2005年06月30日
90's
取材で渋谷の円山町あたりへ。文化村から道玄坂へ抜けるあたりのラブホテル街は、東京在住者ならよく知ってると思うけど、1本路地を入るとさらに深い世界が広がってるって知られてないんじゃないだろうか。びっくりしたよ、ぜんぜん円山町を侮っていたかも。
なんだか“ナインティーズ”といいたくなるような、バブル時代の残滓のような、そんなクラブイベントな記者発表会。フライヤーとかVJとか、もういいよって感じ。
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2005年06月29日
読者の権利に追加
何か本を読んだら、ざっと振り返ってサマリー的な文章を書く ようにしようと思って、いままでそれなりにそうしてきたけど、こ れがけっこうめんどうくさい。めんどうだと言ってる間に読んだ本 が、線を引かれた箇所や折られたページすら読み返されることなく 積まれていくというのも何なので、手短な感想しか書く気にならな くても、それはそれでいいかという気になってきた。
ダニエル・ペナックが唱えた読者の権利10カ条に、第11条とし て「本の感想を1行で述べて片づける権利」も付け加えたらどうか。 と思ったら、第10条「読んだことを黙っている権利」というのとほ とんど同じか。罪悪感を感じることなんてない。勉強した気になっ て、すべて内容が脳みそから流れ去っても、まったく読まなかった よりはきっとマシ。それでいいんだ。
- 読まない権利
- 飛ばし読みする権利
- 最後まで読まない権利
- 読み返す権利
- 手当たり次第に何でも読む権利
- ボヴァリズム(ボヴァリー夫人みたいに小説に書いてあることに染まる)権利
- どこでも読んでもいい権利
- あちこち拾い読みする権利
- 声を出して読む権利
- (読んだことを)黙っている権利
宮台真司、宮崎哲弥『M2 われらの時代に』(朝日文庫、2004)
サイゾーの対談連載。いつも楽しみにしている対談で、わりと 欠かさず立ち読みしているつもりだけど、連載開始当初の古いぶん は、けっこう読んでなかったらしい。
対談した当人たちは意図的にやったと告白しているけど、とく に最初のほうでは「この議論をするなら、これぐらいの思想史的流 れや概念を理解しておいてくれよ」というような、やや講義モード が入っている。勉強家の宮崎が、またよく知ってて何でも手際よく まとめるんだな。
森村進『自由はどこまで可能か―リバタリアニズム入門』(講談社現代新書、2001)
はじめてのリバータリアン入門。おもしろい。見事によくまと まった本だ。
ぼくはパナーナリスティックな代表制議会政治や官僚制って、 社会運営方法として、そう悪くないと思っているけど、確かにもは や社会も経済も(人間の幸せの最大化のために)人間の頭で、どう あるべきかを考えられるようなものではないのかもしれない。人為 や作為よりも、マルチエージェントな市場に任せろ、と。経済だけ じゃなく、政治も教育も。
リバータリアンにも、理念よりも結果としての有利さを主に主 張する人々と、自己所有権テーゼと、それから当然に帰結される自 己決定権を道徳的に自明な自然権だとして主張する人々とで分類で きるらしい。ぼくはてっきりリバータリアンはみな「帰結主義」と 呼ぶべき立場で論じているものだと思っていた。
自明の自然権なんてあるのか。時代思潮や、既存の概念、社会 通念に強く依存するような、「自然さ」は、議論として弱くないか。 というので、ぼくは何であれ「権利」を自明に考えることはおかし いと思う。道徳も同じだけど、なぜ人間はそれを自然権と「感じ」 るのかを数理モデルといわないまでも、原理的に分析して、その戦 略上の優位を明らかにして、それに改めて個々人が合意するほうが はるかにいいと思う。要するに、「こうあるべきだから」ではなく、 「こうするといい結果がでるのだから、権利はこう規定しようじゃ ないか」と議論してほしい。
ロールズの正義論が説得力を持つのは、人間心理の数理モデル にもとづくからだと思う。
リバータリアニズムの根幹をなす自己所有権テーゼに、違和感 を感じる。自分の身体は自分のものだろうけど、自分のもってうま れた才能や健康、美貌など、そういったもの、とくに現代社会で、 もっと重要な要素、成功に結びつく稼得能力にかかわる頭脳は、は たして本当に自分のものなのか。もちろん誰に侵されるべきもので はないけれども、英語で「gifted」というように、こうした才能的 なものが天から授かる運任せのものであるなら、それに運良く「当 選した」というだけのことで、どうしてその人がその全権利を主張 できるのか、それがわからない。たまたま適当に飛び乗ったクルマ のエンジンがいいか悪いかだけで、レースの結果が決まるとき、そ んなレースを公平だと思うだろうか。いいエンジンに乗った人間が、 性能の低いエンジンで苦労している人間に、手をさしのべる道徳的 理由はないというのだろうか。
ロールズを論駁したという、リバータリアニズム中興の祖(?)、 ロバート・ノージックの著作を読まないと。
カタログハウス編集『大正時代の身の上相談』(ちくま文庫、2002)
笑っちゃいけないけど、笑っちゃう、大正時代の人々のお悩み。 いまの悩みだって、100年後の人々には笑いのタネとしかならない のかもしれないよな。リバータリアンの本で描かれる強い個人主義 のもとでの家族像なんかを考えると、平成の「家族」「結婚」に関 するお悩みなんてのも、そもそも悩みとして成立しない時代が来る のかもしれないなぁ。
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2005年06月27日
専用工具不要
朝、INAXメンテナンスの人が来て、シャワートイレの取り付け。タレントの 恵俊彰を20歳若くしたような爽やかなお兄ちゃん。自分でも2度ほど格闘して、 「専用の工具でもない限り、そもそもTOTOの便座がはずせない」と結論づけてい たので、いったいどうやってはずすのか興味津々。
さっそくINAXのメグミ君は、さかさかっとウレタンのシートを狭いトイレに 敷き詰めて道具を取り出す。仕草がプロっぽい。聞けば、1日に7件ほどトイレの 取り付けするんだとか。もう安心だ。すべてはプロ任せだ。任せたメグミ。
長い取っ手のついた反射鏡で便座の裏のネジのタイプ確認しつつ、メグミ君 は、ぶつぶつと専門用語をクチにする。ほら、やっぱりはずれないよねぇなどと 思いながら見ていたら、「これはTOTOさんの比較的新しいタイプの便座ですね」 と言ってガタゴトと便座を前後に揺らしはじめた。ほどなく、ガコッと便座が前 に滑り出した。便座は前にスライドすれば、はずれる仕組みになっているのだっ た。裏からネジを取るのではなく、スライドしてあげて、上からネジを取る構造 なのだった。
あっけなく問題が解決。専用工具どころか、ドライバーの1本も要らない。た だ、前にずらすだけ。便器の下に寝そべって、とれっこないゴム栓をニッパでゴ リゴリ削ろうとした、あのぼくの苦労は何だったのだ……。
いくらインストラクションビデオで、裏からネジをはずすのだと教えられて いたとはいえ、あまりの自分の頭のカタさに愕然。なんで、ぼくは試しもしなか ったのだろうか……。ちょっとガタゴトやってみれば、気づいたかもしれない程 度の話。というより、構造から考えて、ゴムが取れない以上、上からネジを回す 以外にない、としたら、便座そのものはスライド式じゃないのか、と推測できて もおかしくなかった。と思うのは後知恵というやつか。
結局、30分ほどで作業はサクサク完了。分岐管を新旧いずれのほうを使うべ きか、壁掛けリモコンのネジ位置は、どう調整すべきかなど、それなりにプロっ ぽい判断を要する試行錯誤もあったし、取り外した便座も持って行ってくれるし、 こういうのって、やっぱりプロに任せるのが楽だなぁ。
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2005年06月25日
ゲーセン上のアリア
新宿中央公園へ。ナイアガラの前でいつものジャグリング練習。 たっぷり3時間ぐらい。片手で3つが少し続くようになった。
新宿で買い物して食事。いつも満足度の高い中華が、なぜかち っともおいしくない。水分を採りすぎておなかがはってたのか。
夜、ピアノ練。カシオの電子ピアノが届いて1週間以上も経つけ ど、今日で2度目。妻が入門者用の楽譜で「G線上のアリア」をやっ ていたので、ぼくも試してみた。楽しい。とても好きな楽曲なので、 自分が指を運んで、快いメロディーが出てくるのが快感。かつてギ ターをやっていたから、むかし取った杵柄というやつで楽譜は何と なく読める。指の動きと順番を確かめながら、左右の手でリズムを ……、あれ、リズムを……、あれれ、と、左右を一緒に動かそうと すると、なかなかできないんだけど、入門者用のアレンジなものだ から、じょじょに弾ける部分が増えていって、「あれっ、弾けるじ ゃん!」という悦びが。楽しいかも。
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2005年06月24日
くっつきの“を”
職場で「和音のオっていいますよね」と騒いでるバイトがいて 何かと思ったら、「わをんの“を”」だった。
使っている本人たちは方言と知らずに使っている「透明な方言」 と呼ばれるものと同じで、助詞の“を”の呼び方は、みんな全国一 律に自分の呼び方と同じだと思っているけど、実は全国で少なくと も3つか4つの流派がある。地方によって呼び方が違う。
ぼくは小学校で「くっつきの“を”」と習った。大阪の小学校。 周囲のオトナもそう言っていたように思う。でも冷静に考えると、 それはたぶん錯覚。母親や担任教師以外の親と、「くっつきの“を”」 について話をしたシチュエーションが考えつかない。というか、オ トナと子ども、オトナ同士で「くっつきの“を”」が口の端にのぼ る機会は限られている。だからこそ、これは透明な方言のような状 態になっているのだと思う。
久しぶりに検索してみたら、「わをんの“を”」「くっつきの “を”」のほかにも「小さい“お”」「重たい“お”」「濁った “お”」などの呼び方もあるらしいことがわかった。濁ってないし 重たくもないし、小さくもないのに、と思うけど、そうやって小学 校で教わった人たちは「いちばんこれがいい呼び方なのに」と思い 入れを語っていたりする。ぼくも自分が習ったもの(「くっつきの “を”」)が一番と思う。
この5つをもう1度冷静にみてみると、大小、軽重、清濁という 対立で“お”と“を”をとらえているグループと、そのものズバリ を位置(センテンス中、あるいは五十音表順)で示すグループにわ けられる。対でとらえるほうは、2つの“O”を本質的に同じとして、 同根からでてくるバリエーションなのだととらえてるんじゃないだろうか。 としたら、この2つのグループはかなり違う。
ここでふと思った。子どものころのぼくの意識では「を」は、 「お」の特殊な表記でしかなかった。「デンワお、かける」とくっ つくときには、なぜだか知らないけど「お」は「を」というヘンな 字を使う。そういう風にしてこのルールを覚えたような記憶がある。
いまどうかといえば、「を」は「お」と同じ音だと改めていわ れると違和感がある。同じ字ではないから、当然音も違うというか、 何か両者は違うものとして感じられている。オトナになって使い慣 れ、文字情報への依存率が高まると弁別しすぎるんだろ うか。キーボードでタイプするときにクリティカルなのは、本当は 音のはずだけど、あまりにも自然にWを叩いている。なぜだろうか。
日本語の歌に英語風の音をかぶせたのは桑田じゃないかと思う けど(違うかな?)、ある世代のロック系シンガーたちは、かなり このWを発音していた。あれは純粋にデコレーションだったのだろ うか、それとも何か内的な弁別願望の表れだったのだろうか。近代 日本語で音韻上の区別がなくなってからもなお、表記上で区別する 習慣が廃れないように、そこには惰性で説明できる以上の何か弁別 への欲求があるんじゃないだろうか。間延びした“お”は歌詞の文 節区切りを曖昧にする……、そりゃないか。
そもそも、「てふてふ(蝶々)」のように音韻の変化とともに 廃れた表記があるのに、助詞だけはなぜ古い表記が温存されている のだろうか? 明治期の言文一致とかを調べればわかるのかしら。
いやいや、よくよく思い出してみると、ある一時期、「それっ てくっつきのおぉやんなぁ?」、「それ、くっつきのおぉちゃうで」 と口にしながら、親や友達に、ひとつひとつ確認していたようにも 思う。
文字のない状態では「お」には区別がない。でも、文字を習う 前の子どもたちが助詞の「を」の使い方を習得していないわけでは ない。「を」という表記は不要じゃないだろうか。今さら「を」は 捨てよう、というと暴論ぽく聞こえるけど、それは「小さい“お” という呼び方は、今日からくっつきの“お”に統一しましょう」と 言われたときに、小さいお派の人々が感じる理不尽さ程度のもので しかないのかもしれない。
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単なるお祭りでいいの?
ディスククラッシュを免れて、別のハードディスクに残っていた memo.txtに、ちょうど1年前に書いた文章が残っていた。ここ数年 報道される機会も多い「大江戸打ち水大作戦」に関するもの。今年 も「大江戸打ち水大作戦2005」をやるようだし、議論自体は古びて いないし、議論のテーマは打ち水でもない。ひとつのサンプルとし て残しておきたい、何となく。
「大江戸打ち水大作戦2004」って、楽しげでいい。ヒートアイラン ド現象うんぬんのかけ声はともかく、崩壊してしまった「ご近所さ ん」というコミュニティーへのノスタルジーを、みんなが感じてい るんじゃないだろうか。昭和ブームに通じるものがあるように思う。 打ち水をしながら、「今日も暑いですねぇ」と挨拶をしたい。風鈴 の音が聞こえてきて、垣根の前で打ち水をするサザエさん(なんで サザエさんやねん)……。そういう日本人の持つ原風景を、もし都 会で復元できるとしたら、すてきな話じゃないか。打ち水の涼しさ は、みんな知っている。
だけど、18日に始まったこの「お祭り騒ぎ」の報道を見ていて、や っぱりこの国では祭り好きの人たちが一時的に盛り上がることはあ っても、冷静に議論しようという風土はないんじゃないかと思えて きてゲンナリした気分になってきた。こんなモノを「知恵」だなん て言ってる日本国民が、なんだか恥ずかしい。
主催者メッセージには、こうある。
ヒートアイランドよ、さらば! 涼しい笑顔たちよ、こんにちは。 地球温暖化現象に対抗する、江戸の庶民の生活の知恵。天をゆるが す地上最大の作戦!
これは象徴的なメッセージだと思う。ヒートアイランド現象と「地 球温暖化現象」とは基本的にまったく別の話。もちろん通底はして いるけれど、これを一緒くたにすべき文脈では、まったくない。こ れを情緒的思考と言わずしてなんと呼んでくれようか。大げさでバ カバカしい文句が並ぶのは、最初このプロジェクトがジョークから 始まったからなんだろうけど、それにしてもひどすぎる。
「さらば」と言ってるからには、ヒートアイランドに対して一定の 効果があるということを示さなきゃいけないわけだけど、効果につ いては「あるらしい」とそれらしいデータを示すばかりで、具体的 にどうだという話になると「定かじゃない」ということを毎年プロ ジェクトをやってる人たちが平然と言ったりしている。「やってみ なきゃわからない」と言いながら、「風をおこそう」を合い言葉に、 勢いだけで全国十都市に類似プロジェクトが広がっているという体 たらく。
2度下げるという目標のところ、「35.4度だった新宿区都庁前の広 場では、最低34.8度まで下がり、効果が実証できた」と、 asahi.comは報じている。広場というきわめて限定的な範囲で0.6度 下がっただけで、何の「効果が実証」されたんだろうか。これは誰 が言ったんだ、責任者出てきやがれ。打ち水すれば涼しくなるのな んて、誰でも知ってるんですよ。知りたいのはヒートアイランド現 象対策として有効かどうか、じゃなかったのか。asahi.comは、ど うして「効果が実証された」なんて言葉を使うんだ?
UCHIMIZU.COMのページには、いろんなデータが載ってるけど、観測 データはきわめて限定的で、お話にならない。2度下げられるとい う予測の根拠も「都内で散水可能な280万平方メートルにつき、1 平方メートルあたり1リットルの水をまいた場合」と、めちゃくち ゃ非現実的。ホームページには赤外線サーモグラフィのもっともら しい絵が並ぶけど、説得力ゼロ。むしろ正反対の結論を証明してい るようも見える。ヒートアイランド対策としての実際的効果、経済 効果なんて話になると議論の材料さえそろっていない。100万人× 30分の人件費を、ほかに回そうよ。ふつうに募金をするか、あるい は公的資金をさいて、研究プロジェクトを立ち上げるほうが、ずっ と有意義だろうに。というか、これほど科学的・実証的な検証が先 立たない行動ってありなの? それで100万人もの人を動かそうとい う、プロジェクトの中心にいる人たちの無責任さはどこから来るん だ?
ヒートアイランド現象に対するそもそもの問題意識も、ぼくには不 明な点が多い。都心の気温が2~3度あがったことをもって、「便利 な暮らしを求めたために、かえって過ごしづらくなった」としてい るけど、本当に暑くて過ごしづらいか? ヘンだなぁ、ぼくの周囲 には、むしろ「寒い、寒い」と言ってる人が多いけどなぁ。都心で 農作業をやってる人たちには申し訳ないけど、冷房の効いてない場 所を歩く時間が1日に何時間ありますかと聞きたいよ。ノスタルジ ックに文明批判する輩が多すぎる。我々が文明の力で失ったものが、 文明で得たものより本当に多いと思ってるのだろうか。
「ともかく行動だ」と言って、何をやるかと思えば集会とパネルト ーク大会。で、その社会的効果は何だというと誰もわからない。尻 すぼみになってムーブメントが終わる。この打ち水ムーブメントも、 そういう日本の政治運動、社会運動の典型パターンじゃないだろう か。ホームページに寄せらるのは断片的な感想の数々と写真だけ。 お祭りなんだな。集まって盛り上がれればいい。みなが本当に問題 意識を共有して、少しでも現状を変えるために真剣に議論している かといえば、全然そんなことはない。ただ、盛り上がって「これじ ゃあいかん、立ち上がれ」と、そのときだけ叫ぶ。烏合の衆やんか。
かけ声をかけるのには、2つの意味がある。声を出すことによって カタルシスを得るという目的。もうひとつは、誰か第三者に伝える ことによって他者や社会に影響を与え、ひいては自分が(正しいと) 思う方向に他者の行動を動機づけるという目的。社会運動は、後者 でなければならないのに、打ち水をして自己満足に浸っている人た ちは、ことごとく前者。100万人が盛り上がって何をやってるかと 言えば、「なんか浴衣を着て盛り上がってる」というだけ。
ヒートアイランドをはじめ都市の抱える同じ問題に直面する多く の街がつながって、打ち水というムーブメントはきっと大きな風に なるでしょう。そして日本でおこった風がやがて海の向こうにも届 くことを願っています。「UCHIMIZU」が世界の言葉になる日もそう 遠くないかもしれません。都市の抱える問題とは具体的に何で、それと打ち水がどう関係する のかということが、「風」という情緒的な言葉でごまかされている ばかり。こんなものをムーブメントと呼ぶ価値が、いったいどこに あるんだ。「何もやらないよりはいい」「些細なことだけれど、や ろうよ」「環境に対する意識を喚起する意義はある」というような あやふやで口当たりのいい言葉を並べるだけで、いったい世の中の 何を変えられるんだろうか。こんな恥ずかしい「風」だったら、世 界に届かないでほしいとすら思う。
結局、お祭りでしかない。なんだかワクワクしてみんなで行動する。 正しいかどうか、意味があるかどうかなんて、別にどうだってよく なってくる。いや、最初から本義なんて、どうだっていい。
お祭りで盛り上がるのはいいし、ぼくだって浴衣でも着てみんなと 打ち水して「江戸」を感じたいもんだけど、ホントにそれでいいの? ホントにそれだけのことを、こんなに騒ぎを大きくする意味ってあ るの? マジメに新聞で報道する意味って何? こういう単細胞的お 祭りによって、本当に必要な議論が隠れてしまってない?
もっと問題なのは、合理性で政策を決定すべき官僚のような人たち が、賛同しているように見えること。そりゃ政治的問題からいって 賛同しないわけにはいかないのかもしれないけど、何というか。
投稿者 ken : 12:00 | コメント (0) | トラックバック
2005年06月23日
そろそろ公開
まだCSSをいじろうと悪あがきしているけど、デザインのセンスに乏しいため、テンプレートに手を入れるとダメだ。どこかいじるとバランスが崩れて、それを調整するために別のところをいじると、もっと悪い方向にバランスが崩れて、そして最終的に決定的に修復不能になる。というほど何度もいじってるわけじゃないけど。
ジャグリング練習日記のほうで、だいぶ慣れたので、こっちのふつうのブログのほうも公開してみます。
投稿者 ken : 11:00 | コメント (0) | トラックバック
2005年06月20日
字が小さいよ
MovableTypeのCSSってデフォルトでは、なぜx-smallとか、やたらと小さいフォントを使ってるんだろう。 そもそも、CSSの定義が英語圏というか、アルファベット圏向けっぽいのが気になるところ。と、思って、ちょっと検索してみたら、MT用CSSを公開しているサイトがあった。
あったんだけど、 MT3に未対応とか。がっかり。結局、本家のサイトで、ダウンロードしてみた。でも結局は自分で手を入れないと駄目っぽい。
とか書いてるあいだに、ちょっといじってみた。どうかしら。 なんかごりごりとHTMLを埋め込めるらしい。
- 手書きにしてもいい
- 外部エディタでHTMLモードを使えばいい
- アイコンを押せばURLのリンクなんかは簡単
さっそく字をデカくしてみた。うーん。なんとなくブログぽくなく 見えるのはナゼ。
投稿者 ken : 21:31 | コメント (0) | トラックバック
2005年06月17日
ブログはじめました(たぶん)
HDDがクラッシュして、日記生成スクリプト関係が全部飛んでしまったので、 これを機に、人もすなるブログといふものを。
MovableTypeです。
せっかくなら、マイナーなブログツールを試したらどうだとか、 どうせMTならレンタルでいいじゃんとか、いろいろツッコミどころも ありそうですが。
とりあえず、テスト。