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2006年03月30日
孔子の電波
マックス・ウェーバー『社会主義』(講談社、浜島朗訳、1980)
1918年、老境に入ったウェーバーが、ウィーンでオーストリア将校団の聴衆の前で行なった社会主義批判の講演。
経済政策の決定や、生産組織の設計・経営といったことは、お金持ちが名誉職としてやるか、高給取りの専門家がやるかのどちらかしかなく、近代的な社会・経済システムは必然的に官僚制度を生み出す。長期間の訓練を受けた専門家でないと、もはや細分化され高度化された個々の生産に関する十分な判断能力をもちえないから。ウェーバーはそう言って、官僚制論を軸に社会主義を批判する。
生産手段の私的独占を禁止して、それで国が生産手段を所有したとしても、そこにいるのは官僚であり国家であって、結局、労働者は浮かばれない。経営者相手にストはできるが、国家に対してはストはできないから、むしろ悪い。
資本主義は歴史的必然として崩壊に到るとする3つの資本主義批判、窮乏論、恐慌論、二極化論は、どれもぜんぜん当たってない。
いまとなっては、どれも歴史が証明してしまったことかもしれないけど、1918年の段階では、意味のある批判だったんだろうか。解説によると、所有と経営の分離を説くバーナム流の経営論、テクノストラクチャの優位性を説くガルブレイスの見解、資本主義と社会主義の両方が高度産業社会として接近していくのだとする収斂理論、理論的知識の優位とテクノクラートの支配を予見するダニエル・ベルの脱工業社会論などの主張と軌を一にするもの、なんだとか。ふーん。
浅野裕一『諸子百家』(講談社、2004)
近年新たに出土したという竹簡も使い、老子、荘子、楊朱、孔子、孟子、墨子、恵施、公孫龍、鄒衍、孫子、韓非子という11人の思想家を、彼らが生きた時代とともに描き出す。「彼ら」といっても、実在した1人の人間であったケースばかりではないし、かなり実像と違って日本に伝わっているような場合もあるらしい。温故知新とうそぶきながら、実は田舎モノで儀式の執り行い方なぞ知りもしなかった孔子の電波っぷりにビックリ。乱世を終わらせるには古代の王朝の儀礼を取り戻せばいい、という原因と結果が転倒したような主張も、言われてみればなるほどヘンだ。というか、孔子はかなり山っ気のある変人だったというわけか。そんな変人のタワゴトが、日本で、なぜありがたがられたかについての経緯がおもしろい。
絶対的な価値判断などないのだと喝破する恵施の考えに、ちょっと共感。あるいは孫子の兵法にも人間洞察の深さや、戦争という暴力に冷徹な計算を持ち込んだクールさで感心するところはあるけど、どの思想家の思想も、まあ、そんな思想が流行した時代もあったのねというぐらいの話で、歴史的意義以上のものはなさそう。
易性革命というのは、古代中国からの伝統だと思っていたけど、場合によっては臣下が主君を弑逆しても良いのだとハッキリ言ったのは孟子が最初らしい。
宮崎市定『隋の煬帝』(中公文庫、1987)
骨肉の争いというより、肉親や兄弟間の殺し合いや裏切りがあたりまえという、何とも恐ろしい南北朝時代の末期に登場した暗愚な暴君の生涯を、前後の歴史を含めた時代背景とともに描いた楽しい読み物。読みやすく、きわめておもしろい。宮崎先生の本は、ほかに2冊買ってどこかに眠っているはずなので、期待がふくらむ。
投稿者 ken : 2006年03月30日 11:41
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