本来的に恣意的なものである。
最も基本的な分類体系は言語である。ソシュールによってはっきり示されたように、コトバによる世界の分節は恣意的なものである。しかし、ひとたび世界があるコトバによって分節されれば、我々がそのコトバを使う限り、コトバは我々の認識様式をしばる桎梏となる。
我々の使うコトバは、我々の心身機能という自然の何らかの反映である。従って、コトバを使ういかなる分類も、何らかの形で自然の秩序を反映しているに違いない。
2段落目までは、まあ分かるけど、なんでいきなり3段落目でコトバが自然の秩序を反映ってことになるんだ。恣意的だと言ったその次に、自然だというんだから、意味がさっぱり分からない。言ってることが、めちゃくちゃだ。いや、両方ともある意味では常識的なことだけど、こう並べられても、何が言いたいのかまったくわからない。
投稿者 ken : 2006年09月03日 23:11
