2006年02月25日
水天宮
水天宮へ。翌日が大安の戌の日で、安産祈願のお参りはピークが予想される。今日は仏滅。こんな日にお参りするのは、ぼくらのような「そんなん関係あらへんで」という脳天気な夫婦か、よほどのバカかのどちらか。
信心がないなら、そもそもお参りなんてしなくていいわけだけど、子の健康や無事な生誕を祈る親の気持ちというのを受け止める「何か」というのはあっていい。水天宮はそれを果たしている。水天宮の発祥は700年前にさかのぼるらしい。壇ノ浦で源氏に破れた平家側の誰それを祀ったのが最初なんだとか。700年の間に、いったいどれだけの人々がお参りしてきたんだろうか。という歴史はあるにせよ、ほんのちょっとの祝詞で3000円はやっぱり高い。義母のことがなければ、たぶんお参りなんてしていない。まあ、文化財を守るための寄付のようなものか。
人形焼で有名という重盛で「ゼイタク煎餅」などを購入。義母がわんさか買って、わんさか発送していた。煎餅や人形焼が、これまた驚くほど高い、強気の価格設定。それでも文字通り飛ぶように売れている。
軍鶏料理で知られる「玉ひで」へ。創業1760年で8代目なんだとか。鶏刺し、鍋、親子丼と、どれもなかなか。この手のお店で「もう食えない」というほどの量が出ることは珍しい。飴色になるまで炊いた皮がうまい。卵と鶏肉しか入ってない親子丼も、どうやっているのかわからないけど、卵がご飯にうまくふっくらと絡んで絶品。何代目かのおかみさんが、あるとき鳥鍋に卵を落としたのが、そもそもの親子丼のはじまりなんだと給仕の人が説明してくれた。でも、まさか親子丼という残酷な名前はその女将さんがつけたわけじゃないですよねといったら、「さあ、どうでしょうね」と笑っていた。
義兄のクルマで日本橋に移動。オープンしたてのマンダリンオリエンタルホテルへ。汐留のコンラッド、六本木のグランドハイアットと並ぶ、新々御三家の1つ。東京はホテル戦争が激しい。そして、どれもやたらと中が暗くて豪華だ。最上階のラウンジでお茶。夜景がキレイだった。おしっこが夜空に飛んでいきそうな男子トイレからの夜景もなかなかオツなものだった。
投稿者 ken : 2006年02月25日 23:01
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コメント
六曜なんて新しい風習だから、長い伝統を重視する人ならあまり気にしないのではないでしょうか。
もちろんそれに従うことで心の平安が得られるのであれば結構なことです。
玉ひでの親子丼は私も好きです♪
投稿者 くろせ : 2006年02月27日 18:42
> 六曜なんて新しい風習だから、長い伝統を重視する人ならあまり気
> にしないのではないでしょうか。
興味がなかったのですが、ちょっと調べてみました。なるほど
六曜というのは江戸時代に広まって、いまの形に落ち着いたのが幕末。
呼び名も当初と違うし、「友引」で火葬場が休みになるのは、何やら
陰陽道の「友曳方」というのと歴史的に混同があった由。
水天宮は700年、水天宮が祀る神は神代からですから2000年。
六曜はせいぜい200年てとこでしょうか。
> もちろんそれに従うことで心の平安が得られるのであれば結構な
> ことです。
まあ、それが迷信に対するときの、穏当の弁ですね。
本当のところ、私はそうは思いませんが(笑)
投稿者 西村 : 2006年02月27日 20:28
私は他人はどーでもいいので、私に迷惑をかけない限り、他人様が迷信を信じようが宇宙からの電波を受信していようが全然かまいません。ただし、一緒に電波を受信しましょう!とか宇宙からの指令でこの日はいっちゃならん!とか言われるとちょっと困りますね。
投稿者 くろせ : 2006年02月28日 09:21
オカルトといえば、最近平凡社から『UFOとポストモダン』という本が
出ています。UFOや宇宙人は時代とともに姿形を変えてきています。
当初、白人で人間の形をしたものが、やがてエイリアンのように
奇っ怪な生き物となり、ついには形の不明な不気味な存在になる
というような変化で、そこには社会不安の対象の変遷が反映されている
という主旨の本です。アメリカ社会の話ですが、もともと不安の対象が
社会の内部に存在していたのが、やがて外部者に向けられるようになり、
今や不安の対象さえ見いだせないほど混沌としているという話だった
と思います。
オカルトを社会現象として捉えるというのは、ひとつのカタルシスでも
あると思うんですよね。これはこれでひとつの反オカルトの姿勢だと
思うんですよね。迷信が存在するとき、必ずそこには何らかの
社会的心理があって、それはまあともかく存在するのだから、
「迷信くだらん」と一笑に付す前に、それを見てみるという態度です。
そうでもしないとやってられません……。
ぼくは、迷信を信じる自由など、誰にもないと思っているからです。
可知も不可知も同列に並べるような人々、そんなときにふつうの
人が見せる似非不可知論者に対する寛容な態度は、社会的には妥当
ですが、精神的には唾棄すべきものと思っています。
というのは書き出すと長くなるので、またどこかで。
投稿者 西村 : 2006年02月28日 12:06
ま、このあたりの話は私も語りだすと長くなるのですが、誰もが読んでる環境で書けるのはこの程度までですね。
機会があれば酒の席ででも。
投稿者 くろせ : 2006年03月01日 08:28
もうちょっとかいちゃおかな。私は、他人が迷信を信じることについては寛容です。誰しも自分の金と時間と人生をどぶに捨てる権利があると思っています。ただし迷信を人に強要するのには不寛容です。誰にも他人の金と時間と人生をどぶに捨てる権利なぞありません。
投稿者 くろせ : 2006年03月01日 08:54