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2006年03月31日

UFOはなぜ墜ちたのか

木原善彦『UFOとポストモダン』(平凡社新書、2006)

米国を情報発信の中心としたUFO神話の変遷から、社会状況や大衆の心理の変化を読み解く試み。UFO史に残る目撃事件や文書、レポートを取り上げていて、それはそれでおもしろいのだけど、その背後にある社会心理の分析が分かりやすいポストモダン思想の入門のようになっていてグッド。説得力もある。

すこぶるおもしろいので、タイトルのまずさが気になった。正しく内容を表していて情報としては過不足がないけど、これでは売れないんじゃないのか。「UFOはなぜ墜ちたのか」とか「なぜ宇宙人はグレーだったのか」とか「UFOはなぜ消えたのか」、そういうのが流行のタイトルだろうし、手に取ってもらえるタイトルじゃないかと思う。


1938年のラジオ放送「宇宙戦争」で起こった有名なパニック事件というようなものがありはするものの、UFO神話には、ほぼ明確なはじまりがある。UFOを目撃したとされる1947年のケネス・アーノルド事件がそれで、これは当時極秘の計画だったプロジェクト・モーガルという連結気球の誤認だったことが、後に確認されている。ソ連の核実験を探知するために高く上げられた縦に連なった巨大な気球だったらしい。

その飛び方を「皿が水切りするような(flew like a saucer would if you skipped it across the water, flat like a pie pan)」と形容したところから、その目撃談を聞いた記者が「flying saucer(空飛ぶ円盤)」と誤って大々的に新聞で伝えたところから、空飛ぶ円盤は生まれた。

この事件を嚆矢としてUFOの目撃談が続くなか、コンタクティと呼ばれる、異星人と交信する人々が現われる。

著者はUFO神話を3つの時期に分ける。最初にUFO目撃談が大々的に報じられたケネス・アーノルド事件から、ぱたっとUFO目撃談が途絶えるまでの1947年から1973年を「UFO神話前期」とする。このころの異星人は、

というもの。続く1973年から1995年までは、UFO目撃談はほとんど見られなくなる。かわって、異星人に誘拐されて脳にチップを埋め込まれるアブダクションや、牛などの家畜が屠殺されるミューティレーションが話題になる時代で、これを著者は「UFO神話後期」と分類する。このころのUFO神話は、

今でもテレビドラマの題材にさえなっているUFO墜落事件、ロズウェル事件もこの時期に起こっている。ロズウェル事件が象徴的なのは、墜落したUFOの遺物を回収したと発表した軍の情報を報じた翌日に、同じ新聞の1面で「気象用観測装置でUFOではなかった」と誤報であることが伝えられたにもかかわらず、訂正情報は伝播せずに第一報だけが一人歩きしてしまうという、現実からの乖離が起こったこと。

UFOを科学的に研究する価値があるかを調査する政府主導のプロジェクトが立ち上がり、1969年には『コンドン報告』として米政府は公式に空飛ぶ円盤の存在を否定。これが最終的な決定打とはならず、UFO神話は再生産に再生産を重ねて積み上げられていく。

UFO神話と似たような話にバミューダートライアングルもある。大西洋のある海域、バミューダートライアングルと呼ばれる三角地帯では謎の海難事故が多発するという神話。これは、名もないある大学図書館員が丹念に資料を精査して虚構でしかなかったことを明らかにした。明らかにしたにもかかわらず、やはりその後もまことしやかに語りつがれる都市伝説となった。

あるいは、「ロンメル報告書」。報告書ではミューティレーションは、すべて単なる病死などとして否定した。人間業と思えない鋭利な切り口などと言われた家畜の死体を調べてみて、続報で「普通の死」と伝えられても、もはや第一報は取り消せない。

メディアの情報が現実を覆い尽くす。それが後期UFO神話時代の特徴。

言説の組織化は「政府が秘密裏に……」という政府陰謀説と結びつき、さらに増殖する。そこにある強迫的な衝動を、著者は「合理性の非合理」と呼ぶ。

陰謀論者は起きている出来事のすべてに偶然性や非合理性を認めず、すべてをたくらんだ誰かをイメージします。しかし、ここにあるのはただの非合理で断片的な信念ではなく、むしろ逆に、偶然を含めたすべての出来事を合理的に説明しようとする強迫的な衝動です。つまり、陰謀論もまた、非合理なまでの合理が生んだ「合理性の非合理性」の極致なのです。

前期後期のUFO神話は、それぞれの時代の社会不安を色濃く映し出している。前期UFO神話の時代とは、ハーバーマスの言う近代のプロジェクトに対する楽観が、2度の大戦やホロコースト、原爆といったカタストロフィックな体験を通じて崩れ去っていくさまを反映している。ヨーロッパの背中を見て走ることもできない、先端を走らざるを得ない米国の不安が、そこにはあったという。

アメリカ自身には近未来図を提供してくれる存在が欠けていました。もちろん、科学技術に裏付けられた近代のプロジェクトが描く青写真はあったのですが、近代のプロジェクトに対する不信という事態が生じたことで、そこに描かれた未来と現在との間に微妙なひびが入っていました。そのひびから偶然垣間見えたのが天空の光点だったのです。それは、核に代表される新しい超科学技術と疑似科学的超科学技術とのはざま見えた光でした。

第三次世界大戦や最終核戦争といったものは、ぼくが子どもの頃にはよく喧伝されていた。核は、人類にはコントロール不能な不気味な存在として人々の脳裏に焼き付いていた。だから、超銀河文明からやってくる異星人たちは、人類をより高い存在へと導く、先導者としてイメージされた。ラエリアンムーブメントという生き残りもある「UFO教」の多くは、異星人を究極の技術文明の体現者としてあがめている。そこには、神→近代技術文明→異星人という尊崇対象の変遷がある。

前期UFO神話は1973年ごろに目撃談の激減という事態で終焉を迎える。ここから著者は、近代への不信、このまま近代を推し進めるのか、それとも立ち止まって考え直すべきなのかという岐路に立ったときに「大衆文化が与えた答えは、近代のプロジェクトの放棄ではないか」と捉える。このまま科学が発展し、社会は豊かなユートピアになるとギリギリ信じていた時代は終わった。

前期から後期UFO神話の時代に移るとともに、恐怖する対象も変わっていく。たとえば1960年代のアメリカで知的発達障害者を肝炎ウィルスに故意に感染させる実験があり、社会的スキャンダルとして発覚した。そうした人体実験スキャンダルがいくつかあり、その社会不安は「人間を家畜のように扱うエイリアンの視点と重なる」という。1968年にG・R・テイラーが書いた『生物学的時限爆弾』という本が象徴しているように、信用のならない「怖い科学」は核物理から生物科学へと変わったという。

生物科学への不信は、やがて環境ホルモンへと連なる一連の遺伝子系の都市伝説を生み出していく。こういうのも含め、人々の関心や不安の対象が外宇宙から内宇宙に向かい始めたという指摘。ミューティレーションは埋め込み不安や、内面に異質なものを感じていた人々の不安を映し出している。

フーコーの言う刑務所の監視システム「パノプティコン」の話がおもしろい。フーコーの『監獄の誕生』はいまだに読んだことがないけど、いろいろと読みかじった限りでは、フーコーの指摘は、外部権力による統制が、近代では規律の内面化という形で自発的な自己監視によって取って代わられたということらしい。監獄の監視塔(パノプティコン)にいる監視者は囚人からは見えないけど、監視者側から囚人たちは一望のもとに見わたせる。このパノプティコンに相当する「自己モニター」を組み込んできたのが主体が近代人にほかならない。ところが、情報化社会が高度化すると、その主体というものの境界線が曖昧になってくる。年齢、性別、国籍、職種、年収、家族構成といったふうに個人は断片的なデータの寄せ集めになる。アイデンティティーは外部からモニターされ、データベース上で分散管理されるようになる。カード社会では追跡可能な(しかし誰かが誰かを追跡しているわけでもない)購入データ履歴がすべて残る。こうして、超パノプティコンと呼ぶべきシステムが登場する。各個人をデータベース化し、可能な行動の選択肢を管理しているのが現代社会。この超パノプティコンへの違和感は、いまでも多くの人々が感じ取っていて、それが個人情報に対する過剰な反応になって現われているんだろう。

もうひとつ人間の内面、自我の統一性を脅かすのは無意識の存在。自己の言動を統合的にコントロールできると想定されていたのが近代的自我。そこからはみ出す部分にスポットライトがあたり、それを示す実例、見世物的なパフォーマンスとして学術的な装いをまとったショーが登場した。それが多重人格ブーム。

後期UFO神話で現実から遊離した言説は、1995年以降のポストUFO神話では、さらに次の段階へと進む。言説が現実を反映しないばかりでなく、虚構が現実を塗り替える時代となる。それはたとえば、アポロ計画による月面着陸はなかったというような言説で、これは虚構が限界まで達した後の、現実の虚構化、倒錯的なハイパーリアル化だという。

さらにゾッとするのは、『華氏911』は薄められた陰謀論だという指摘。「カルト的な陰謀史観と現実の政治的状況が地続きとなったことを示している」と著者は言う。確かに、華氏911には、頭の悪い人たちの陰謀論と笑い飛ばすこともできないし、かといって政治的リアリティもあまり感じられないという中途ハンパなものを感じる。

1995年以降のポストUFO神話の時代には、身の回りのあらゆるものが「エイリアン(異質なもの)」となっていく。Y2K問題の大騒ぎは、実際のリスクを計算した騒ぎだったというよりも、もはや神話と呼べるものだったと著者は指摘する。UFO神話の題材は、人称をともなった「彼ら」から非人称である「それら」へと移り変わっていく。環境ホルモンやビデオテープの世界にのみ生きると言うスカイフィッシュなど。

ハイパーリアル化に関する、興味深い例が2つ。

サブリミナル効果という都市伝説。研究が進むにつれ、アカデミックな世界では、初期の報告の信憑性がますます疑わしくなっているのに、政府が公的に禁止令を出したことで、いまだに広告業界では真実として語られている。

アメリカでは半分以上の水道水にフッ素混入されている。きっかけはマンハッタン計画で、核燃料の処理工場から排泄されるフッ素が安全だと証明するために微量のフッ素を混ぜたところから始まった。今では陰謀論説は消えて、いつの間にか虫歯予防という全然関係のない都市伝説となって残っている。今では日本やヨーロッパの歯科医までもが「水道水にフッ素を」と唱道するまでになっている。虚構が現実を動かす、ハイパーリアル化。

プリオンにしろ環境ホルモンにせよ、あるいは人類月面未着陸説にせよ、人々がこれらの問題を論じるときのフレームが、ポストUFO神話の時代には、それまでとは大きく変わっている。アームストロングが月面を歩いたかどうかは事実かどうかという問題であるはずなのに、いつの間にか信念の問題にすり替わってしまった。まずある事実があって、それに関する調査や議論があって、専門家の意見が形成されるというのではなく、いまや個々人に信念があって、それらの意見をサポートする専門家がいて、多数の「事実」が併存しているような状況になっている。


UFO神話の3期の分類が、日本社会を論じた大澤正幸の分類と対応している。大澤は、連合赤軍までの1972年を理想の時代(理想との対比で現実を捉える)、サリン事件までの1995年を虚構の時代(虚構との対比で現実を捉える)、そして1995年以降を不可能性の時代(現実を体験できない)とした。

いつものことだけど、読後感想というより、できの悪いまとめノートになってしまった。

UFOの墜落は、近代のプロジェクトに突きつけた「ノー」だったという解釈は妥当だと思うけど、ぼくは、その大衆の感情的判断に「ノー」を突き返したい。楽観していいとは誰も思わないだろうけど、今の段階で近代化を否定するなんて愚かにもほどがあるというものじゃないか。もうひとつ、ハイパーリアル化とか言うポモ用語を使って言い訳してはいけないんじゃないか。オカルトはオカルトして、寝言は寝言として排除しないでどうする。人類が月へ行ってない、そう思うのは自分の勝手だなどという人間たちには放射能たっぷりの月の石でも食わせてやれ。

投稿者 ken : 2006年03月31日 11:25

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コメント

ちょうど私もこの本を読んでました。おもしろい。お勧め。
バーミューダトライアングルとサブリミナルがなかったのにはびっくり。後者は刑事コロンボ「意識の下の映像」で刷り込まれてましたね。UFO神話の変化と時代の変化がうまく対応しているのは感心しました。

投稿者 くろせ : 2006年04月12日 12:17