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2005年12月27日
ジョークは4次のメタ表示に埋め込んだ矛盾
ニール・スミス著、今井邦彦訳『ことばから心をみる――言語学をめぐる二十話』(2003、岩波書店)
翻訳や注釈がひどくて、とても読みづらい本。もともと言語学徒か言語学を目指す学生に向けて書かれたエッセイという感じだから内輪ネタや専門的すぎる話も多い。というマイナス面は気になるけど、反面、ふと手にとった部数2000部の業界紙のコラムを読むようで、おもしろい。実際この本、刷り部数は2000部ぐらいじゃないかしら。
20の言語を操るサヴァン症候群の患者、クリストファーの研究に興味をもって買ったようなものだけど、著者が引き出す結論は、とても刺激的。いわく、クリストファーは確かに語彙を覚えたり、不規則変化する動詞を覚えたりするのには天才的な能力を発揮して、うらやましいほどの容易さで次々と言語をマスターするという。ところが、形態論的な言語習得はできても、統語論的な言語運用となるとかなり怪しくて、結局のところ英語の文法を使って他言語の語彙を当てはめるという、ふつうに誰もがやる間違いを犯すという。というところから、言語処理は脳内にある複数のモジュールによって行なわれていることがわかる。これは第一言語の獲得は普遍文法のパラメーター調整によって行なわれ、それが臨界期を過ぎると固定されるというチョムスキーの理論をサポートするという。
こうしたモジュールによる機能分担を「乖離」と呼ぶらしい。言われてみればなるほどだけど、第二言語習得の「訛り」も乖離を示すという。14、5歳ごろから第二言語を習得すると、ネイティブ並みに言語を運用できるようにはなっても、発音に訛りだけは残るのがふつう。これは、発音と文法獲得の臨界期が異なることの証で、これも言語処理がモジュール化されていることの強い証拠となる。
言語障害だけじゃなく、高次の認知障害をもつ患者の研究も興味深い。キャプグラ妄想、ウィリアムズ症候群、自閉症、失語症など、これらはすべて特定のモジュールに遺伝的、あるいは後天的ダメージを受けて起こる疾患だというのは、すごく説得力があって、そこから導かれる仮説もとてもおもしろい。
自閉症患者が「相手が自分と同じように、独自の考えをもっている」という“心の理論”を欠いた人々だというのは知らなかった。外界-他者-自己という、健常者がもっている対立構造がわからないという。他者に心が存在するということがわからないから、「自閉症」というのか。「「「この人はこう思っている」とぼくは思ってる」と、この人は推測するだろう」というように、相手の心を忖度するというのは、実は単に相手の考えを読むばかりじゃなくて、それを反映した自分の心、さらにそれを読み取る相手、さらにそれを……、という入れ子構造になっている。健常者が瞬時に行なっている、こういう合わせ鏡的な暗黙のコミュニケーションが、自閉症患者や3歳児にはできない。
4歳児はごっこ遊びをして、誰それの「ふり」ができる。これはつまり相手に心があって、「自分が医者のフリをすれば、この人はぼくを医者と思うはず」と考えるからで、これは実はけっこう高度な、人間やチンパンジーにしかできないことと言われている。ニホンザルにはできない。自閉症患者にはできない。
3歳児が「サリーとアン」テストに合格しないのは知っていたけど、自閉症患者も同じらしい。サリーとアンの人形を使った実験で、サリーとアンが二人とも同じ部屋にいて見守っているなかで、実験者が鍵を場所Xに隠す。その後、アンは部屋から出され、鍵は別の場所Yに隠される。ここでアンが部屋に戻ってくる。ここで被験者に質問をする。「アンは鍵がどこにあると思うか、サリーに聞くとなんと答えるでしょうか」。すると、健常者ならXと答えるところ、3歳児も自閉症患者もYだと答える。
相手の心が自分の心に想起され、それがさらに相手の心に……、という入れ子構造の話でおもしろかったのが、ジョークの解析。「見えざる世界が存在することは間違いない。ただ問題はそれが市の中心からどのくらい離れているか、何時まで空いてるか、だ」というウッディー・アレンのジョークはなぜおもしろいのか、あるいはおもしろいジョークに必須の条件とは何かを、著者はいくつかの研究成果をひいて説明している。ジョークに必須なのは、ひとつは前後の命題間の不調和、もうひとつは少なくとも4重の入れ子構造の外層に矛盾した命題を含むこと、になるらしい。
このn次のメタ表示に関して、実は成人健常者でも個人間に差があるのじゃないかということが、前々から気になっている。こいつは自分の発言をオレがこう受け取る―とこいつは予想している―けど、実はオレはこうだと思ってる―という食い違いを、こいつは想定している―とオレには思えないというような場面がある。反面、端で見ている第三者が、さらに1次上のメタ表示で「こいつわかってないね」と一瞬の目配せを送ってきて、そこではちゃんと合わせ鏡が平行になる感じがあったりする。うまく書けないけど、入れ子構造が共有できていないなと思えるとき、コミュニケーションが急に重たく感じられる。
文化的な差異もあるように思う。アジア人と話していて、どこかホッとするのは、この入れ子階層の数が一致しているからで、アメリカ人と話していて違和感を感じるのは、アメリカ人には入れ子の階層が浅い人が多いように感じているからじゃないかと思ったことがある。言わずもがなの暗黙のコミュニケーションというのは、相手の心の読み合いだけど、相手の心を読む段数が一般的に言えばアメリカ人は日本人より少ないと思う。うーん、いや、読み合う流儀が異なると、瞬時に構成されるはずの入れ子構造が立ち上がらないということかもしれない。
言語と色の関係、共感覚を論じたエッセイや、類人猿は言語能力にかかわる論争で「証拠なし」とズバッと言い切るエッセイもおもしろい。言語の指示機能とモノの存在にまつわる哲学的な考察や、そこにある素朴な言語観の誤りを指摘するようなエッセイも、門外漢にはおもしろい。
共感覚が科学的に確かめられたもので、一貫性や再現性があるというのは初めて知った。ランボーの母音の色に関する詩は、単に茶目っ気だと思っていた。確かに「あ」は赤いとか、「う」は青い、「え」は茶色、というように、ぼくにも音(字)と色の結びつき、数字と色の結びつきが感じられることはあるけど、そういうのは単に思いこみの産物だと思っていた。共感覚を語るヤツらって、胡散臭いから。
ストループ効果の実験なんかを自分でやってみると、色と言語が何らかの干渉を起こすと信じないわけにはいかない。
色と言語で言うと、もうひとつ驚いた事実。日本語の色の基本語彙は「赤白黒」の3色で、明るい(ak)、暗い(kr)などの語彙も赤黒の対立から生まれた形容詞という話になっている。で、こうした基本色は文化間で数は異なるのだけど、なんとそこには一貫した法則があるという。白と黒しかない言語はあっても、白と赤という言語はなく、3つの色彩語彙がある言語には、必ず赤が含まれる、とか。色が4つなら、緑か黄色が追加され、その次には必ず緑か黄色の他方、そして青というように階層性がある。言語による光の周波数の範囲指定って、きわめて恣意性が高くて、言語間を貫いて構造や説明原理はほとんどないのかと思っていたけど、そんなことなかったんだ。
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2005年12月24日
ヒルズ散歩
クリスマスイブ。寒いけど徒歩でてくてく麻布方面へ散歩。こんな時期、麻布十番は混雑しててイヤだけど、1本ウラに入れば意外に穴場的なお店はあるもので、わりとおいしくて空いているカフェでピザっぽいパンとコーヒー。
買い物をして、そのままケーキを求めて六本木ヒルズ方面へ。新宿なんかに比べると密度も量も少ないけど、それでもスゴイ人。
けやき坂にいる人々が、どうも下方面を一斉に見ている気がするし、陸橋の上の人たちも立ち止まって東京タワー方面を見ている。時計を見ると5時2分前。そっか、きっと5時ちょうどにイルミネーションが点灯されるのを、みんな待ってるわけだと思って、ビデオを回してみたら、予想通り、一斉に灯りがともり、「うわー、キレイ」という感想がほうぼうから聞こえてきた。
グランドハイアットの中にあるフィオレンティーナというお店、意外に穴場かも。コーヒー380円ってあり得ない安さ。スタバで行列作ってる人はみんな、たいしておいしくないコーヒーが1000円すると思ってるに違いない。
ケーキは500~600円とふつうのお値段。量が少なめだから、やや高い? でも、うまー。
クリスマスだし、たまにはいいお肉を。下手なステーキハウスで中途ハンパに出すよりも、近所のいいお肉屋さんで奮発したほうがうまい!
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2005年12月21日
Yakuza
猪野健治、鈴木智彦『親分 日本アウトロー烈伝』(2005、洋泉社)
マフィア、特に禁酒法時代のアメリカのマフィアを扱った本や映画が好きだけど、そう言えばジャパニーズマフィアについては、あまり知らないなと思って手に取った。よく書けていておもしろい!
黎明期、戦後復興期、経済成長期、昭和と時代ごとに3~4人の代表的なヤクザの親分を選んで、その生涯や抗争の歴史をたどる本。炭坑街の人足、博徒、テキヤ、愚連隊、近代ヤクザと、時代とともに変わるヤクザ集団を引っ張った任侠たちの生きた時代が、活き活きと描かれている。
Wikipediaによると、著者のひとり、猪野健治さんは1973年に『やくざと日本人』という通史を書いた人だそうだ。名著らしい。是非とも読まねば。
1986年に全米ベストセラーになったという『Yakuza --- The Explosive Account of Japan's Criminal Underworld』という本とか、ベンジャミン・フルフォードが2003年に書いた『ヤクザ・リセッション』なんて本は、どちらもヤクザが日本の近・現代史を動かしてきた黒幕であると指摘しているという話。これに対して、猪野健治はヤクザは体制側や巨大資本に利用されて動く従属的存在であるとした、という違いがあるらしい。『親分』でも、戦後の三国人とテキヤの対立・抗争は、下層民同士が結託して革命に走るキケンを恐れたGHQが共倒れにさせようと画策したもので、彼らはむしろ踊らされていたのだというような見方が紹介されている。ヤクザは単純で悲しいヤツらなのだ、と。ヤクザが怖いと世間は言うけど、まあ、よほど国家のほうが怖いよという話かもしれない。はるかにスマートで権力もあるんだし。ヤクザが抗争で日本刀を振り回すなんて話も、軍の武力や国家の警察力と比べると、子どものケンカと武道家ぐらいの違いがある。
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2005年12月19日
黒いスイス
福原直樹『黒いスイス』(新潮新書、2004)
スイスのダークサイド――、ナチスに協力してユダヤ人を国境で追い返したこと、ロマ族と呼ばれるジプシーの子ども達を施設に隔離するため、国家ぐるみで誘拐を繰り返していたこと、欧州におけるネオナチ活動の一大拠点となっていること、マネーロンダリングの温床として、いまでもEU各国をはじめ国際社会に非難されていること、相互監視社会との批判もあるほどの住民の密告体質があること、移民受け入れの住民投票であからさまな人種差別があること。
特に欧州の国々がそうだけど、憧憬の国として美化されがちな国家や社会をもってきて、その社会の暗黒面を描くような本というのが、ここ数年は流行しているのか、それともぼくがたまたまそういうものを手に取ってしまいがちなのか、よくわからない。でも、そろそろ食傷気味。暗黒面だけじゃなくて、ふつうに全体像を描けばいいのに。というわけで、ほぼ同時期に買った『物語 スイスの歴史』(中央公論)のほうに期待。
斉藤美奈子が『ブックオブザイヤー2005』という本で、売れている本のタイトルをずらっと並べ、詰まるところ日本人の平均的な活字解析能力は中学生並みなのだと言っていた。フィクション、ノンフィクション問わず、中学生並みの単純な論理、わかりやすいストーリー、平易な文章の本しか売れない。
この新書にしても、「えーっ、スイスってハイジと湖とゼンマイ時計の国じゃないの?」というナイーブな反応を想定して、あまりにもわかりやすく書かれている気がしてならない。善悪入り交じるふつうの社会に生きる成熟した大人であれば、どんな社会にだって暗黒面が潜んでいることを知っているわけで、それは話の出発点でいいと思う。「スイスだって実はこんなに黒い部分がある。これは由々しき問題だ」と指摘して、そこで終わっちゃうのって、妄想に基づいて特定の社会を理想化するナイーブさと、五十歩百歩と言えなくもないような……。
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2005年12月15日
VSL理論
Joao Magueijo,Faster Than the Speed of Light---The Story of a Scientific Speculation,2003
「もし光速度が一定ではなく、変化することがあったら?」という仮定から出発するVSL理論。最近とみに論文の数が増えてきたりして、宇宙論を含む理論物理学界隈で話題となっているらしいので、VSL理論の生みの親と言える人の本を読んでみた。
光速度不変は相対論の二大要請の1つだから、「光の速度はひょっとしたら変化することもあるのかも」と唱えるのは、20世紀物理学の泰斗、アインシュタインに対して「まちごーとったんちゃうか」と言うようなもの。1990年前後に著者が、このアイデアを周囲に口にしはじめたころには、ジョークとしてしか捉えらないか、頭がおかしくなったと心配されるか、というさんざんな反応だったという。現代物理学は光速度不変という大前提を多くの理論に組み込みつつ発展したきたし、大成功を収めてきたので、今さらその前提がひっくり返せるとか、ひっくり返すことに意義があるなどと考える物理学者がいなかったとしても、ぜんぜん不思議じゃない。スキャンダラスな提言だし、もし実験や観測によってVSL理論の一部でも確証されるようなことがあれば、アインシュタイン以来の革命になるんだろう。
微妙な本だ。前半はアイシュタインの起こした革命の意義やエピソードを楽しく語っていて、よく書けたポップサイエンス本の体裁をしているのに、いざVSL理論の説明にという後半になると、いきなり口調まで変化してアカデミズムの世界を取り巻く環境に対する苦言が主となって、肝心のVSL理論は脇に追いやられてしまう。VSL理論が完成にほど遠く、理論のバリエーションやアイデアがぐつぐつ煮えている段階であるという事実を差し引いても、これじゃ読者は何がなんだかわからないまま置いていかれた気分になるよ。
本の後半では、英国のアカデミックな世界のスノビッシュで保守的な閉鎖性を攻撃し、大学や研究機関を牛耳る年寄り学者の振りまく「老害」を指弾。十分なエキスパティーズもないくせにめちゃくちゃな理屈で論文を却下する学者崩れ科学雑誌編集者を大バカ呼ばわりし、寄らば大樹で安全なテーマしか選ばない職業科学者への軽蔑を隠さない。ひも理論があまりに現実から乖離して数学的構造の美しさだけで突き進むのを見て、M理論のMはマスターベーションに過ぎないとかいう。
原理的に実験による裏付けが不可能な理論など意味がないという話のときに、ボーアが漏らしたというアインシュタイン評も出てきたりする。アイシュタインは元々は地に足のついた(現実世界にリンクした)物理を目指したはずなのに、あまりの理論の華々しい成功によって、晩年には数式の美しさを追い求める頭でっかちになりはてた、と。この手のエピソードはおもしろい。科学雑誌の論文査読者に対する憤懣をぶちまける文脈で、アインシュタインですら1度、1930年に論文を却下されたことがあるという話を紹介している。却下理由を告げる手紙を受け取ったアインシュタインは、怒りのあまりその手紙をびりびりに破いてビンに入れ、そのビンを蹴っ飛ばすなんてこともしたという。だから、論文査読者にはどうしようもないハズレがいて、宝くじみたいなものなんだよと著者は言う。
こういうエピソードや個人的体験談は、とてもおもしろい。かなりあからさまにプライベートなことも書いているし、周囲の人間もよく描写している。でも、肝心のVSL理論は……。
結局なんとなくわかったのは、宇宙論には宇宙初期の歴史にかかわるナゾでインフレーション理論では説明がつかない問題がいくつかあって、VSLは妙にスッキリ問題が解けそうだという話や、ひも理論の人々がいう11次元の世界では光速度は一定で3次元の世界のたたみ込まれるときに、事情が違って見えてくるだけじゃないかとかいう、そんな符合にも気づいたりしているところらしい。インフレーション宇宙論って、メインストリームであるばかりでなく、もうほぼ間違いない宇宙像だろうと思っていたけど、そうじゃないってのがちょっと意外だった。
1本だけ数式が出てくる。E=mc^2/(1+mc^2/Ep)というもので(……あれっ、これってE=mc^2/(1+Ep/mc^2)の間違いじゃないのか) 特殊相対論的な時空間の法則が、日常的な生活環境では近似的に古典なニュートン力学と一致するように、VSL理論もプランクエネルギーがどういういうような世界以外ではアインシュタインの相対論と一致しているという話。
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2005年12月12日
第三の道
アンソニー・ギデンズ『第三の道――効率と公正の新たな同盟』(日本経済新聞社、1999)
社会保障制度を充実したらモラルハザードが蔓延した。制度にタダのりするフリーライダーが出てきて、生産効率が低下した。共産主義国家は内側から崩壊し、北欧の福祉国家は、たいした仕事もしていない大量の公務員を抱えて重税にあえぐ。それじゃいかんと、新自由主義者がやってきた。サッチャリズムやレーガノミックスに代表される小さな政府で最小限の福祉を目指せと言う新自由主義は、貧富の格差の拡大と、それによる社会的荒廃をもたらした。しかし、今さら手厚い社会保障制度の福祉国家などには戻れないよと言って、さあどうしようかとなったときに、ギデンズは言った。「何ごともほどほどやねんて。まんなかや、中道やで、ホンマ。せやからまあやる気を出させる社会ゆうのん? 社会階層を超えてスタート地点で子どもたちが差別されない、そういう社会にしましょうや。教育や、教育やねんで」。そうして生まれ変わった社会民主主義はトニーブレアという為政者を得て、イギリスでは幾多の優れた政策に結実している。
時代も状況も違うとはいえ、すでに学ぶべき先例があるというのに、日本は今ごろ周回遅れで新自由主義に急激に傾きつつある。ほんまにええのんかいな、ギデンズでも読めと言われて読んでみた。
個別の政策提言の是非はよくわからないけど、あまり原理原則でどうこういうんじゃなく、ポリシーとしては中道、個々の政策については是々非々で論じようというギデンズの言い分はもっともだなとは思った。いまどき右や左が截然とわかれるものでもないので、ギデンズの言う第三の道を修正左翼主義と評するのはトンチンカンな印象がある。どっちの道も行き過ぎたらダメだったんだから、残る道は、机上の空論的ユートピア思想をのぞけば、「どっかまんなからへん」にしかない。
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2005年12月11日
サーバー引っ越し
思ったよりめんどくさいサーバーの引っ越し。新しく契約したレンタルサーバーは、telnet/sshが使えるので、サーバーにログインして作業。wgetの-mオプションでミラーを指定してみたら、さすが同じレンタルサーバー屋のサーバー間だけあって、10MB/秒ぐらいのスループットが出て、あっという間に300MBのコピーが終了……と思ったら、外部へのリンクもミラーしはじめた……。-Dオプションで明示的にドメインを指定する必要があったらしい。さらに、コピーが終わったと思ってみてみたら何かファイルが足りない。httpじゃ、当然読めないファイルもあるわけで、ftpで指定しないと。さらに、wgetはドメイン名をディレクトリとして勝手に掘ってしまうので、それを抑制する-nHも必要。
$ wget -m -nH -D d-code.sakura.ne.jp ftp://usernamae:password@d-code.sakura.ne.jp/www/
で、どうやらうまくいったらしい。MovableTypeのほうは、新規投稿やコメントで書き込みでエラーが発生。パーミッションの問題で怒られた。これは、単に移行先のローカルディレクトリ名(ユーザー名)がd-codeからd-code2に変わっていたからだった……。気づくのに10分ぐらいかかった。こういう作業の常として、文章で書くと5分ぐらいで終わりそうな話でも、実際には1時間ぐらいかかっていたりする。
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2005年12月09日
高橋メソッド的注意がき
以前読んだ『大阪学』という本で、大阪文化の特徴のひとつとして、本質的なことをズバッと言うという話があった。ごちゃごちゃ説明しないで、ひとことでズバリ言う。だから、電車のドアには「ゆびつめちゅうい」と書いてあるし、動物園のライオンの檻には「かみます」と書いてある。子どもでもわかるし、1秒でわかるという実にムダのない合理的なやり方だと思って感心した覚えがある。
PL法が出たあたりから、注意書きの一部が責任逃れの弁明になりさがったように思う。ごちゃごちゃゴミみたいな文字で書いても、実効的な意味はないけど、裁判では「書いてある」と言えるってことなんだろうか。実に見苦しい。
一時期話題になった高橋メソッドが、ついに書籍化されて出版されるらしい。それで「かみます」という看板の話を思い出した。
地下鉄の駅でエレベーターに乗ったら、やっぱりひどいゴチャゴチャ注意書きがあったので、ちょっと高橋メソッド風に書き換えてみた。このぐらいじゃないと、注意書きの意味がないと思う。
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2005年12月08日
アラブの格言
曽野綾子『アラブの格言』(新潮新書、2003)
ネット上でイスラム圏の人とチャットすると、すぐに何かコミュニケーションのやり方が違うなと感じる。互いに外国語(英語)でやりとりしてるからということだけでは説明のつかない違和感がある。妙に馴れ馴れしいかと思えば、ちょっとしたことで急に憤ったりする。正直いって、ムスリムたちは、あまり相手にしたくないし、仲良くなれるとも思わない。ほどほどの距離感で互いに笑っていられるほうがいいんじゃないかと思うんだけど、そうやって距離を取ろうと思うと、「マイ・フレンド、おまえはこのチャットルームから出て寝るといったのに、なんで別の部屋でしゃべってるんだ! おまえは俺に嘘をついた!」とか言われる。社交辞令の嘘ぐらいで憤るなよ、マイフレンド……。そもそも、ネット上でちょっと話しただけで、なんでプライベートのことを腹を割って話そうとか、親友になろうとか、そういう発想をもつのかが信じられない。彼らには、親友か敵かしかないのか。
ぼくがよく使っていたチャットルームでは、参加者の国籍が、その国の国旗で表示される。サウジアラビアの国旗って「アッラーの他に神はなく、ムハンマッドは神の預言者である」と書かれてあって、剣がドーンと横たわる意匠で、なんかプレッシャーを感じてしまう。現代を生きる陽気なメトロポリタン的なヤツもいるけど、やっぱりかかわりたくないよなぁって。宗教を超えて分かり合おう、せめて言いたいことも抑えて協調していこうという時代に、なんだ、この前近代的でわらず屋の自文化中心主義は。
ことほどさように偏見に凝り固まっているぼくのアラブ観は、この『アラブの格言』という本でさらに一層強まったかも。
おふくろを売り飛ばして、良い銃を買え。(サウジアラビア)
などと恐ろしいことをいう国の人たちと、どうやって付き合えと。他宗教の人間に対しては、
あなたが必要としている限り、キリスト教徒に親切にしなさい。しかしそうでなければ、やつらの頭の上に壁を引き倒せ。(レバノン)
とかいう。これはまだしも基本的に同じ神を信仰しているキリスト教徒にたいする話。彼らがいうところの「教典の民」に対する見方であって、教典すら持たず、神さえ信じていない人々など、当然のように殺してもいいという話だもんな、イヤになるよな。
砂漠という厳しい自然環境のなかで、文字通りの弱肉強食の生存競争を繰り広げてきた彼らは生物学で言うところの血縁淘汰とも言うべき、激しい「自分たち」「やつら」の対立を続けてきた。部族同士は殺し合い、奪い合う。
- 隣人に弱みを打ち明ければ、斧でばっさりやられる。(アラブ)
- お辞儀をした首は切られない。(トルコ)
- 見知らぬ人と握手したら、後で指を数えろ。(ペルシャ)
- 噛みつけない手には接吻しておいて、後で骨が折れるのを祈れ。(アラブ)
- 他人の家では思っていることをしゃべらず、ドアを開けず、質問をするな。(マルタ)
- 俺の壺を一個割ったら、百個割り返してやる。(アラブ)
- 人に食べ物をやる時は、満足するまでやれ。殴る時は、徹底的に殴れ。(アラブ)
- もしも盲人に出会ったら、地面に投げ倒して弁当を盗むのだ。なぜならおまえは神よりは情け深くないのだから。(レバノン)
やれやれ……。ジャイアン的と言うべきか。こんなジャイアンもいる。ジャイアンというより、うーん、何だろうこのすがすがしいまでの開き直り感は。
「俺のパンはおまえのより大きい」と言われたら「少しくれ」と言えばいい。(レバノン)
子どもの頃に覚えた故事成語で今でも心に強く残っているのは、たとえば「渇しても盗泉の水は飲まず」ということだったりするけど、砂漠の民の渇きは、東洋人のそれとは比較にならんのだろうなぁ。
生物の生存戦略はゲーム理論でうまく説明できると思うけど、つまり所与の環境が変わって生きるのが厳しくなると、人間社会はこうなるのかって話か。囚人のジレンマ的に言えば、みなが裏切り合う世界。何かの本で相互互恵的な戦略選択は、人間の脳にハードワイヤードされているという説を読んだけど、そんなのとても信じられない。
中には処世術的リアリズムが冷たく光る人生の知恵、的な格言もある。以下、気になったものをあれこれ引用。
- キリスト教徒が一枚噛めば、事はうまくいく。(モロッコ)
- もしも罪を犯したら、隠せ。(アラブ)
- 追う者と追われる者は、共に神の名を口にする。(トルコ)
- 断食して祈れ。そうすればきっとよくないことが起こる。(レバノン)
- 犬は必ず死ぬ前にモスクの壁でウンコをする。(トルコ)
- 一夜の無政府主義より数百年にわたる圧政の方がましだ。(アラブ)
- 弱いやつの武器に気をつけろ。(中世アラブ)
- 二人の目の前で髪を切ってはいけない。一人は短いと言い、もう一人は長いと言うから。(レバノン)
- 幸運は持っている人間には来るが、探している人間には来ない。(アラブ)
- 不幸は固形石鹸のようなものだ。初めは大きなかたまりだが、次第に小さくなる。(アラブ)
- 本当のことを言うやつは、首を切られる。(アラブ)
- 人は四つのものを数えられない。自分の罪、自分の年、自分の借金、そして自分の敵。(ペルシャ)
- 小さな贈り物は心から。大きな贈り物は財布から。(トルコ)
- 秘密は鳩。手から離れた途端に翼を持つ。(イエメン)
- 一つのドアが閉まると、百のドアが開く。(アラブ)
- 賢い人は見たことを話し、愚か者は聞いたことを話す。(アラブ)
- 判事の下男が死ぬと誰もが葬式に行く。判事が死んでも誰も葬儀に列席しない。(モロッコ)
- 我々がやつらの羊を欲しがったら、やつらは我々のラクダを盗みやがった。(サウジアラビア)
- 一回あなたを騙した男は、百回騙す。(アラブ)
- ベールが厚いほど、上げる価値はない。(トルコ)
- どの結婚式でも何かがうまくいかない。(アラブ)
- 甘やかした娘にコリアンダーを買いにやらせると、妊娠七ヶ月になって帰ってくる。(モロッコ)
- 優しい心の母は、不幸のうちに死ぬ。(アラブ)
- 掛け売りして金を取れないか、支払いを求めて敵を作るかだ。(シリア)
- 俺たちから遠く離れていろよ。そうすれば好意を持ってやる。しかし、近づけば、呪ってやるからな。(パレスチナ)
- アラブ(ベドウィン)は帰ってくる。(アラブ)
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2005年12月07日
満州国の肖像
山室信一『キメラ――満州国の肖像』(中公新書、2004増補版)
力が入りすぎじゃないかってほどの力作。成立から終焉までわずか13年とはいえ、さまざまな思惑が入り乱れた「国家」という有機的な営みを、それなりに多面的に描き出そうというのだから、そりゃ力も入るか。これだけ大きなテーマを相手に膨大な資料を渉猟すれば、精根も尽き果てようってもんだけど、それにしても何かが取り憑いて著者に本を書かせたのじゃないかというような、一種独特の雰囲気が本全体に漂っている。鬼気迫るというのではなくて、このままこの著者は燃え尽きてしまうんじゃないだろうかというような、生真面目な人が仕事に追いつめられたときに見せる憔悴した表情が、行間から見えてくる。さぞ原稿は難産だったのだろうなぁ。
著者本人によると、肉親の健康状態の悪化という個人的事情が影響しているということだけど、テーマ自体が重たかったんじゃないだろうか。
満州の歴史は、その歴史自体がどの面から見てもパセティックな物語だ。当時人々満州へ駆り立てた熱病のような盛り上がりや、掲げられた理想の数々が、今となっては悲しい。増補版に追加された想定質疑応答集も、わかりやすく書かれているし、とても勉強になった。
ついでに前から気になっていた石原完爾の『最終戦争論・戦争史大観』を読んでみた。ギリシア・ローマの昔から持久戦と総力戦が順次交互に入れ替わってやってくるのがおおざっぱに言えば人類の戦争の歴史で、順番から言えば次は総力戦になるだろうという予言。さらに、技術の進歩によって、ついに今度の戦争こそが人類全体を統べる頂点にたつモノを決める決勝戦になるという話。めちゃくちゃおもしろい。論理的必然性なんて全然ないのに、さも当然のように「確信している」だとか、当然の帰結であるとかいうふうに言い切る力強さがいい。次の戦争の時期が30年後に迫っているということの推測に日蓮聖人の予言を援用するって、ほとんど電波だよなぁ。しかし……、それにしても予言の大筋は当たってるんじゃないのか。米州は、その後、唯一のスーパーパワーとして世界の頂点に君臨しているようなもんだ。
石原が日本について語るとき、日本のあり方、理想について語るとき、それはぼくの知らない日本人が語っているんだなというふうに感じる。日本人はほんの50、60年前までは、こんなふうだったのかなって。科学文明に遅れている我々だとか、こそこそ開戦論をやるのは我らの流儀ではない、堂々とやって、堂々と戦えばいいとか。
念のために書き加えると、石原だって永年の人類の憧れは平和であり、最終戦争は、それが最終的に到達されるために人類が通らなければならない地獄、試練だというふうに達観している。まだアインシュタインのある面から言うと不気味な予言が原子爆弾という究極の兵器になりうるかどうかもわかっていない時期に、とてつもない破壊力をもった、何万、何十万という都市の人々がペチャンコになるような、そんな兵器でもって、次の戦争はあっという間に決着がつくだろうと、そんなことを言っている。
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2005年12月03日
柴又散歩
葛飾区の柴又、フーテンの寅さんで知られる界隈を散歩してきた。写真いっぱい。
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2005年12月02日
夫婦のコミュニケーション
朝10時すぎ。お好み焼きをチンして食べていると、仕事中の妻からメッセンジャーで挨拶が届く。で、ぼくが「お好み焼きおいしいよ」というと、ギャーッという反応。
捨てるつもりで冷凍庫から冷蔵庫にうつしておいたものらしい。ぼくはてっきり「食べてね」という優しい配慮だと思ってありがたく食べたのに。そういえば、お好み焼きを焼いたのは、何週間前だったっけか思い出せない。
7割ほどおいしく食べていたくせに、急に口のなかでモグモグしていたものが酸っぱく感じられる。急に口のなかで、ねっとり粘つく。でも、ネットリしているのは山芋のせいだし、酸っぱいようなにおいも、もともとのキャベツの味とも思えたり。
よくよく聞いたら、そもそも冷凍庫に入れたことなどなく、最初から冷蔵庫に入っていたのだとか。
夫婦のコミュニケーションは難しい。