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2005年07月24日

会社はだれのものか。数学の歴史

岩井克人『会社はだれのものか』(平凡社、2005)

前作の『会社はこれからどうなるのか』から、やや視点を変えてはいるものの、基本的には同じテーマを扱った会社論。第一部の頭で、会社とは何かをもう1度振り返ってみようと言ってるあいだに主張は終わり、最後の「会社とは社会のものなのです」という命題をとってつけたような印象もある。前作で繰り返し説明されている会社の所有の二重構造や、モノとしての側面とヒトとしての側面を併せ持つ不可解な「法人」というものを理解していれば、会社が誰のものであるのかという答え、あるいはどう答えるべきかということは、ある意味自明。そういう意味では、ライブドアとニッポン放送の買収茶番劇をみて「会社って誰のもの? 株主主権って善なの? 悪なの? グローバルスタンダード?」と疑問を抱いた人で前作を読んでいない人が読むべき会社論入門の本という感じになっている。

結論は「会社は社会のもの」であるのだけど、そう単純に答えて終わるような話だったら本なんて書く必要はない。この命題は、真偽がどうこうというより、それはつまり、会社のあり方や、企業社会はどうあるべきかという問題を考えるときに出発点となる話でしかない。

会社は、社会や個人、集団の結節点であり、それは営利の企業活動だけを行なうものではない。もともとコーポレーションは、僧院や大学といった非営利の、いまで言えばNPO的な寄り集まりからはじまったという。だから株式やお金だけに還元できる即物的な存在などではないし、そんなものであった試しは一度もなかった。

会社の健全度を指標化する参考値でしかなかった数字が一人歩きをはじめ、数字をようすることが経営者の手腕であるという倒錯が、何度も指摘される。株主が儲かればいいのなら、製造業者は研究費を削って研究所を閉鎖すれば3年ぐらいは見かけ上は儲かる。あるいは食品業者なら、味の基準や安全管理の基準をさげればいい。あるいは先行き不透明なベンチャー企業なんて、モノになるかどうかわからないアイデアに引き続き投資するよりも、起業当初より価値が増えてるんだったら、もうばら売りにして、そのお金を株主で山分けすればいい。でも、会社ってそんなものじゃないでしょ、という割に人間くさい話。もちろん、こうした話は短期的な利潤追求が長期的な利潤を損なうという意味で、相変わらず利潤追求の目線の違いにすぎないという論理もありえるのだけど、それだけに還元できないのだと著者は繰り返し主張する。

CSRとかSRIといった社会福祉に資するような活動が最近の会社で盛んになっているけれど、そうしたドライな利潤追求からみたら不利となるような活動は、企業の競争力を落とすのではないか、という懸念に対して、「みんながやれば問題ない」という。だから、最近のCSRバブルはいいことだ、と。

たばこ会社が環境問題に取り組んでいるなんて話を聞くと、眠たいこといいやがってと思うんだけど、でも、企業は社会奉仕を最初はブランディングのためのポーズではじめるとしても、それはそれでいいのじゃないかという気がしてきた。人間社会に道徳や倫理があるように、法人にも、法人がひしめく企業社会にも、法人に道徳や倫理をもとめるべきだし、利己主義的で株主の顔色しかみないような法人は、身勝手な人間が人間社会でうまくやっていけないと同じように、うまくやっていけないような、そういう金融や法律の仕組みや、会社文化を作っていくことはできるように思える。いや、ぼくはむしろ必然的にそういう秩序が生まれてくるのではないかという気がする。ただ儲かっている会社よりも、いい製品やサービスを提供しているとか、社会的に有意義な会社に投資をしようと思うような経済的に不合理な感性が、人間には生来備わっているように思うから。

森毅『数学の歴史』(講談社学術文庫、1968)

数学は古代ギリシアに生まれ、その後も確かな歩みで発展してきた、なんてことはない。自然科学は素朴に事実だけを積み重ねる営みではない。2000年(あるいは3000年)の数学の歴史というのは「発展」などという言葉で総括できるような単純な歩みではなかった。数学の歴史には、人間社会や地域の文化、時代思潮といったさまざまな要素が影響を及ぼしてきた。文明や民族ごとに異なる特質をもった数学が、互いに影響を及ぼしあってきた。

数学史を、そんなふうに大きな歴史の流れに重ねて描いた本を読んだのは初めてだけど、複雑多様な歴史のプロセスから、大きな流れと意味を抽象する森先生の力強さや鋭さに、岡倉天心のアジア論に通じる深い知性を感じるものでござました。天心同様に、しびれるような詩的なフレーズが随所にちりばめられてもいて、読んでいて何度も鳥肌が立つような本だった。

しかし、こんなに難しい本を読んだのは久しぶりかも。数式も幾何学図形も一切登場しないのは、一般向けの自然科学系読み物ではよくある話で、それは、数学的知識が十分でない人も読者として排除しないという配慮だったりする。ところが、この本。数式がひとつも出てこないというのに、読者に要求する数学的知識の高さは尋常じゃない(笑)

そもそも、ギリシアで数学がはじまったという単純な考えを、森先生は採らない。ギリシア数学の起源はエジプトにあったし、その発端自体は、他の古代文明がもっていた数学と異なるものではなかったろうという。にもかかわらず、何をもってギリシア数学は偉大であったのかというと、それは「体系」と呼ぶに値するものを備えたこと、そしてその完全性がひとつ。自分たちの世界観や哲学を表現しうるほどの体系となった。もうひとつは、近代数学に通じる概念に到達したこと、だそうだ。

古代ギリシアというのは、現在ギリシアと呼ばれる国と地理的に完全に一致するわけではない。「ギリシアで生まれた数学」がたどった運命を、ざっくり総括したこんな言葉が印象的。

歴史はもっと皮肉であって、「民主的」アテナイは観念論イデオローグとしてのプラトンを出したが、学問的生産が行なわれたのは「神権的」アレクサンドリアであり、「文化的」ローマにいたってはギリシア数学没落の責任者である。

アルキメデスがローマの兵に殺されたのは象徴的な出来事だと言う。いまでもヨーロッパ人は、自分たちはローマを介して古代ギリシアの正統な後継者であるような顔をしているけど、ヨーロッパなんて歴史の大部分を通して、文化的、文明的にそんなに立派な場所だったわけじゃないよな。

古代において、ギリシアが実用や応用を忌み嫌ういっぽうで、中世、つまりアラビア世界においては数学は、何よりも商人たちにとって実用のツールだった。森先生のこんな言葉が、数学発展の意外な面を教えてくれる。

ギリシアが現世から遮断された純粋性の中に体系を見いだしたのと反対に、イスラム人は課題に密着することによって問題解決の技術に数学を見いだした。(中略)そして、この思弁的でない世界で「数概念」は成熟した。負数や無理数に「数」としての権利を獲得させたものは、哲学や体系ではなく、この日常性であった。

商人たちのプラグマティズムが「虚ろな数」に権利を獲得させた。むはー、いいなぁ、笑える。こういう出自を考えると虚数とか超越数に必要以上に神秘を見ようとする小川洋子的憧憬って、やっぱりお笑いだ。

現代数学が本格的に花開くのは17~19世紀ヨーロッパ。森先生はざっくり総括して、それぞれの世紀を、端的にこう呼ぶ。17世紀は「原理の世紀」。それに続く18世紀は、オイラー、ラグランジュ、ダランベールらの輝かしい成果があふれだした、「事実の世紀」。そして19世紀は「体系の世紀」。20世紀は後世の人の評価待ちとしながらも「方法の世紀」かもねと。

あらゆる数学分野でその名を冠した基本定理がある、というほどの業績を残したオイラーはもとより、19世紀に革命的な数学を創始したようなガウス、コーシー、アーベル、ガロア、ロバチェフスキーらすら、森先生は、創始者としては、あまり評価していないらしい。こうした数学者たちは、啓蒙主義時代の数学者たちの後継だという。先人が蒔いた種によりもたらされた果実を収穫したのであれば、真に革命的であったのは、種を蒔いた啓蒙時代の先駆者たちだというわけか。

そういうわけで、森先生はライプニッツの「超時代性」をものすごく評価している。形而上学ですら記号化しようとしたライプニッツこそ、後に続く数学の土壌を準備したというのはまだわかるような気もするけど、モナドやエネルギー概念やら、二進法の話やら、それがいったいどれほど数学と関係するのか、よくわからない。

大学で数学の勉強というと、18~19世紀に現れたきら星のごとき数学者たちの定理なり概念を理解することだという印象がある。基本定理には数学者たちの魂が刻まれている。では、20世紀、あるいは21世紀にはそうした天才的数学者はどこに行ってしまったのか。いまでも数学という営み自体は行なわれているはずなのに、どうしてわかりやすい形で、たとえばガウスやガロアのように彼らは輝いてみえないのか。日本で言えば小平邦彦、広中平祐のような人々でさえ数学関係者しか名前を知らないのじゃないかというほどマイナーだし、300年の難問を解いたワイルズだって、一時ニュースになって忘れ去られる。

現代社会にとって数学は何なのか、数学者とは何者かということについて、終章の「いかに、数学は現代につきささっているか」で、森先生はペシミズムとも恬淡とも言えないトーンで、こう書いている。

数学技術者の爆発的増加ばかりか、社会そのものが数学と結合することを背景として、<数学の大衆化>が必然となる。功利主義にしても、かつては大数学者の頭と魂に潜んでいた思想の微妙なゆらぎを、外的な構築として顕在化し、大衆の眼前においたのだった。そしてそのことはかえって、「数学者」の個別価値を突出させなくもする。そして数学が物質化していく中で、「数学の魂」を懐かしむことは、現代人にとって気恥ずかしいことだ。これが現代人の贖ったものだった。

こうして現代人にとって、数学は彼につきささっている。いまではすでに、数学は社会構造の一部であるから。

「気恥ずかしいこと」と言ってるけど、ここに数学者の嘆きのようなものを読み取るのことを、ぼくは深読みとは思わない。

投稿者 ken : 2005年07月24日 23:08

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